第8話 「ただいま」が言える場所
ある日の、如月結弦の住むマンションの一室。
朱璃はチャイムを押してそこへ入る。
「お邪魔します」
「あらやだ、そんな言い方したら結弦くん泣いちゃうわよ」
朗らかに笑う美和子に、朱璃は苦笑いを浮かべた。
「……本当に泣きそうだから、困るのよね」
「結弦くん、朱璃中心で生きているからね」
スリッパを出しながら美和子も笑う。
その顔は、苦笑ではなく楽しそうな笑みだった。
「じゃあ、……ただいま」
「はい、おかえりなさい」
玄関に靴はない。
リビングの方にも気配はないし、出てくる様子もない。
「お父さんは、お仕事?」
「ええ、今日は大阪で仕事。
わたしは、ちょっと……抱えてる仕事が……」
そう言いながらも、美和子の目は泳ぐ。
「……本当に、仕事だけなの?
大阪でもどこでも、基本リモートだから着いて行っていたよね」
う、と美和子の言葉が詰まる。
朱璃は、どこかで覚悟していたんだなと思ったより乱れない自分の心に悟る。
「……詳しくはお父さんの口から聞くね」
「ま、まぁ……玄関先ではなんだし、早く上がって!」
パタパタと奥へ走り出しそうな母を止める。
「……あんまり、走るのは良くないんじゃない?
……若くないんだし」
トドメを刺すような朱璃の一言に、美和子はがっくりと項垂れた。
美味しいケーキと、ルイボスティ。
きれいな白いカップに、朱が映えた。
どこかかわいらしくてピンクや薔薇デザインが目立つ部屋に、実家だなぁと朱璃は息を吐いた。
少しだけ苦手だった可愛すぎる部屋なのに、戻ってきた感じがして落ち着くのがおかしかった。
「このケーキ、かわいいね。
マンゴーが、薔薇の花みたい」
黄色い薔薇のようなフルーツが盛られた、ふわふわのスポンジのケーキ。
クリームは重すぎず軽すぎず、舌の上で甘く蕩けて絶妙だった。
軽くフォークで突きながら話すと、美和子が嬉しそうに微笑む。
「前にね、結弦くんのマネージャーさんからいただいたの。
持ち帰りできるのはケーキだけで、本当は店内限定のタルトが美味しいらしいから……結弦くんが今度朱璃を誘うんだって意気込んでいたわよ」
「……あはは、行くかどうかは保留にしておく」
これだけ美味しいのなら、きっと店内限定のタルトにはたくさんの人が集まるのだろう。
大勢の人に囲まれて、如月結弦の娘として注目されるのは……遠慮したい。
「えー……朱璃なら見つかっても許されそうなのに……羨ましい……」
ぽつんと零れた母の本音。
本当は、父の方も母を誘いたいのかも知れない。
「……美和ちゃん、本当にお父さん好きだね」
「そりゃ、そうよ」
ふふふ、と笑う母の姿から、朱璃は手元のカップの中に視線を落とした。
揺れる水面が、室内照明を反射してキラキラと光を放つ。
「……私のせいで、お父さんと離れて暮らした時。
……本当は嫌だったんじゃない?」
朱璃の実の父親は悠なんじゃないかと、父が疑っていたのを知りながら、悠を頼らざるを得なかった事実。
事実婚のカップルの行く末としては、破滅としか思えない選択。
「……名字まで、沢渡になって……お父さんが誤解するって、わかってたよね」
朱璃の言葉に、カップを軽く傾けて、そして少し考えてから、美和子は口を開く。
「……うん」
水面は揺れた。
「……朱璃は、大事な娘だから。
朱璃を本当に失ったら、結弦くんは立ち直れないと思ったの」
たぶん、そう。
父は、朱璃に冷たい言葉を投げかける時はあったが、それ以上に好きだ愛してると言葉だけでなく叫んでいた。
それこそ、身を切るくらいに。
「……朱璃のためだけって言えたらいいのにね。
……ダメな母親で、ごめんなさい」
「……ううん。
正直な美和ちゃん、嫌いじゃないよ」
だからこそ、思う。
自分が両親を、長く引き離した。
「……お父さん。
美和ちゃんがいなくなったの、よく耐えたよね」
父を知っているから、余計に信じられなかった。
絶望して、極端に走ってもおかしくない。
美和子は、少し言葉を選ぶように間を開けた後、小さく口を開いた。
「……結弦くんはね、なんだかんだ“如月結弦”は完璧にやり遂げる人だから。
プライベートはどうだったか……わたしには心配をする資格も、知る資格もないんだけど。
……仕事には絶対妥協しないの知っていたから……ね」
母の言葉に、朱璃は視線を彼女へと戻す。
少しだけ疲れたような顔をした彼女は、朱璃が思っていたよりも年相応に見えた。
「……お父さんのこと、信頼していたんだ?」
「どうかな?」
ふふ、と再びいたずらっぽい笑みを浮かべる姿は、やはりいつもの母だった。
「……芸能人なんて、誘惑多そうなのに。
美和ちゃん、お父さんが別の人と家族作るとか思わなかったの?」
朱璃の言葉に、美和子はぱちりと瞬くと、笑みを濃くした。
「結弦くんが、朱璃を放って他の人と家族とかありえないよ。
……それをしたら、結弦くん自身への裏切りになるから」
朱璃は、その笑みに背中がすっと冷たくなった。
「……朱璃を産んだわたしを忘れたら、結弦くんじゃないよ」
「……怖っ!」
一瞬の闇を溶かすように、甘いケーキとお茶の温もりが広がる。
テレビを付けたら、如月結弦が穏やかに笑っていた。
ちょっとしたバラエティ番組の、トークタイム。
娘とデートしたんです、といつかの水族館について語る父に、朱璃はしょうがないなという笑みを浮かべた。
欲しがる俺のQ.E.D.番外編 ―今日から明日へ― 黒崎 優依音 @yuipoyonyanko
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