第8章 二枚のチケット

それから、しばらく経ったある日のことだった。

特務0課の休憩室で、西崎は机の引き出しを開けた。


奥から取り出したのは、一枚の封筒。


中には、水族館のチケットが二枚入っている。


後輩から押しつけられたものだった。


付き合っていた相手と別れ、もう使わないらしい。


『二枚あるんで、西崎さん、よかったらどうぞ』


『は? いや、俺は……』


そう言われて受け取ったものの、使う当てはなかった。


一人で水族館へ行く趣味もない。


そのまま引き出しの奥へしまい込んでいた。


――だが。


今日になって、ふと、しのぶの顔が浮かんだ。


西崎は手の中のチケットへ目を落とした。


行ってみるか。


そう思った瞬間、自分でも少し驚いた。


任務ではない。


怪異も出ない。


ただ、水族館へ行く。


それだけだ。


それなのに。


誘ってみたいと思った。


しばらくチケットを眺めてから、西崎は小さく息を吐いた。


「……どうする」


誰に聞かせるでもなく呟く。


断られるかもしれない。


それでも。


会いたい。


その気持ちは、思っていた以上にはっきりしていた。


*


「水族館?」


しのぶは差し出されたチケットを見て、目を瞬かせた。


「ああ」


「二枚あるのね」


「……そうだ」


「誰かと行く予定だったの?」


「いや」


西崎はわずかに視線を逸らした。


「後輩からもらった」


「そう」


しのぶはもう一度、チケットへ目を落とした。


「それで?」


「……もし時間があるなら、一緒にどうかと思って」


それだけのことを言うのに、妙に間があった。


しのぶは少しだけ可笑しくなる。


討伐の最中なら、あれほど迷いなく踏み込んでいくのに。


こういうことになると、どうしてこんなにも不器用なのだろう。


けれど。


その不器用さが、嫌ではなかった。


むしろ、少し嬉しい。


「いいわ」


「……え」


「水族館。行くのでしょう?」


西崎が、わずかに目を見開く。


「いいのか」


「誘ったのはあなたでしょう」


「ああ」


「なら、行くわ」


「……そうか」


短い返事だった。


それでも、しのぶには分かった。


西崎が、ほんの少し嬉しそうにしている。


胸の奥が、小さくあたたかくなった。


*


当日。


待ち合わせ場所に現れた西崎は、いつもとほとんど変わらない格好をしていた。


ただ。


妙に姿勢が硬い。


しのぶは数秒その姿を眺め、それから首を傾げた。


「どうしたの?」


「いや」


「緊張している?」


「……していない」


即答だった。


けれど、声が少し硬い。


しのぶは小さく笑う。


「そう」


「……何だ」


「別に」


それ以上は追及しなかった。


仕事のときなら、こんな西崎は見ない。


いつだって落ち着いていて、必要なことだけを的確に判断する。


そんな彼が、今日は少しだけ調子を狂わせている。


そのことが、妙に新鮮だった。


二人で水族館へ入る。


館内は薄暗く、青い光が水の底のように静かに揺れていた。


巨大な水槽の向こうを、魚の群れがゆるやかに横切っていく。


しのぶは思わず足を止めた。


「綺麗……」


「そうだな」


西崎も隣で足を止める。


「見て。あれ」


しのぶが水槽の奥を指さした。


「ああ」


「ふふ」


「何だ」


「さっきから、ずっと私のほうを見ていない?」


「……」


西崎は黙った。


しのぶは思わず笑う。


からかうつもりはなかった。


ただ、いつもは何を考えているのか分からないほど落ち着いている男が、今日は妙にぎこちない。


その様子が、なんだか可愛らしく思えた。


「こっちよ」


しのぶはごく自然に、西崎の腕を軽く引いた。


「次、あっち」


「……ああ」


引かれた西崎の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。


しのぶは気づかない。


そのまま水槽の前へ進み、楽しそうに魚を眺めている。


西崎だけが、取り残されたように立っていた。


*


「……俺は何をしている」


水族館のトイレ。


個室に入った西崎は、深く息を吐いた。


任務なら、どれほど危険な怪異を前にしても怯まない。


しのぶと共闘するときだって、必要なら迷わず前へ出られる。


なのに。


腕を引かれただけで、あの有様だ。


「……何をやってるんだ、俺は」


顔を洗い、鏡を見る。


落ち着け。


別に何かされたわけではない。


ただ、腕を引かれただけだ。


それなのに。


心臓が妙に騒がしい。


しのぶは笑っていた。


嫌味ではない。


馬鹿にしたわけでもない。


ただ、少し楽しそうに。


それを思い出すと、また胸の奥が騒いだ。


西崎は小さく頭を振った。


「……駄目だ」


完全に意識している。


会いたかった。


一緒に過ごしたかった。


だから誘った。


そこまではいい。


だが、実際に二人きりになってみれば、想像していた以上に嬉しい。


しのぶが隣にいる。


それだけで、いつもとは違う。


「……情けないな」


それでも。


今日は任務ではない。


怪異もいない。


ただ、しのぶと時間を過ごすために来た。


なら。


これくらいでいいのかもしれない。


西崎は顔を洗い、トイレを出た。


*


その頃。


しのぶは館内のベンチに座り、西崎を待っていた。


手にはパンフレット。


けれど、文字はほとんど頭に入ってこない。


「……変ね」


今日は任務ではない。


だからこそ、もっと気を遣うものだと思っていた。


けれど、実際は違った。


水槽を見て。


くだらない話をして。


西崎が妙に緊張しているのを見て。


それを笑って。


腕を引いて。


そんなことをしているだけなのに、胸の奥が妙に軽い。


誰かといることを警戒しない。


相手の言葉の裏を探らない。


自分がどう見られているのかを気にしない。


ただ、一緒にいて楽しい。


それだけでよかった。


そして。


西崎の表情を見ているのが、思っていた以上に楽しかった。


真剣な顔。


困ったような顔。


今日のように妙に緊張している顔。


ほんの少し笑う顔。


見ていると、不思議と胸のつかえがほどけていく。


「……どうして?」


答えは出ない。


ただ、もっと見ていたい。


もっと一緒にいたい。


その気持ちだけが、静かに残った。


しのぶは小さく息を吐いた。


「……本当に、変なの」


けれど、嫌ではなかった。


むしろ、この感覚をもう少し知ってみたいと思った。


しのぶはベンチに腰を下ろしたまま、行き交う人波をぼんやりと眺める。


周囲には家族連れや学生、恋人らしい男女の姿があった。


水族館特有の、どこか静かでやわらかな空気が満ちている。


西崎が戻るまで、少し待っていればいい。


そう思っていた。


それなのに。


「すみません」


不意に声をかけられた。


しのぶが顔を上げる。


若い男が二人、すぐ近くに立っていた。


年齢は大学生くらいだろうか。


二人とも、いかにも遊び慣れているという雰囲気ではない。


それでも、知らない相手には違いなかった。


しのぶはわずかに警戒する。


「……何か?」


「いや、さっきから一人でいるみたいだったから」


「連れを待っています」


しのぶはそれだけ答えた。


「そうなんだ」


男たちは顔を見合わせる。


「彼氏?」


「……違います」


即答だった。


少なくとも、今は。


「そっか」


男の一人が笑う。


「じゃあ、俺たちと来ない?」


「結構です」


しのぶは立ち上がった。


これ以上、応じる必要はない。


「もうすぐ戻ってくるので」


そう言って、その場を離れようとした。


そのときだった。


手首を掴まれた。


「……え?」


「じゃあ行こうか」


「離して」


反射的に振りほどこうとする。


だが、手は緩まない。


「やめてください。連れを待っています」


「でも、もう十五分くらい経ってるよ」


「だから何?」


「最初から一人だったんじゃないの?」


その言い方に、背筋が冷えた。


「俺たち、別に変なことするつもりないから」


もう一人が笑う。


「一緒に来たら?」


「嫌です」


しのぶは、はっきりと言った。


「離して」


腕を引く。


だが、今度は逆に強く引き寄せられた。


「だから、大丈夫だって」


「やめて……!」


周囲の視線が、ちらりとこちらへ向く。


けれど、誰もすぐには近づいてこない。


そのことが、余計に怖かった。


――西崎さん。


胸の奥で、その名を呼ぶ。


自分でも驚くほど、切実に。


西崎さん……。


その瞬間だった。


「その手を離せ」


低い声が落ちた。


空気が変わる。


しのぶの手首を掴んでいた男の手が、強引に引き剥がされた。


「な、なんだよ――」


次の瞬間、男の腕が鋭く制される。


「痛っ……!」


西崎だった。


いつもの無愛想な顔ではない。


鳶色の目が、凍るように細められている。


「その手を離せと言った」


静かな声だった。


だからこそ、怖かった。


男たちは顔を見合わせる。


「今すぐ失せろ」


男たちは腕を押さえたまま、逃げるように人混みの向こうへ消えていった。


西崎はそれを見届けてから、ようやく手を離した。


そして。


「しのぶ」


呼ばれて、しのぶが振り向く。


先ほどまでの凄まじい怒気は、もう消えていた。


「大丈夫か」


いつもの西崎だった。


けれど、しのぶはすぐには答えられなかった。


「だいじょう、ぶ……」


声が震えた。


顔が熱い。


胸が苦しい。


どうして。


どうして、こんなに。


「……怪我は?」


「ないわ」


「本当に?」


「ええ」


西崎はしのぶの腕を見る。


掴まれた箇所を確かめるように、ほんのわずかに眉を寄せた。


「痛むか」


「……平気」


「そうか」


それだけ言って、西崎は手を引いた。


触れようとはしない。


ただ、少し離れたところから様子を見ている。


その距離が、今はかえって苦しかった。


しのぶは俯いた。


胸の奥が、ひどく騒がしい。


さっきまで怖かったはずなのに。


今は、それとは別の理由で息がしづらい。


男たちに向けた、あの怒り。


自分を守ろうとしてくれたこと。


そして何より。


自分が危なくなった瞬間、真っ先に思い浮かんだ名前。


「……西崎さん」


「ん?」


顔を上げられない。


今、彼の顔を見たら。


何かが変わってしまうような気がした。


「……どうした」


「何でもない」


「そうか」


西崎は、それ以上聞かなかった。


そのことが、また胸に沁みた。


しのぶはそっと胸元を押さえる。


私は、恋愛なんて嫌いだった。


誰かに勝手に値踏みされることも。


女として扱われることも。


何かを求める目を向けられることも。


ずっと嫌だった。


なのに。


この人に守られたことは、嫌ではなかった。


むしろ、安心した。


その事実に、しのぶは息を呑む。


自分が危なくなったとき、この人を頼った。


この人が来たことに、心の底から安堵した。


それが何を意味するのか。


まだ、言葉にはできない。


ただ。


この人が自分の隣にいることを、嬉しいと思ってしまった。


そして。


いなくなることを、怖いと思った。


そこで、しのぶはようやく気づく。


自分はもう、とっくにこの人を特別にしていたのだ。


水族館の青い光が、水槽の中で静かに揺れている。


隣では西崎が、何も知らない顔で立っていた。


「……もう少し見ていくか」


「……ええ」


しのぶはようやく顔を上げた。


けれど、やはり西崎の目を見ることはできない。


その横顔だけを、そっと盗み見る。


なぜだろう。


今までと同じ顔のはずなのに。


どうしてこんなにも、目が離せない。


答えはまだ、言葉にならない。


ただ――。


この人を、特別だと思っている。

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