第7章 静かな時間
あの日、プールで水の怪異を討ったあと、二人は連れ立って食事をした。
ただ、それだけのことだった。
任務の延長といえば、それまでだ。
けれど、あの日を境に、しのぶはふとした拍子に、あの午後を思い出すようになった。
白いパラソル。
氷の音。
眩しい水面。
取り留めのない会話。
そして、その隣にいた西崎宗次郎。
思えば、二人の息が合うこと自体は、今に始まった話ではない。
討伐案件で顔を合わせるたび、細かな指示を交わさなくても動きが噛み合った。
西崎が一歩踏み込めば、しのぶが空いた側へ回る。
しのぶが術を放てば、西崎が自然と死角を塞ぐ。
どちらが次に動くのか、いちいち確認する必要がない。
最初のうちは、それを不思議に思った。
――どうしてか、この人とは、ぴったり息が合う。
けれど、何度か共闘するうち、それはもう驚くようなことではなくなっていた。
ただ。
仕事を離れても、その感覚が変わらなかったことのほうが、しのぶには意外だった。
一緒に歩く。
話す。
黙る。
それだけなのに、妙に自然だった。
沈黙を埋めようとしなくてもいい。
無理に気を遣わなくてもいい。
隣にいることそのものが、思っていた以上に心地よかった。
「……なんなのかしらね」
ひとりになったあと、しのぶは小さく呟いた。
答えは出ない。
ただ、あの日の時間を思い返すと、胸の奥が少しだけ緩む。
そのことが、不思議だった。
*
しのぶには、恋愛に対して素直になれない理由があった。
以前、一度だけ見合いをしたことがある。
相手は初対面から、しのぶ自身を見てはいなかった。
若さ。
家柄。
血筋。
妻としての価値。
まるで値札のついた品物を眺めるような目だった。
何を考えているのか。
何を望んでいるのか。
どんな人間なのか。
そんなことには、興味すら持たれていなかった。
胸に湧いたのは、恋への憧れではない。
怒りだった。
勝手に値踏みされ、自分という人間を見ようともされなかったことへの、どうしようもない怒り。
もう、恋愛などするものか。
あのとき、そう思った。
それ以来、誰かから好意を向けられても、しのぶは言葉の裏を考えるようになった。
何を求めているのか。
自分の何を見ているのか。
結局は、都合のいい何かを欲しがっているだけではないのか。
けれど。
西崎といるときだけは、その疑いが不思議なほど薄れた。
家柄を聞かれることもない。
血筋を値踏みされることもない。
女としてどうなのかと測られることもない。
ただ、しのぶという人間として向き合っている。
話せば聞いてくれる。
黙っていれば、黙ったままでいてくれる。
必要なときには手を貸す。
それ以上のものを、無理に求めてこない。
その距離が、心地よかった。
――この人といると、楽だ。
そう思った。
それは、しのぶにとって珍しいことだった。
「……変なの」
小さく笑う。
恋ではない。
少なくとも、まだ、そう呼ぶつもりはなかった。
ただ。
また会いたい。
任務とは関係なく、涼しい喫茶店でくだらない話をして。
何も起こらない時間を、一緒に過ごしたい。
そう思ってしまう。
その気持ちだけは、もう否定できなかった。
*
西崎もまた、あの日のことを思い出していた。
任務のない時間に、しのぶのことを考えることが増えた。
最初は、気が合うからだと思っていた。
それは事実だった。
共闘すれば、動きが噛み合う。
余計な指示を出さなくても通じる。
しのぶが何をしようとしているのか、見れば分かる。
何度も一緒に戦ううちに、それが当たり前になっていた。
だが。
仕事を離れても、同じだった。
プールで並んで歩いたときも。
食事をしていたときも。
何も話さずにいるときでさえ、妙に落ち着いた。
西崎は、そういう時間を心地いいと思った。
安らぐ、と言ってもいい。
普段なら、任務が終われば頭を切り替える。
次の仕事。
次の予定。
考えることはいくらでもある。
なのに、しのぶといるときだけは、不思議と何も考えなくていい。
黙っていても苦にならない。
無理に気を張らなくていい。
ただ隣にいる。
それだけで、肩の力が抜ける。
そして気づけば――もう少し一緒にいたいと思っている。
西崎は、小さく息を吐いた。
任務の予定表を見れば、無意識に境界祭祀管理局の名前を探している。
案件が重なっていれば、少し気分が軽くなる。
別件だと分かれば、ほんのわずかに落胆する。
そこまで考えて、西崎はようやく気づいた。
会いたいのだ。
任務だからではない。
共闘するためでもない。
ただ、しのぶと一緒にいたい。
「……俺、あいつのこと、好きなのか」
口にすると、ひどく単純なことだった。
否定しようとしてみても、うまくいかない。
まだ確信とまではいかない。
それでも――。
好きなのかもしれない。
その程度の自覚で、今は十分だった。
しのぶといる時間が、好きだ。
それだけは、もう分かっていた。
*
次に二人が顔を合わせたのは、それからしばらく経ってからだった。
任務の報告を終え、建物を出る。
帰る方向が同じだった。
並んで歩く。
それだけで、妙に自然だった。
しばらくして、西崎が口を開いた。
「……このあと、時間はあるか」
しのぶが隣を見る。
「ええ。特には」
「そうか」
西崎は一度、黙った。
しのぶも急かさない。
その沈黙さえ、二人にはいつものものだった。
やがて西崎が、前を向いたまま言う。
「……暑いな」
「毎日暑いわね。やんなっちゃう」
「喫茶店でも寄るか」
ほんの些細な誘いだった。
それなのに、しのぶの胸の奥がふっと軽くなる。
また、この人といられる。
それが嬉しい。
自分でも少し驚くほど、自然にそう思った。
「……ええ」
答える声が、わずかに柔らかくなる。
西崎も、ほんの少しだけ目元を緩めた。
二人とも、その変化を口にはしなかった。
恋だとは、まだ言わない。
言葉にしてしまえば、今の心地よさが何か別のものに変わってしまう気がした。
ただ――。
仕事では、ずっと前から不思議なくらい息が合っていた。
それが仕事を離れても変わらない。
むしろ、隣にいるだけで心が静かになる。
そんな相手がいることを、二人は少しずつ受け入れはじめていた。
「……行きましょうか」
しのぶが言う。
「ああ」
二人は並んで歩き出した。
歩幅は、自然と揃っていた。
まだ、何も始まってはいない。
それでも。
次もまた、この人と過ごせたらいい。
そんな気持ちだけが、二人の中に静かに根を下ろしていた。
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