第5章 累蛇
もう二度と、黒狐とは関わりたくない。
また言い寄られでもしたら、たまったものではない。
そう胸の内で固く決めてから、二か月。
しのぶのもとへ、都外の私立高校から調査依頼が入った。
ここしばらく、校内で怪奇現象が頻発しているという。
依頼主は校長本人だった。
どうか調べて、事態を収めてほしい。
電話越しの声音は、ひどく切迫していた。
悠長に構えていられる段階ではない。
そう判断したしのぶは、翌日にはその校地へ足を踏み入れていた。
校長の案内で校舎へ入る。
廊下は磨き上げられ、掲示物も整然と並んでいる。
行き交う生徒たちも、一見すればごく普通だった。
怯えきっている様子もない。
だが――。
しのぶの目には、平穏の裏側に沈んでいるものがはっきりと見えていた。
昇降口の隅。
階段の踊り場。
使われていない準備室の扉の前。
そこかしこに、人の感情が澱のように沈み、黒ずんだ痕を残している。
しかも、それはひとところに留まっていなかった。
まるで校内のあちこちで芽吹いた悪意が、互いを呼び合うように根を伸ばしている。
「こちらです。最初は、ただ物が落ちる程度だったのですが……」
校長の説明に、しのぶは短く頷いた。
話を聞くより先に、異変の質はおおよそ掴めている。
調査を進めるうち、ほどなく見えてきたのは、生徒間の揉め事を発端とした呪詛の痕跡だった。
――誰彼が憎い。
――妬ましい。
――あいつが、ひどい目に遭えばいい。
この学舎では、絶えず誰かの悪意が生まれていた。
しかも、呪詛の痕跡はひとつではない。
複数の生徒が、明確な術式も知らぬまま、感情に任せて呪いに手を染めていた。
未熟で拙い術ほど、ときに歪んだ形で絡み合う。
小さな悪意が幾重にも積み重なり、互いを喰らいながら、この学舎そのものを蝕み始めていた。
「これは……累蛇ね」
累蛇。
校内で幾重にも行われた呪詛が解けぬまま絡み合い、蛇の
ひとつの怨念ではない。
幾人分もの悪意と執着が連なった、呪いの副産物だ。
夜の校舎を這い回り、怪奇現象を増幅させる。
すでに呪詛に関与した数名の生徒は、原因不明の事故や怪我に遭っていた。
偶然にしては、重なりすぎている。
呪いは巡り、捻れ、絡み合い――もはや当事者だけでは制御できないところまで膨れ上がっていた。
校内を歩くほどに、異変は隠しようもなく露わになっていく。
無人のはずの教室で備品が倒れた。
誰も触れていない扉が、ひとりでに開いた。
そして――。
頭上から、鉢植えが落ちてきた。
「……っ!」
しのぶは咄嗟に身を捻った。
鉢植えが肩先を掠め、床へ叩きつけられる。
陶器が砕け、土が飛び散った。
姿は見えない。
それでも、何かが確かにそこにいる。
校内に張りつく気配を追いながら、しのぶは悟っていた。
討伐対象もまた、すでに自分の存在を察知している。
*
そして、調査を始めて三日目。
――いた。
討伐対象の気配を捉えた、その直後だった。
背後の空気が、ぬるりと粘つくように歪んだ。
「……っ!」
しのぶは咄嗟に身を翻す。
だが、間に合わない。
呪詛の澱を幾重にも纏った怪異が、まるで最初から彼女の動きを読んでいたかのように、死角から牙を剥いた。
濁った瘴気が一気に間合いへ流れ込む。
皮膚を刺すような悪寒が、全身を駆け抜けた。
結界を起こそうとする。
だが、この土地に染みついた呪いが術の巡りを鈍らせていた。
指先へ集まるはずの力が、わずかに遅れる。
――しまった。
そう思ったときには、もう目の前だった。
人の怨みとも、妬みともつかぬ感情を塗り固めたような異形。
裂けた口が大きく開く。
喰らわれる。
そう悟った刹那――。
校地を囲っていた結界が、外側から凄まじい力で踏み破られた。
――バァンッ!
鋭い破砕音が、夕闇へ沈みかけた校舎に轟く。
張り詰めていた霊気が一気に裂け、乱れた気が突風のように吹き荒れた。
怪異が怯む。
しのぶも息を呑んだ。
次の瞬間。
ドッ、と黒い影が躍り込んできた。
最初に目に入ったのは――裸足の爪先。
そして、艶を失った黒を纏う長身の青年。
浅黒い肌。
精悍な顔立ち。
夕闇の中で鋭く光る、金色の双眸。
見誤るはずがなかった。
二度と関わりたくないと、固く決めた相手。
あの黒い天狐。
「黒狐……っ!?」
こんなところで。
よりにもよって。
しのぶは露骨に顔をしかめた。
助かった。
それは分かる。
命を救われたことも、疑いようがない。
――だからこそ、最悪だった。
この男とは、できるだけ関わりたくない。
なのに。
なぜ、仕事先でまで会わなければならないのか。
その声に気づいたらしく、黒狐がしのぶへ目を向ける。
金の双眸が、わずかに細められた。
だが、次の瞬間――。
累蛇が咆哮した。
己の存在を誇示するように身をくねらせ、黒狐へ躍りかかる。
黒狐は鬱陶しげに目を細めた。
「喧しい蛇だのう。失せい」
爪が閃いた。
一閃。
累蛇の巨体が、音を立てて引き裂かれる。
呪詛の塊が霧散した。
あまりにも、あっけない。
しのぶは呆然とそれを見た。
――強い。
それは認めざるを得なかった。
だが。
だからといって、好感度が上がるわけではない。
むしろ、ため息が出る。
「……貴方、どうしてここに?」
助けられた以上、礼は言わなければならない。
それくらいの分別は、しのぶにもある。
だが、警戒は隠せなかった。
黒狐は何でもないことのように答えた。
「ここには道が多いからの。俺はただ、たまたまここを通っただけだ」
「……そう」
偶然。
そう片づけるには、あまりに出来すぎている。
けれど、嘘をついている様子もない。
しのぶは小さく息を吐いた。
「助かったわ。ありがとう」
「礼などいらぬ」
黒狐の口元がわずかに緩む。
「お前が無事なら、それでよい」
「……」
やっぱり。
そういうところが嫌なのだ。
しのぶは眉を寄せた。
「それじゃ、私は依頼主に報告に行くから」
「うむ」
そう答えたくせに。
黒狐は当然のように後ろをついてきた。
数歩進んだところで、しのぶは振り返る。
「……何をしているの?」
「ひとりでは寂しかろ」
「来なくていいわ」
「なぜだ?」
「なぜって……」
理由ならいくらでもある。
だが、説明するだけ疲れる。
「貴方と一緒に歩く理由がないのだけど」
「俺にはある」
「何?」
「お前と歩きたい」
即答だった。
しのぶは無言になった。
そして、深々と息を吐く。
「……本当に、そういうところが嫌なのよ」
「そうか」
まるで堪えていない。
「つれないお前もかわいいの」
「……ついてこないで」
「断る」
あまりにも迷いがない。
しのぶは額を押さえた。
――やっぱり、この男と関わるのは間違いだった。
助けてもらった借りさえなければ、今すぐ結界で遠ざけている。
だが、先ほど命を救われたばかりだ。
強引に追い払うのも気が引けた。
しのぶは諦めたように歩き出す。
「勝手にしなさい」
「うむ」
妙に満足そうな返事だった。
しのぶはますます眉を寄せた。
廊下を進む間、口を開く気にはなれなかった。
隣を歩く黒狐を視界に入れないよう、前だけを見る。
それでも、一定の歩幅でぴたりとついてくる気配が鬱陶しい。
やがて、黒狐がくすりと笑った。
「黙っておっても、機嫌の悪さはよう分かるの」
しのぶは答えない。
「そうしておる顔も、なかなか愛らしい」
「貴方、本当に静かにしていられないのね」
凍てつくような声だった。
その直後。
しのぶの指先から呪具が飛んだ。
寸分違わず、黒狐の衣を壁へ縫い留める。
祝巫の結界術を宿した呪具は、簡素な形をしていながら、束の間なら相手の自由を奪うには十分だった。
「少しは頭を冷やしていなさい」
黒狐は壁に留められたまま、しのぶを見た。
呆れているのか。
それとも、面白がっているのか。
どちらにせよ、しのぶにはどうでもよかった。
一瞥もくれず、校長室の扉を開ける。
そのまま中へ入った。
*
校長室を辞したしのぶが廊下へ戻る。
案の定。
黒狐はまだいた。
壁際に気軽にもたれ、まるで何事もなかったかのような顔をしている。
しのぶは眉を寄せた。
やはり、あの程度では長く留めておけないらしい。
「……まだいたの」
「勝手に消えると思うたか」
「少しは反省しているかと思ったわ」
「反省?」
「……もういい」
本当に話が通じない。
しのぶは短く息を吐いた。
だが、核心に触れる話なら、隠しておく意味も薄い。
「気配が強いのは、放課後の教室、放送室、体育館倉庫、屋上へ続く階段前よ」
黒狐は口を挟まなかった。
そのことが、かえって先を言わせる。
「ただし、どれも同じ呪詛ではないわ。込められた感情の色が、それぞれ違う。妬み、憎悪、拒絶……別々に生じたものが、この学校の中で絡み合っている」
しのぶは言葉を切った。
「話したのは、別に貴方と手を組むためじゃないわ」
「その割には、よう話してくれるのう」
「……勘違いしないで。貴方に助けられたから、情報を渡しているだけよ」
「律儀なことだ」
「借りは返す主義なの」
それだけ告げて、しのぶは歩き出した。
黒狐は何も言わず、その後ろをついてくる。
しのぶは振り返らなかった。
振り返ったところで、どうせまた嬉しそうな顔をしている。
それを見るだけで疲れる。
*
ひと仕事を終え、しのぶは黒狐と並んで校門を出た。
空は夕闇へ傾き、風には昼よりやわらかな冷たさが混じっている。
先ほどまで怪異と対峙していたとは思えないほど、あたりは静かだった。
その静けさがかえって、異様な気配の余韻を肌の奥へ残している。
しのぶは黙って歩いていた。
やがて、隣を行く黒狐へ一瞬だけ視線を向ける。
助けられた。
その事実だけが残っていた。
命を救われた以上、礼を言うのは当然だ。
けれど、それ以上は何もない。
むしろ、できれば二度と会いたくなかった。
「ねえ……」
しのぶが口を開く。
「うん?」
「あの夜、どうして私を口説いたの」
黒狐はすぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「お前ほど美しい女を見たのは、あれが初めてだった」
「……やっぱり聞かなければよかった」
しのぶは深々と息を吐いた。
「そんなことを聞いているのではないわ」
「ならば、言い直そうか」
黒狐はしのぶを見る。
「あのときのお前は、ひどく危うく見えた」
「……危ういですって」
「凛として冷えていて、誰にも寄りかからぬ顔をしておった。されど、そのまま音もなく砕けてしまいそうでもあった」
「勝手なことを」
「勝手であろうな。だが、そう見えたのだ」
「それで、口説いたの」
黒狐は一拍置いた。
「今を逃せば、二度と会えぬ気がした。それだけだ」
しのぶは黙った。
思っていたより、ずっと真っ直ぐな答えだった。
だからといって、好意を持てるわけではない。
「……変なひと」
「そうか?」
「そうよ。普通は、初対面の相手にあんなことを言わないわ」
黒狐が笑う。
「いや、前に会っておる。ゆえに、お前は普通ではない」
「褒めているつもりなら、やめて」
「難しいのう」
「本当に、もう……」
しのぶは呆れ果てた。
それでも、ふと昔のことが脳裏をよぎる。
「私、昔……見合い相手に蔑ろにされてから、そういう感情がうまく動かないの」
黒狐は口を挟まなかった。
ただ、黙って聞いている。
しのぶが話し終えると、黒狐はしばらく何も言わなかった。
やがて、しのぶへ手を伸ばす。
だが、その手が触れるより先に、しのぶは一歩、身を引いた。
「触らないで」
黒狐の手が止まる。
「……嫌か」
「嫌よ」
しのぶははっきりと言った。
「そういうところ。貴方、本当に距離が近すぎるの」
黒狐はしばし黙り、それから手を下ろした。
「覚えておこう」
「そうして」
それだけ言って、しのぶは前を向く。
しばらく歩いたあと、黒狐が静かに口を開いた。
「恋愛などなくとも、生きてはいけよう。だが、お前が独りでよいとは、俺には思えぬ」
「余計なお世話よ」
「そうであろうな」
「私は自分のことくらい、自分で決めるわ」
「うむ」
珍しく素直に引いた。
しのぶは少しだけ意外に思った。
だが――。
「それでも俺は、お前を諦めぬがな」
「……やっぱり貴方、嫌い」
「知っておる」
「なら、諦めて」
「それは無理だの」
しのぶは呆れて空を仰いだ。
どうして、この男はこうなのだろう。
助けられたことには感謝している。
それだけだ。
それ以上は、何もない。
「もう帰るわ」
「送ろう」
「結構」
「そう言うと思うた」
「分かっているなら、ついてこないで」
「それも断る」
しのぶは足を止めた。
黒狐も止まる。
しばらく無言で見つめ合ったあと、しのぶは諦めたように息を吐いた。
「……勝手にすればいいわ」
「うむ」
黒狐は満足そうに笑った。
その顔を見て、しのぶはまた眉を寄せる。
やっぱり、この男は好きになれない。
できることなら、関わりたくない。
それなのに、助けられた借りがあるせいで、完全に無視することもできない。
――それが、何より面倒だった。
*
数日後。
依頼元の私立高校から連絡が入った。
あれ以来、校内で起きていた怪奇現象はぴたりと止み、平穏が戻ったという。
ほどなくして謝礼も振り込まれ、今回の件は正式に終息した。
書面の上では、それですべて終わったはずだった。
報告書に目を通しながら、しのぶはふと、あの帰り道を思い出す。
怪異は祓われた。
依頼も終わった。
そして黒狐とも、これで縁が切れればいい。
――あの男が、そう簡単に引き下がるとは思えないけれど。
嫌な予感がした。
その矢先だった。
こんこん、と控えめにドアが鳴った。
しのぶは報告書から顔を上げる。
誰だろう。
ふと、家政婦の無女が脳裏をよぎった。
だが、今日は休みのはずだ。
となれば、この時間に自室を訪ねてくる者など限られている。
ひとつの顔が浮かび、しのぶは眉を寄せた。
その予感を裏づけるように、すぐ外から声が落ちてくる。
「入ってよいか」
聞き覚えのある声。
しのぶは小さく息を止めた。
――やはり。
呆れる思いしか湧いてこない。
「……返事を待つくらいの遠慮はないの」
「待っておるぞ」
「帰って」
「それは困った」
「私は困らないわ」
ドア越しに、黒狐がくつくつと笑う。
「相変わらず、つれないのう」
「誰のせいよ」
しのぶは小さく息を吐いた。
断れば引き下がるような相手ではない。
仕方なく、
「……勝手になさい」
と告げる。
ドアが開いた。
黒狐が、いつものように飄々と姿を見せる。
「何しに来たの」
「顔を見に来た」
「それだけ?」
「それだけだ」
「用件になっていないわ」
「俺にとっては充分な用件だが」
しのぶは眉間を押さえた。
本当に、この男には調子を乱される。
黒狐は部屋を見回すと、しのぶの向かいへ勝手に腰を下ろした。
「勝手なひと」
「今さらであろう」
しのぶは書類へ視線を戻した。
これ以上、相手をするつもりはない。
だが、数分もしないうちに声が飛んできた。
「読めておらぬな」
「読んでいるわ」
「嘘をつけ。さっきから同じところで止まっておるだろう」
しのぶは思わず唇を噛んだ。
図星だった。
「……あなたがいるせいでしょう」
黒狐が目を細める。
「それは嬉しいのう」
「嬉しがるところではないわ」
「ならば帰れと言えばよい」
「帰って」
「断る」
「……本当に、嫌い」
「それも知っておる」
しのぶは深々と息を吐いた。
それ以上、何を言っても無駄だ。
「……アイスティーくらいなら出すわ」
黒狐が目を細める。
「それは進歩と受け取ってよいのかの」
「助けてもらった礼よ。それ以上の意味はないわ」
「うむ。分かっておる」
その返事だけは、妙に素直だった。
しのぶは立ち上がる。
「なら、静かにしていて」
「努力しよう」
「努力じゃなくて、黙って」
「善処する」
「……本当に腹が立つ」
しのぶは背を向けた。
それでも、黒狐は楽しげに笑っている。
氷を入れた硝子の器を用意する。
かちり、と小さく触れ合う音が、部屋の静けさを揺らした。
茶を注ぐ。
淡い琥珀色が、硝子の中でゆっくり満ちていく。
「手際がよいな」
「アイスティーを淹れるくらい、誰だってするでしょう」
「そうでもない」
「はいはい」
盆にグラスを載せる。
「どうぞ」
ことり、と卓上に置いた。
「礼を言おう」
黒狐はグラスを手に取った。
「……うまい」
「そう」
しのぶは自分の分を口にする。
これ以上、余計なことを言うつもりはなかった。
黒狐も珍しく黙っている。
部屋には、氷が触れ合う小さな音だけが残った。
しのぶにとって、別段心地よい沈黙ではない。
ただ、騒がしく口説かれるよりはましだった。
やがて黒狐はグラスを卓上へ戻した。
「今日は帰ろう」
「そうして」
「また来る」
「来なくていいわ」
「それは約束できぬな」
しのぶは眉を寄せる。
黒狐はそんな彼女を見て、楽しそうに笑った。
「では、またの」
「……もう来ないで」
扉が閉まった。
静かになった部屋で、しのぶは長く息を吐いた。
やはり、好きになれない。
助けてもらった恩はある。
それは認める。
けれど、恩と好意は別のものだ。
まして、この執拗な男と、これ以上親しくなりたいなどとは少しも思わない。
できることなら、もう二度と関わりたくない。
それなのに――。
あの男は、助けたことを恩着せがましくするでもなく、こちらの拒絶に傷つくでもなく、ただ勝手に現れて、勝手に世話を焼いて、勝手に好意を口にする。
しのぶには、それが理解できなかった。
そして何より。
また来る。
そう言い残して、本当にまた来るつもりなのだろう。
しのぶは眉間を押さえた。
「……本当に、厄介なひと」
誰もいない部屋に、ため息交じりの呟きだけが落ちた。
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