第2話 ちさとは、閉まった厨房の前で謝った
【巧視点】
翌日の放課後、俺はちさとさんの案内で集落の食堂へ向かった。
歩いているあいだ、ちさとさんは十歩に一回のペースで謝った。
「ごめんなさい。転校二日目の人に、こんなこと」
「昨日も聞いた」
「ごめんなさい……」
「謝りが増えてる!?」
発端は昨日の校門だ。柏木先輩の『ちさとの家、直せる?』に、俺は『見てみないと分からない』と答えた。機械の故障は現物を見ずに引き受けるな。祖父ちゃんの教えその二である。ちなみにその一は『工具は貸すな。貸すなら自分ごと行け』。
で、自分ごと来たわけだが。
「──ここ、です」
歩きながら気づいたことがある。この集落、壊れたまま止まってる物が多い。田んぼの脇で錆びてる耕運機。外れかけたままの雨戸。集会所の掲示板の上で止まってる時計。直す祖父ちゃんがいるのにと思ったが、考えてみれば祖父ちゃんも歳で、頼む側も歳だ。山の集落では、壊れた物から順に静かに諦められていく。
集落の三差路の角。『いなわしろ食堂』と書かれた看板の下で、のれんは外されたままだった。ガラス戸の向こうは薄暗い。夕方の五時。本来なら仕込みの湯気が上がってる時間のはずだ。
ちさとさんが戸を開けると、奥から割烹着のお母さんが出てきた。ちさとさんをひと回り丸くしたような人だった。俺を見て深々と頭を下げる。
「ごめんなさいねぇ、学生さんに」
「母娘そろって謝るの、やめませんか」
厨房は静かだった。厨房というのは本来うるさい場所だ。冷蔵庫のコンプレッサーが回り、換気扇が回り、何かしらが常に鳴っている。その音が全部ない。
話はこうだった。ひと月前、ちさとさんのおばあさん──この店の大黒柱──がふもとの病院に入院した。ほぼ同時に年代物の業務用冷蔵庫が止まり、三日遅れで製麺機も止まった。機械というのは使い手が倒れると後を追うように壊れる。祖父ちゃんがよく言うやつだ。
以来、お母さんは毎朝ふもとまで買い出しに下り、麺は手でこね、昼の数時間だけ店を開けている。夜は病院。それが回るわけがない。だから来月からちさとさんがふもとの親戚の家に移って、おばあさんの世話と店の手伝いを──という話になっていた。
誰も悪くない。ただ機械が二台止まった。それだけのことで、学校がひとつ終わろうとしている。
(……いや。終わらせるかどうかは、これからの話だ)
俺は冷蔵庫の前にしゃがんで、背面の板を外した。
電源を入れる。コンプレッサーがうなって数秒でカチッと切れる。またうなって、切れる。なるほど始動リレーだ。あとは放熱フィンに油埃がフェルトみたいに詰まってる。これじゃ熱が逃げない。
「直り……ますか?」
「リレーと、たぶんコンデンサ。部品があれば」
「部品なんて、どこに」
「うちにある。祖父ちゃんの店、看板は農機具屋だけど半分は何でも屋なんだ。古い冷蔵庫の部品くらい転がってる」
製麺機のほうはもっと単純だった。ベルトが切れて、ローラーの軸が油切れで固まってる。
「……ベルト、切れとるやん」
「うわ!?」
振り向くと実桜さんがいた。いつの間にか俺の工具巻きを抱えて、厨房の入り口に正座している。
「い、いつから」
「三差路から」
「ついてきてたのか……」
実桜さんは答えず、工具巻きから十ミリのスパナを抜いて、俺が手を出すより先に差し出した。……この人、工具の並びを一度見ただけで覚えたのか?
日が落ちる前に祖父ちゃんの店へ走り、部品の箱を三つ漁った。事情を話すと、祖父ちゃんはじっと聞いてから一言だけ返した。
「いなわしろの婆さんとこか」
「知り合い?」
「この集落で婆さんの飯を食ってねぇのは、去年生まれた赤ん坊くらいのもんだ」
祖父ちゃんはリレーの箱をもう一つ、俺の袋に押し込んだ。『予備だ』とだけ言って、あとはもう工具の手入れに戻っていた。分かりにくいにもほどがある。
食堂に戻ると、店の前にちさとさんが立っていた。
「え、ずっと外に?」
「あの、お客さんでもない人をお店で働かせて、自分だけ中で座っているわけには」
「俺は客じゃない、修理屋だ。頼むから中にいてくれ」
「じゃ、じゃあ、せめてこれ」
押しつけられたのは、竹の皮に包んだおにぎりが二個。塩むすびだった。祖父ちゃんの飯より三倍うまかった。これは祖父ちゃんには言わない。
◆ ◇ ◆
二日目。店の前にはもうちさとさんが立っていた。今日は最初から中で待っててくれと言ったのに、である。
「だって、今日は直る日ですから。お出迎えです」
「直る前提の圧がすごい」
リレーとコンデンサを替え、フィンの油埃を刷毛と掃除機で落とし、ドレンを掃除して、電源を入れた。
ブン、と低い音がした。今度は切れない。コンプレッサーが回り続けている。庫内に手を入れると、送風口から来る風がもう冷たい。
「回った……回りました! お母さん、回りました!」
「はいはい、聞こえて──あら。あらあら、ほんとに」
製麺機はベルトを張り替え、軸受に油を差し、ローラーを手で回してから電源を入れた。ガラガラと景気のいい音を立ててローラーが回る。実桜さんが無言で親指を立てた。だから……いつからいたんだ。
狭い厨房だ。冷蔵庫と製麺機の間で立ち上がるたび、隣で覗き込んでいたちさとさんと肩が触れた。そのたびにちさとさんは『ごめんなさい』と言い、俺が『狭いから仕方ない』と返す。三回目からはお互い何も言わなくなった。
工具を拭いていると、ちさとさんが濡らした手ぬぐいを持ってきて俺の手を取った。
「え、いや、自分で」
「させてください」
妙に強い『させてください』だった。俺は観念して、油まみれの手を差し出した。指の股まで丁寧に拭かれる。くすぐったい。美少女に手を拭かれるという状況の心臓への負荷を、世の中はもっと周知するべきだと思う。
ちさとさんは俺の手のひらを見て、ふっと笑った。
「藤堂くんの手、うちのおばあちゃんの手に似てます」
「……ばあちゃんの」
「はい。硬くて、あちこち傷があって。この店のごはんは全部、こういう手が作ってたんです」
褒められてるのか比べられてるのか分からなかったが、悪い気はまったくしなかった。そのおばあさんの手は、この集落を何十年も食わせてきた手なのだ。
「ごめんなさい、藤堂くん。二日も、こんな」
「謝られる筋合いはない。……けど、ここの飯は食いたい」
「! すぐ! すぐ作ります!」
お母さんが直った製麺機で麺を打ち、直った冷蔵庫から出したチャーシューで中華そばを作ってくれた。賄いというにはちゃんとしすぎた一杯だった。スープまで全部飲んだ。実桜さんも隣ですすっていた。だからいつから……もういいか。
【ちさと視点】
ブン、と低い音がした瞬間のことを、わたしはたぶん一生覚えていると思う。
止まっていた音が戻った。厨房に音が戻った。お母さんが十年前みたいな声で笑って、送風口の風に手をかざして『冷たいわぁ』って言った。
その真ん中に、油だらけの手の男の子がいた。
この一か月、わたしは閉まった厨房の前で謝ってばかりいた。仕込みを減らしてくれたお母さんに。『今日は麺切れなんです』と頭を下げた常連さんに。お見舞いのたび『お店は大丈夫』と嘘をついたおばあちゃんに。謝っても何一つ直らないことは、ほんとうは分かっていた。
藤堂くんは謝らなかった。かわりに二日間ずっと手を動かしていた。しゃがんだ背中は同い年に見えなかった。かと思えば、麦茶を出したら子どもみたいな顔で笑うから、年上にも見えなかった。
藤堂くんは『学校のためだ』とも『きみのためだ』とも言わなかった。二日間、一度も。リレーがどうとか、フィンがどうとか、そういう話しかしなかった。わたしのためだと言われていたら、わたしは『そこまでしていただくわけには』って断れた。断る練習なら、この一か月でいくらでもしてきたのに。
この人はわたしのためだと言わない。だから断れなかった。
手を拭かせてもらったとき、本当はもう少しだけ長く握っていたかった。おばあちゃんの手に似てるっていうのは嘘じゃない。嘘じゃないけど、おばあちゃんの手を握っても、心臓はこんな音を立てない。
(──なにを考えてるの、わたしは)
考えてる場合じゃないのに。わたしは来月ふもとに行く。行くって決まってる。決まっていた──はずなのに。
お母さんが厨房をぐるりと見回して、言った。
「──これなら、回るねぇ」
その一言がわたしの足元をすくった。回る。お店は回る。おばあちゃんの平日の世話は、ふもとのおばさんが行けると言っていた。なら──わたしは。
言ってもいいんだろうか。残りたい、って。
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