興味深く読ませていただきました。
まずもって自分が主演俳優でも、プロデューサーでも、神様でも、その物語を書くことが楽しければ、大成功だと思うのです。
「自分」についても過去や現在や未来などいろいろな時点での自己認識があるでしょうし、理想の自分、現実の自分、振り返りたくない自分もいます。キャラクター化する際に濃淡をつけているような感じでしょうか、どこにも自分の要素が全く入っていない人物描写は難しいのかなとも感じます。自分の中にある要素ゆえに行動や思考の背景にある程度の説得力があるので、物語として書きやすい(物語の中で動かしやすい)なと自分は思います。
一例として、多人数が登場する群像劇ですと、記号や形式的に配置するのではなく、その登場人物がいることの意味や役割があったほうが物語の密度が増すように感じますし、物語の中の化学反応を起こすために主人公(自分)とはは大きくく異なる存在がいてほしいこともあります。でも、そこにも自分のかけらやにおいは仄かに出るでしょうね。
カクヨムの書き手の皆さん、このタイトルを読んで立ち止まりたくなりませんでしたか?
小説の主人公に自分を投影するかどうか。うーん、いいテーマですね。皆さん、どうですか?
その考察は読んでもらえればいいのですが、当然と言えば当然、意外と言えば意外な結果かも知れません。
私も、作中の主人公が作者の前に現れて内容に抗議するという小説を書いたことがあるのですが、そこでも作者は主人公に自分を重ねているという設定にしました。
まるで私小説でなくとも、或いは最初はそういう設定でなくても、書いているうちに自分は表れて来ますからね。
でも、自分の書きたいものを書きたいように書けばよいのです。おい、お前何書いてるのか分からなくなって来たぞ。と、もう一人の私が言ってますので、この辺で。