第19章 鈴が鳴るほうへ(一)
三沢市役所・地域安全課。
真柴響一の机の上には、三沢おばけ社に関する書類が、指の幅ほどの厚さになって積まれていた。苦情の記録が十四件。動画の再生数の推移。児童一名が学校を欠席している旨の、保護者からの申し立て。
「課長。この案件ですが」
部下の若い職員が、モニターから顔を上げずに言った。
「霊的災害という区分は、前例がありません。条例のどれで読むにしても、無理があります。……本当に、出しますか」
真柴は、書類の角を揃えた。
「無理がある、というのは、どの部分ですか」
「いえ、その……実害の認定が」
「実害はここにあります」
真柴は、申し立ての用紙を一枚、机の上ですべらせた。
「八歳の児童が、四月から登校していません。原因として名指しされている団体が、市内で営業を続けている。この団体は、業務内容の説明を求められて『子どもの声を聞くこと』と回答しました。書面に残っています」
「……はい」
「証明できないものを業務内容として掲げる団体に対して、行政は、認定も否定もできません。認定できないものを放置するのは、行政の不作為です」
部下は何か言いかけて、やめた。
真柴は、決裁欄に判を押した。窓の外を、戦闘機が二機、腹を見せて通過していく。轟音が去るまで、彼はペン先を紙から離さずに待った。
「区分は、私の判断で構いません。責任の所在を明確にしておきます」
それは、上に押されたからでも、責任を逃れるためでもなかった。
彼は、自分が正しいことをしていると思っていた。
朝だった。けれど、その光は少しおかしかった。
いつもなら、米軍基地のフェンスの隙間から、白っぽい陽がぬるっと差し込んでくる。
でも今日は、それが妙に澄んでいて、冷たくて、きちんと四角く切り取られていた。
ポストの前に、白い封筒がぽつんと立っていた。
誰も見ていないのに、「読んでくれ」と言っているような圧を放っている。
ぷるりんが、封筒の端をくわえて引っ張った。けれど、紙の味が気に入らなかったのか、ぷる……と情けない声を出して、ぽとりと落とす。
代わりに拾ったのは櫻子だった。
無言で開封し、無言で中身を読んだ。
そして――無言のまま、ひとつ息を吐いた。
「……来た、か」
経理担当のおばけ・センが、帳簿の上から顔を上げる。
ぽちぽちと叩いていた電卓が止まり、沈黙だけが課室に残った。
「とうとう来たな、社長」
封筒の中には、市役所からの通知書。
事務的なフォントで、余白を削るようにこう記されている。
『三沢おばけ社に対し、当面の業務停止および建物の立ち入りを禁ずる』
『理由:近隣への霊的被害の懸念/対価不履行事例の累積/SNS上でのトラブル多数』
くるみが、スマホを持つ手をぎゅっと握りしめる。
言葉は出なかった。あの動画の炎上、あの夜のこと――思い出そうとするだけで、喉がふさがる。
ポチゾンビは、ソファの影からそろりと顔を出し、ぷるりんは書類棚の上で固まっている。
誰もが、何かを言おうとして、言えなかった。
「おかしいね。ちゃんと、仕事してきたつもりだったのに」
櫻子が、やけに軽い声で言う。
声には明るさがあるのに、顔はまったく笑っていない。
その目だけが、どこか、『遠く』を見ていた。
「清算手続きに入りますぞ」
センが、冷たい声で言った。
「経理おばけとして、これ以上の赤字は認められません。今月の経費、累積赤字、在庫のおばけグッズ。すべて不良債権ですぞ。客観的に見て、この会社を続ける根拠はありません」
「待ってよ、センさん……」
「待てませんな、社長」
その数字は、おばけ社の絶望を、いちばん冷たい形で見せつけていた。
「おばけ社は、お金のためだけにやってきたわけじゃないと思うんです」
櫻子が、顔をあげずにつぶやく。
「子どもたちの不安を、笑いに変えて、明日へ進む勇気をあげる場所……だと思ってた」
「理念は資産ですぞ、社長」
センが言った。
「しかし、だれも買ってくれません。行政も社会も、『目に見える安心』しか求めておらん。心の安らぎは、市場価値ゼロですな」
櫻子の肩が、小さくふるえた。
「……私、社長に向いてなかったんですね。おじいちゃんやお父さんの作ったものを、私の代で……」
「社長」
センが、めずらしくやさしい声になった。
「泣くのは、清算が終わってからにしてくださいな。泣きながらやる計算は、必ずまちがえますぞ」
それは皮肉だったけれど、櫻子には「まだ終わるな」という励ましに聞こえた。
「……いちばんやばいのは、『音』だな」
センがぽつりと呟く。
事務所の空気が妙だった。外の工事現場の音も、基地のジェット音も、ぼんやりとしか届いてこない。
くるみが言った。「社長……なんか、今、社が、変な感じして……」
けれど、その声さえも、途中でかすれて、消えた。
誰もが気づきはじめていた。
何かが、変わりはじめている。
きっと、ずっと前から、少しずつ少しずつ、積もってきたものがある。
けれど、それを指さして「これだ」と言える者は、ここにはいなかった。
「じゃ、片づけなきゃね。机の上の紙、まとめてさ」
櫻子はそう言って、応接室のほうへふらりと歩き出す。
その足取りは軽いのに、どこか『空中をなぞっている』ようだった。
後に残された一同は、ただ黙って見送るしかなかった。
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