第18章 くるみ、炎上と沈黙(四)

 朝の光が、三沢おばけ社の事務所を照らしていた。

 冬の間にくすんでいた窓ガラス越しに、春の匂いが入りこんでくる。

 雪解け水のしみた路地、風に揺れる電線、ふとんのように乾いた空気。

 それらが、どこか落ち着かない“静けさ”を運んでいた。


 くるみの席は、空だった。

 古びた木製のデスクの上に、一枚の紙が残されている。

 白いコピー用紙に、ペンで真っ直ぐな字が書かれていた。


 数字じゃなくて、ちゃんと顔を見て笑わせる仕事がしたい。

 センさん、社長、みんな、ごめんなさい。   くるみ


 センは、黙ってその紙を読んだ。

 そろばんの珠に手を伸ばしかけて、やめた。

 八の字眉が、わずかに緩んだ。

 「……承認とは、金銭と異なり、手放すことも対価になる。なるほど、高い。これは高い代償だ。合理的だ」

 言葉にするたび、センの声音から“冷たさ”が落ちていく。

 損益では測れないものが、彼の中に少しずつ沈んでいた。


 ゲン爺は、少し離れたソファで新聞を読み、ふう、と息をついた。

 「まあ、なんじゃ。ようやっとる。芸はな、自分の音が鳴らんときにどう立つかで決まる。沈黙を知ってる芸人は、強い」

 そう言って、黒い羽織の袖で、片目だけをぬぐった。

 それが涙か、埃か、誰にも分からない。誰も聞かない。


 ポチゾンビは、くるみの席に顎を乗せて「クン……」と鳴いた。

 机の上のスマホを嗅ぎ、ふっと鼻先を逸らす。

 いつものように、散歩に誘うでもなく、ただそこにいるという態度だった。


 ぷるりんが、湯気のように漂いながら囁く。

 「……くるみは、だれかの“顔”を見にいったぷる。それは、ぜんぜん、まちがいじゃないぷる。

 見にいくって、こわいことぷる。でも、ほんとうにたいせつなことぷる」

 その声は、とても静かだった。静かで、優しかった。


 誰かに見られるためではなく、誰かの目をまっすぐ見るために、くるみが自分で開けた“余白”だった。



 櫻子は、くるみの使っていたパソコンをそっと開いた。

 履歴から、最後に削除された動画のページを開く。モニターには、白い文字だけがぽつんと浮かんだ。

 「404 Not Found」

 ファイルは、もう存在しない。誰の目にも届かない。

 画面の中にあるのは、音も、光も、熱もない、ただの空白だった。


 「……これが、くるみちゃんの払った“対価”なんだね」

 櫻子はぽつりと言った。誰かに語りかけるようでも、ただつぶやくようでもあった。


 センが隣に立ち、モニターをのぞき込んだ。

 「空白は、ゼロじゃない。意志です」

 その声は、いつになく静かで、あたたかかった。

 「この世には、数字で測れる価値と、数字を手放して初めて得られる価値があります」

 センは言葉を切り、指でそっと画面の「404 Not Found」をなぞる仕草をした。

 「くるみ殿は、“見られること”そのものを、手放しました。このURLが、その証明です」


 櫻子は、もう一度だけその空白のページを見つめる。

 そこには、何もない。けれどその“なにもなさ”が、何かを伝えていた。


 「ねえ、センさん……」

 櫻子の声が、かすかに揺れた。

 「“ありがとう”って、言ったほうがいいのかな。こういうとき」


 「いえ、“いってらっしゃい”です」

 センの八の字眉が、ふっと和らいだ。

 「沈黙は、彼女の旅の始まりですから」




 窓の外では、春の風が吹いていた。

 解けた雪は、細い川のように路肩を流れ、三沢の街を、ゆっくりと洗い流していく。


 ポチゾンビが、窓辺で鼻を鳴らした。

 「ワウッ……」

 その声は、誰かを呼ぶものではなく、遠くにいる誰かと交わした約束の記憶だった。


 櫻子は、自分の机の引き出しを開ける。

 中には、祖母から受け継いだ、銅の鈴がある。

 そっと触れると、チリン……と、音が鳴った。

 小さく、でも、はっきりと。


 櫻子は、小さく笑って言った。

 「……聞こえてるよ、くるみちゃん」


 けれど、今の事務所には、誰も慌てていない。

 くるみが残した“空席”は、罰でも、損失でもない。

 この春の空気と同じだけの静けさと、準備に満ちていた。


 窓の外、電柱にとまった一羽のカラスが、からかうように一声鳴いて、空へ舞い上がった。

 その羽音は、春の風に混じって、遠くへ、遠くへと流れていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る