第18章 くるみ、炎上と沈黙(二)

 翌朝。三沢おばけ社は、熱病に冒されたようになっていた。


 「社長、センさん! 見ましたかこれ! 再生数、五十万超え! コメントもすごいんです! 『神回!』『三沢のおばけ社行きてえ!』『本物のおばけ?』だって!」

 くるみの声は、事務所の隅々まで響き渡る。スマートフォンの画面には、赤い通知マークが、狂ったように点灯していた。くるみは、その赤い点滅を、栄養剤のように浴びていた。


 再生数は、坂道を転がる雪玉のように、とめどなく膨らんでいく。

 センは、電卓を叩く手を止め、冷静に紙に書きつける。

 「ふむ。この動画の注目度を、広告に換算すると……驚異的だ。この勢いなら、先月の赤字を埋め、さらに来月の運転資金まで……効果は絶大だ」

 センの合理的で冷たい承認は、くるみの熱狂をさらに煽った。「数字」が、一時的にくるみの味方についたのだ。


 「ね、センさん! 言ったでしょう! これがプロの企画ってやつ! 私は、おばけ社を救ったんです!」


 事務所の隅で、ゲン爺だけは、新聞を置き、渋い顔で湯飲み茶碗を揺らしていた。

 「……ワシらの芸はのぅ。目の前の子と真剣勝負して、最後は握手して笑うもんじゃ。その子の心に、温かいもんを残すもんじゃ。画面の向こうの、名も知らぬ大勢から『いいね』を集めて、一体、誰の心が温まるというんじゃ。芸と暴力は紙一重じゃぞ」

 「ゲン爺、古い! 時代はグローバル! これはエンタメです!」


 櫻子は、電話対応に追われながらも、この熱狂から一歩引いた位置にいた。

 「こわい、は、誰かを助ける道具。でも、傷つける道具にまでは、していいのかな」

 櫻子は、誰にも聞こえないほど小さく、自問した。


 くるみは、次の企画案に熱中しており、その声はほとんど聞こえていない。

 ポチゾンビだけが、窓の外を見つめ、一度だけ「ウー……」と低く唸った。犬にしか聞こえない、直感の警報だった。事務所の空気は、すでに分裂し始めていた。



 三日も経たないうちに、三沢おばけ社の事務所の空気は、冷え切った。事務所の奥の壁の染みが、冷たい空気で黒く浮き出ている。


 「神回」「令和最高」だったはずのコメント欄は、一瞬にして地獄の温度に変わった。その切り替わりの速さに、くるみは息を呑んだ。自分が世界に差し出した手のひらが、凍傷にかかったように、一瞬で感覚を失った。


 きっかけは、ローカルニュースの一本の報道だった。


 『先日、ネットで拡散された心霊ドッキリ動画に映っていた男の子が、「呪われた」とクラスで噂され、不登校になっていることが判明しました。いたずらのエスカレートが、いじめに繋がったと見られます』


 SNSは、一斉に手のひらを返した。「承認」という言葉は、秒で「断罪」に転じる。


 〈子どもをネタにする最低の会社。潰すべき〉

 〈倫理観ゼロ。悪趣味の極み〉

 〈あのドジっ子社長の顔もヤバい〉


 コメントのトゲが、画面から飛び出してくるかのようだ。自分が一番欲しかったはずの「承認」の数字が、いま、自分を責め立てる断罪の数字に変わったのだ。スマートフォンの赤い通知マークは、もはや祝福の色ではなく、警告の色だった。


 事務所の電話は、鳴りやまない。無言の着信が続き、電話機の赤いランプが、警報のように点滅し続けた。


 くるみは、パソコンの画面から目を離せない。

 「だ、大丈夫です。アンチはミュート! 気にしないのがネットの鉄則です! 炎上も、一種のバズですから!」

 笑ってみせるが、その笑いは固く、喉の奥から絞り出した、震える音だった。彼女が普段身に纏っている軽い皮が、一枚剥がれたような、生々しい響き。


 櫻子は、電話が鳴りやまない受話器をそっと置き、目を閉じた。センは、黙ってそろばんの珠を動かし、発生した損害の計算を始めている。


 その頃、三沢市役所の地域安全課。

 真柴響一のデスクの上の小さなテレビ画面には、三沢おばけ社の看板が映し出されていた。真柴の表情は、冷たく硬い。彼は、社会のルールの体現者として、動く準備を完了していた。


 音が減り、代わりに責任という名の、重い空気が満ちていく。



 夕方。その一本の電話は、事務所の冷たい静寂を、さらに打ち砕いた。


 鳴り続ける電話の中で、櫻子が受話器を取る。

 隣で立っていたくるみは、全身の血が引いていくのを感じた。熱狂のピークから、一気に深海のような冷たさに突き落とされた気分だった。


 受話器から漏れ聞こえたのは、母親の掠れた声。

 その声は、細い、途切れそうな糸のようで、事務所の空気に溶け込もうとしながら、微かに震えていた。それは、怒りというよりは、深い疲れを訴える声だった。


 「……もしもし。三沢おばけ社さん。あ、あの動画に、うちの子が……映っていました」


 櫻子は、喉の奥が詰まり、言葉を失った。


 「うちの子、学校に行けなくなりました」


 たった、その一言。

 その短い言葉は、何万という「いいね!」の数字よりも、はるかに重く、部屋の温度を零度まで引き下げた。

 電話の向こうから、母親の震える息だけが、細い、途切れそうな音の粒子となって聞こえてくる。


 くるみは、何か言わなければならない。謝罪、弁明、何でもいい。

 だが、声が出ない。喉の奥で、言葉が氷のように固まって、弾けなかった。


 ツルリ。


 くるみの指から、愛用していたはずのスマートフォンが滑り落ちた。

 樹脂の床に当たって、カタン、と乾いた音を立てて跳ねる。

 通知音は鳴らない。通知の赤い丸も、もうない。


 沈黙だけが、責任という、重く、目に見えない形をして、そこにいた。

 櫻子は、母親の言葉を、静かに、そして重く、受け止めていた。


 くるみは、自分の手を見つめる。自分が触った数字の海が、一瞬にして音を失ったのだ。彼女の目は、涙ではなく、空虚な青い光だけを映していた。

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