第18章 くるみ、炎上と沈黙(一)
三沢の街に、春がやってきていた。
長い冬が終わり、アスファルトには雪解け水が残り、風が吹くたびにサラサラと、どこか物憂げな音を立てて流れていく。湿った土と海風の匂いが混ざり合う、三沢特有の、青く冷たい空気が、古い木造の事務所にも流れ込んでくる。事務所の奥で、冬の間ストーブの代わりに使っていた電気毛布が、小さくたたまれている。
「よしっ! 決まりっ! 本日、爆誕です!」
その冷たい空気を一瞬で熱風に変えたのが、広報担当おばけ(自称)のくるみだった。銀髪のボブカットを揺らし、くるみは最新型のスマートフォンを、オリンピックの金メダルのように両手で掲げた。画面の向こうには、無限の承認が待っている。くるみの瞳は、画面の光を反射して、ギラギラと輝いていた。
「社長! センさん! おばけ社の仕事は、依頼を待つだけの旧時代のやり方ではダメなんです! こっちから面白さを発信して、ファンを増やして、助けと商売を両方一気に手に入れる!」
くるみは早口でまくし立て、部屋の空気を一方的に支配した。
「今日から私が広報部! 私ひとりで創設、部長です! おばけ社は、今日からバズリます!」
「おお、くるみちゃん、すごいね! 広報部長に昇進だ! 昇進祝いにぷるりん試食会、三回くらいやっちゃおうかな!」
社長の櫻子が、いつものように目じりを下げて、無邪気に拍手する。丸メガネの奥の瞳は、優しさに満ちているが、くるみの熱気についていけていない。
「馬鹿社長! 給料も経費も、一切出しません! そして、くるみ殿!」
分厚い帳簿を積んだ山から、経理担当おばけのセンが、八の字眉を吊り上げて、ドスッと帳簿を叩いた。乾いた音が、事務所に響き渡る。
「その『承認』とは、いかなる対価を生むのだ。貴殿が求めているのは、金銭ではない。大勢から見られることだろう。それは数字だ。そして、数字は刃物だ! それが味方にいるうちは強大だ。だが、ひとたび逆を向けば、おまえの指先から血を流させるぞ! その熱量、あまりにも計算違いだ!」
センの警告は、いつだって冷たく、合理的だった。それは、生前、数字に支配され、心の壁を失ったセン自身の、恐怖の告白でもあった。
「はいはい、ご忠告どうも〜。でも、私が欲しいのは、世界中の人の拍手! そっちの方が、千倍、万倍、熱いんだから!」
くるみは、唇を尖らせ、事務所の隅にいたポチゾンビのリードを引っ張った。ポチゾンビの腐りかけた毛並みは、春の日差しを浴びて、やけに明るく見えた。
「ポチ! 行くよ! 最高のドッキリ動画を撮って、センさんの度肝を抜いてやる!」
「ワウ! ウガ! ガウル!」(最高の散歩と、仕事だ!)ポチゾンビは、嬉しそうに腐りかけた尻尾を振る。
湯気のように、ぷるりんがふわりと浮かび、くるみの背中に向かって、水滴のような、か細い声で静かに囁いた。
「くるみ、無理しちゃ、ダメぷる。線を、忘れないでぷる。ぷる的に、それは、越えちゃいけない線ぷる」
だが、くるみは「わかってるって!」と手を振るだけで、その声は熱を帯びた野望の風に吹き消されてしまった。
櫻子は、くるみの熱狂を見つめながら、机の引き出しをそっと開ける。中には、祖母から受け継いだ古い銅の鈴があった。彼女の指先が鈴に触れる。チリ……ン。鈴が一度だけ、小さく、しかし奇妙なほどに重く鳴った。それは、この先に起こる、倫理の予兆だった。
その日の夜。三沢米軍基地のすぐ裏、外国人向けのバーが立ち並ぶ歓楽街の裏にある公園。夜のブランコは、誰も乗せず、風に揺れてキィ、キィと錆びた音を立てている。
くるみは、プロ仕様の小型ライトをいくつもセットし、スマートフォンを三脚に固定する。公園の奥の茂みに身を潜め、ポチゾンビを強烈なライトで逆光に浮かび上がらせた。ポチの腐りかけた毛並みや、半開きの口が、異様に生々しく光る。ライトの冷たい青い光が、地面の雪解け水を照らし、ぎらぎらと反射していた。
「よーし、ポチ。いつもの『ビスケットをねだるゾンビ』の、哀愁と恐怖をブレンドした顔、でお願いね」
「ワウ! ウガ! ウー……」(哀愁! 了解!)
くるみは、公園の近くを通りかかった、小学三年生くらいの男の子たちをターゲットに定めた。男の子たちは、立ち止まった。
「あれ、なにかいる? 犬?」
「でも、なんか顔が……ヤバいよ」
ポチゾンビが、くるみの指示通り、ゆっくりと、ワンテンポ遅れて、首をカクカクと不自然に動かしながら近づく。
ライトに照らされた子どもの顔に、はっきりと、心からの、純粋な恐怖が走った。
男の子たちは、小さな悲鳴を上げて、一目散に走り去った。その顔は、恐怖と混乱で、ひどくゆがんでいた。
「成功! 大成功! 最高のリアクション!」
くるみは、飛び上がってガッツポーズをした。
「この恐怖の顔を、すぐに編集でポップにする! この子たちの『怖い!』を、世界中の『いいね!』に変えるんだ!」
くるみは、その場で編集アプリを立ち上げた。
恐怖でゆがむ子どもの顔を、ハートや星のカラフルなスタンプで隠す。テロップで『リアルホラー! ゾンビ犬と遭遇したらまさかの結果に!』と入力。背景には、脳天気な、子どもの番組のようなBGMをつけた。
恐怖という生々しい感情は、くるみの手によって、あっという間に無毒な「エンタメ」に中和されてしまった。
「ぷる。その顔は、動画の素材じゃないぷる」
ぷるりんが、湯気のように静かに言った。
「ぷるは、怖がらせて、そのあとで笑ってほしいからぷる。でも、くるみが見てるのは、その子の顔じゃなくて、画面の数字ぷる。見せ物にして、笑い者にするのは、おばけの仕事じゃないぷる」
くるみは「ぷるりん、うるさいな!」と手を振るだけで、夜風の音だとでも思ったのだろう。その言葉は、彼女の熱狂の耳には届かなかった。彼女の熱は、すでに線を越えてしまっていた。
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