第4章 ポチゾンビと友情の骨タグ(二)
「ぐるるる……!」
健太と翔が身構えた瞬間――
「ワンッ!」
電光石火、ポチゾンビは健太の靴に突撃! ……したかと思うと、
ベロベロベロベロッ!!
「またかよ!」
「うわ、靴ひもが、べっちゃべちゃ……!」
ポチの舌は止まらない。靴の汗っぽさが、なぜかやみつき。
(ちがう! 違うんだワン!)
足を振られて転がると、今度は翔のズボンにアタック。
「うおおお……ベロベロベロ!」
「うわっ、冷てぇ!あははは!」
もう、二人は笑いっぱなしだった。
「全然噛まないじゃん」
「なんか……」
「かわいいじゃん」
その一言で、ふたりの間にあった壁が、また少し、溶けた気がした。
――少し離れた電柱の陰。
センはドローン映像をタブレットで見つめていた。片手には帳簿。
「襲撃フェーズ2、失敗。対象者に「かわいい」と認識された。脅かし作戦は非効果」
さらさらと、『ポチゾンビ派遣費』の欄に赤字で記す。
「まあ、だろうとは思っていたがな」
口調は渋いが、帳簿の上で、そのペン先がわずかに震えていた。
二度の襲撃に失敗し、すっかり自信をなくしたポチゾンビは、はあ、と大きなため息をついた。
(おれは……怖がらせ役、失格だワン……)
櫻子さんの期待に応えられない。センさんの言う通り、おれは問題児なんだ。
しょんぼりと肩を落とし、つぎはぎだらけの背中を丸める。その姿は、あまりにも哀愁に満ちていた。
健太と翔は、笑うのをやめて、心配そうにポチゾンビを見つめていた。
「どうしたんだ、急に」
「元気ないな……」
その時、ポチゾンビは、ふと首元についているものに気づいた。
骨の形をした、名札。いや、これはただの名札じゃない。おばけ社のみんなが、誕生日に作ってくれた、特別な『骨タグ』だ。
(そうだ……!)
ポチゾンビの頭に、名案がひらめいた。
怖がらせることができないなら、別の方法で、自分の存在価値を示せばいい。
(おれは、怖がらせるだけじゃない。友情を、つなぐこともできるんだワン!)
ポチゾンビは、むくりと顔を上げると、少年たちの前にちょこんと座った。そして、器用に前足を使って、自分の首から骨タグを外すと、それをうやうやしく、二人の間に置いた。
ドヤァ……!
その顔には、「さあ、これを受け取るがいい」と書いてある。
骨タグには、ポチゾンビのよだれがベットリとついていて、月の光にてらてらと不気味に光っていた。よく見ると、タグの裏には、ポチゾンビが自分で書いたであろう、ミミズが這ったような文字で、こう但し書きがしてあった。
『ゆうじょうのあかし』
健太と翔は、地面に置かれた、ぬめぬめと光る骨の塊を、まじまじと見つめた。
そして、顔を見合わせ、同時に、心の底から叫んだ。
「きたなっ!!」
その声は、完璧にハモっていた。
二人とも、同じタイミングで、同じことを思い、同じ言葉を発した。
ハッとして、二人はお互いの顔を見た。
翔は、兄の顔に、さっきまでの怒りとは違う、呆れたような、でも少しだけ楽しそうな表情が浮かんでいるのを見た。
健太は、弟の顔が、意地っ張りなそれではなく、小学生らしい、素直な嫌悪感に満ちているのを見て、なんだかおかしくなった。
ぷっ……。
どちらからともなく、笑いがこぼれた。
「だって、本当に汚いんだもん」
「だよな。よだれ、ベトベトだし」
さっきまでの大笑いとは違う。くすくす、という、秘密を分け合うような笑い声。
汚い骨タグを前にして、嫌悪感と、それを共有できたことへの可笑しさが同居する、不思議な時間が流れる。
ポチゾンビは、自分の最高のプレゼントが「きたない」と一蹴されたことにショックを受けながらも、二人が笑い合っているのを見て、まあいっか、と尻尾を振った。
(よくわからんが、おれの友情は、伝わったみたいだワン!)
二人の間にあった壁は、もうほとんど見えなくなっていた。ただ、まだ、本当に言わなければいけない言葉だけが、喉の奥につっかえている。その言葉を出すには、まだ、ほんの少しだけ、時間が必要だった。
次の日の夜。健太と翔は、昨日と同じ道を並んで歩いていた。
まだ少しだけ、気まずい。でも昨日の「犬騒動」で、心の距離はずいぶん縮まっていた。
(……また出てくるのかな)
健太がそんなことを思ったときだった。
ザザザザッ!
「うわっ、やっぱり!」
茂みから、昨日とまったく同じテンションで、ポチゾンビが飛び出してくる。首には、よだれで再び輝く骨タグ。
「ぐるるる……ワンッ!!」
「しつこいって!」
「でもなんか……うれしいかも?」
笑いながら逃げる二人と、楽しそうに追いかけるポチゾンビ。それはもう、恐怖ではなかった。ただの「遊び」。二人だけの、秘密のイベント。
靴はまたしてもベトベト。ズボンもびしょびしょ。でも、それを言い合って笑える関係になっていた。
ただ――まだ、「ごめん」のひと言だけが、出せずにいた。
遠くの電柱の影で、櫻子とセン、マモルがその様子を見守っていた。
「いい感じ、ですね」
「条件はほぼ満たされた。あとは、あの一言だけだ」
「ならば俺が出て――」
「――契約条件、発動」
センの冷たい声が、夜の空気を切り裂いた。
センの「契約条件発動」という声が響くと、健太と翔、そしてポチゾンビの周りの空気が、ふっと変わった。さっきまでのはしゃいだ雰囲気が、すうっと引いていき、代わりに、しんとした静寂が訪れる。
「これより、契約に基づき、対象者の『沈黙の時間』十五分を、執行する」
センはどこからともなく現れると、懐中時計を取り出して時間を確認した。健太と翔は、何が起きたのかわからず、ぽかんとしている。
「さあ、そこに座りなさい」
センに促され、二人は言われるがまま、近くの縁石に並んで腰を下ろした。ポチゾンビも、二人の間にちょこんと座る。センと櫻子、そしてマモルも、少し離れた場所に静かに立った。
誰も、何も話さない。
本当に、静かだった。
最初に聞こえてきたのは、草むらから聞こえる、秋の虫の声だった。りんりん、ちりちり。規則的で、優しい音。
次に、遠くから、ゴウ、というジェット音。いつも聞いている、三沢の夜の音だ。でも、こうして静かに聞いていると、まるで街全体が、大きな生き物のように息をしているみたいに聞こえる。
櫻子が、そっと懐からおばあちゃんの鈴を取り出した。
チリン。
小さくて、澄んだ音が、一度だけ響いた。その音は、まるで静寂に落ちた一滴のしずくのように、波紋を広げて夜の空気に溶けていった。
笑いが収まった後の、しんとした時間。さっきまで、あれだけ笑っていたのに。今は、隣に座る相手の、呼吸の音まで聞こえてきそうだ。
気まずい。でも、不思議と、嫌な感じはしなかった。
健太は、自分の膝を見つめた。翔は、ぼんやりと夜空を見上げている。お互いの頬の力が、少しずつ抜けていくのがわかった。意地を張っていた肩から、すっと力が抜けていく。気持ちが、やわらかくなっていく。
静けさというのは、不思議だ。たくさんの言葉を交わすよりも、ずっと深く、心が通じ合うことがある。
その、穏やかな静寂を破ろうとした者が、一人だけいた。
「うむ……。この静かな時間こそ、自己と向き合う絶好の機会だ。いいか、二人とも。友情というのはだな……」
マモルだった。彼はお説教の虫がうずいて、もう我慢の限界だったらしい。
しかし、その言葉は、最後まで続かなかった。隣にいたセンが、マモルの口を、無言のまま、しかし鋼のような力で、むんずとわしづかみにしたからだ。
「んぐぐぐぐ……!」
マモルが必死にもがく、そのコミカルな姿が、静寂の中に浮かび上がる。
それを見て、健太と翔は、同時に、ふっと吹き出してしまった。その小さな笑い声は、すぐに静寂に吸い込まれていったが、二人の心を、さらに温かく、ほぐしてくれた。
十五分。それは、長いようで、とても短い時間だった。
チン、と。センの持つ懐中時計が、小さく音を立てた。
「十五分、経過。これにて『沈黙の時間』の執行を終了する」
センはそう言うと、わしづかみにしていたマモルの口を解放した。「ぷはっ!」とマモルが新鮮な空気を吸い込む。
「続いて、対価の返却条件を執行する。……正面から、ひと言」
センは、縁石に座ったままの健太と翔に、静かに促した。
しんとした空気が、再び二人を包む。
虫の声と、遠くのジェット音。さっきと同じ音なのに、今は少しだけ、違って聞こえた。
先に動いたのは、健太だった。彼はゆっくりと立ち上がると、翔の前に立った。翔も、おそるおそる顔を上げる。三日ぶりに、二人の視線が、正面から、まっすぐに交わった。
健太の口が、少しだけ開いて、そして閉じた。言いたいことは、たくさんある。ボールのこと、ごめん。あの時、ひどいこと言って、ごめん。でも、どの言葉も、うまく出てこない。
長い、長い沈黙。
やがて、健太は、ぽつりと言った。
「……また、サッカーやろうな」
それは、謝罪の言葉ではなかった。でも、その一言に、健太の全部の気持ちが詰まっているように聞こえた。
翔は、兄の顔をじっと見つめていた。そして、小さく、でもはっきりと、うなずいた。
「……うん」
その瞬間だった。センが持っていた契約台帳が、ぽうっと淡い光を放った。おじいさんとの契約欄に押された「済」の赤いスタンプが、ひときわ強く輝き、そして、すうっと消えていく。
契約、完了。
「わん!」
その様子を見ていたポチゾンビが、まるで自分の手柄のように、誇らしげに吠えた。そして、再び自分の首からよだれまみれの骨タグを外すと、「さあ!」と言わんばかりに、二人の前に差し出した。
それを見て、健太と翔は、同時に吹き出した。
「だから、ほんっとに汚いって!」
「ベトベトじゃんか!」
二人の笑い声が、夜道に響く。もう、そこには何の壁もなかった。
少し離れた道の角で、家の窓からそっと様子を見ていたおじいさんが、安心したように目を細め、静かにカーテンを閉めた。
ボールの問題は、まだ解決していない。もしかしたら、明日もまた、些細なことでケンカをするかもしれない。でも、きっともう大丈夫だ。二人は、仲直りの方法を、言葉にしなくても、もう知っている。
ポチゾンビは、自分の骨タグを誇らしげに見せびらかしている。その表面は、二人の笑い声を反射して、ベタベタと、でもどこかうれしそうに光っていた。
夜風の中に、二人の笑い声と、まだ言えない「ごめんね」の言葉がまざって、静かに消えていった。
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