12.sideアル 誓い


 ――彼女のことを好きになったのは、一体いつだっただろうか。


 アルこと、アルジャーノン・ウォッターズは、二階のキッチンで昼食の準備をしながら、遠い昔を思い出していた。


 彼女とはもちろん、ティナのことである。


 ティナとは家が近いこともあり、幼いころから仲がよかった。彼女は芯が強く、明るく聡明で、アルの親友であり憧れでもあった。


 アルは毎日のようにティナと遊んでいたが、ある日を境に二人の関係は変わってしまった。ティナが王太子ルシアンと婚約したのだ。確か、彼女がまだ七歳か八歳の時だった。


 自分が彼女の隣に立てることは二度とないのだと思うと、アルの胸は張り裂けそうになった。彼女への恋心を自覚したのは、その時だった。皮肉なことに、自覚した途端、玉砕したのだ。


 一方で、婚約からしばらく経つと、ティナとルシアンの関係が決して良好ではないという情報が耳に入ってきた。


 ルシアンはこの国唯一の王子ということもあり、甘やかされて育ってきたのか、無駄にプライドが高く、そして努力の苦手な人物だった。そのしわ寄せの全てをティナが被っていると知った時は、はらわたが煮えくり返ったものだ。


 婚約から一年ほどが経った頃には、ティナは隙間時間を見つけてはアルの元を訪れるようになっていた。


 ティナの母親は随分前に亡くなっており、父親はティナのことを政治の道具としてしか見ていない。そのため、ティナの話し相手はアルくらいしかいないようだった。


 ティナはアルに会うたび、ルシアンの愚痴をこぼした。愚痴を聞くにつれ、彼女をぞんざいに扱うルシアンに対して、恨めしく思う気持ちが強くなっていった。


『あーあ。アルが私の騎士様だったら、いつでもお話しできるのに』


 ある日、ティナがそんな言葉をこぼした。


 彼女にとっては何気ない一言だったのかもしれないが、アルはその言葉に心の底から喜び、そして、真に受けた。


 ――いずれは騎士団に入って、ティナとこの国を守ろう。


 そう決意し、アルは剣の鍛錬に血のにじむような努力を重ねた。そして時が経ち、十四歳の頃には立派な騎士に成長していた。


 同年代で勝てる者はおらず、大人にも後れを取ることはない。王家主催の剣技大会で優勝したこともしばしばだ。


 実力と実績を引き下げ、アルが思い切ってティナの父親に「彼女の専属騎士になりたい」と申し出ると、思いのほかすんなりと要望がかなえられた。アルは騎士団入団と共に、ティナの専属騎士となったのだ。


 そして、今。


 アルはどうしてか、ティナの夫役として、彼女と一つ屋根の下で暮らしている。


 ティナが夫婦のフリをすると言い出した時には、心臓が持たないから勘弁してほしいと大声で叫んでしまいそうだった。しかし、街に溶け込むには、確かに夫婦として振る舞うのが最も合理的だと、最終的には自分を納得させた。


 それからというもの、アルは一度諦めた恋心が再び芽生えてこないように、必死に平然を保とうとした。


 しかし、ティナと腕を組んだ時、彼女と食事を楽しむ時、彼女と「おはよう」や「おやすみ」を交わす時、どうしても欲が――本当の夫婦になりたいという欲が、顔を出す。


(どうせ、叶うはずもないのに。馬鹿だな、僕は)


 フッと自嘲の笑みを漏らす。


 ティナにはきっと、今も昔も「近所のお兄ちゃん」としか思われていない。


 しかし、それでいい。それでいいのだ。


 再び彼女の隣に立つことができたのだから、これ以上、幸せなことはない。ティナの騎士として、幼馴染として、彼女のそばにいる。それだけで十分だ。


 たとえこの想いが叶わなくとも、彼女を守り続ける。


 ティナの騎士になったあの日掲げた己の誓いを、母国を出た今も、アルは守り続けている。


 その時、ふと、階段を登ってくる音が聞こえてきた。アルはさっと思考を切り替え、一階での事務仕事を終えたティナを笑顔で迎える。


「ティナ、お疲れ様。昼食、もうすぐできるから待ってて」


「私も手伝うわ」


「いいよ、座って休憩してて」


「ええ。でも……」


 ティナは手伝いを断られて不満げな様子だ。むう、と膨らんだ頬がかわいらしい。


 サラサラで艶やかな黒髪と、美しく輝く黄金色の瞳、そして陶器のような白い肌。


 母国の者はティナのことを「魔女」と蔑んだが、アルにはその感性が全く理解できなかった。これほどまでに美しい人を、アルは今まで他に見たことがない。


 彼女は頭もよければ容姿も優れており、一見完璧に思える。が、料理だけは壊滅的に下手である。そのためアルは、彼女に極力包丁を持たせないようにしているのだ。


 話は変わるが、ティナはスタンベック商会の不正を暴いてからというもの、着実に依頼を集めていた。


 依頼の中で最も多かったのは、「うちの商売敵の不正も暴いてくれ」というものだ。


 そういった依頼を耳にするたび、人間というのはつくづく自分にとって都合のよい解釈をするものだと、アルは呆れた。そんなに大勢が不正をしていたら、この街の商取引はとっくに破綻しているだろう。


 しかし、ティナはそうした依頼にも真摯に応え、不正がないことを証明していった。


 アルは「不正がなかった」という事実に依頼人が不満の声を上げ、事務所の評判が落ちて依頼が減るのではないかと心配したが、全くそんなことにはならなかった。


 ティナは不正がない事実と共に、顧客に商売のアドバイスを与えていたからだ。


 彼女の助言を信じ、実行した商人たちが軒並み売り上げを伸ばしたことで、結果的に依頼が一層増えることとなった。


 この街に来てまだ一か月ほどだが、今や彼女はその洞察力と先を見通す力から、「慧眼の魔女」と呼ばれている。その響きに軽蔑は含まれておらず、皆尊敬の念を込めて、ティナをその別称で呼ぶのだ。


 ティナがコンサルタント業務を始めてからというもの、彼女がクライアントと会うときは、アルも必ず同席するようにしている。彼女の美しさと聡明さに惹かれ、よからぬ考えを持つ輩が出かねないと考えているからだ。対外的には夫婦としているが、それでも牽制しておくに越したことはない。


 すると、料理の手伝いを断られむくれていたティナが、スッと真顔になった。


「ねえ、アル」


 アルはドキリとした。いつになく真剣な表情だ。


 これは何かあると思い、調理の手を止め、彼女に向き合う。


 ティナはアルの目をしっかりと捉えて言う。


「嫌になったら、いつでもここから出て行っていいからね。私もいい大人だし、一人で生きていけるから」


 思わず息を飲んだ。心臓が途端に嫌な音を立て始める。


「……僕が邪魔になった?」


 声が震えていたかもしれない。アルはぎゅっと手を握りしめた。


 ティナは苦笑を浮かべて首を左右に振る。


「邪魔なんてまさか。アルがいてくれて、とても助かっているわ。でも、いつまでもあなたを縛っておくわけにはいかないでしょう。あなたはもう、私の専属騎士ではないのだから」


「…………」


 専属騎士ではない。


 その言葉に、アルの胸は深くえぐられた。自分の存在価値を、全否定された気がする。


(……痛いな)


 アルは服の胸元をぎゅっと掴み、無理やり笑ってみせる。


「……じゃあ、ティナが料理を一通りできるようになったら、出て行くことを検討してみるよ」


「まあ! それだと一生難しそうね。だってアルが料理をさせてくれないんだもの。上達のしようがないわ」


 再びむう、とむくれてみせたティナがかわいらしい。


(……ああ、好きだな)


 彼女の言う通り、一生、料理なんてできなければいいのにと、アルは思った。


 ――その時、パリン、とガラスの割れる音がした。一階からだ。


 何事かと二人そろって一階に降りると、入り口のドアにはめ込まれたすりガラスが割れていた。


「一体誰が……!」


 アルは急いでドアを開け外を見回したが、怪しい人物は見当たらなかった。この辺りは比較的閑静な場所で、人通りはそれほど多くなく、人ごみに紛れることはできない。子供のいたずらとは思えなかった。


「へえ、面白いわねえ」


 後ろからティナの声が聞こえ振り向くと、彼女は右手に皺くちゃの紙切れを、左手にこぶし大の石を持っていた。どうやら犯人は、石に紙を巻き付け、ドアガラスめがけて投げ込んだらしい。


「アル、見て、これ」


 ティナが右手の紙切れを掲げた。そこには赤い字で、「この街から出て行け」と書かれていた。


 いたずらにしては、タチが悪すぎる。


 アルは先ほどまで抱えていた胸の痛みを忘れ、一気に騎士の顔になる。


「街を移ろう、ティナ。せっかく家と仕事を見つけたばかりで残念だけど、身を危険に晒してまで居続ける必要はない」


「嫌よ」


 ティナは即座に否定した。


「私、この街のこと気に入ってるの。こんないたずらで出て行かなきゃならないなんて悔しいわ。それに、ちょっと思い当たる節があるのよねえ」


 ティナは唇の端で笑った。それは彼女が、母国で貴族の不正を暴くときに見せていた、不敵な笑みだった。そして、彼女が怒っているときでもある。


 ティナは恐ろしく頭が回る。きっと凡人が想像もできないような思考を、いくつも巡らせているのだろう。「慧眼の魔女」という二つ名は、実に彼女に相応しい。


「わかったよ、ティナ。代わりに、僕がここにいる間は、せめて君を守らせて欲しい。君の……専属騎士として」


 アルが食い下がると、ティナはわずかに気まずい表情を見せた。つい先ほど「ここから出て行ってもいい」と言っておいて頼るのは、少々バツが悪いのかもしれない。


 そんなことは気にしないのに。もっと頼ってくれていいのに。さっきの話も、曖昧なまま終わればいいのに。


 アルはそんな思いで、ためらう彼女の背中を押す。


「お願い、ティナ。君を守りたいんだ」


 彼女は一度目を閉じたあと、ゆっくりと目を開いた。その時にはもう、気持ちを切り替えるように笑っていた。


「ありがとう、アル。頼りにしているわ」

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