No.25 八日目・執事「深い森の奥」

電車とタクシーを乗り継いで、お屋敷前へと辿り着いた。

門扉はしっかりと閉まっているし、怪しい車も停まっていない。

いつものように蝉が大合唱し、ノウゼンカズラが咲き乱れ、樹々は木陰を作り出していたが、私の警戒レベルは下がらなかった。


私はまず、スラックスのポケットに入れていたスマホの通知音を切る。

中に窃盗がいた場合、ピロンという音で気付かれるという、マヌケなことはしたくないから。

そして門扉を小さく開けて敷地内へ入り、手に持っていたブリーフケースを、ノウゼンカズラの根元へと隠す。

これで両手は自由になった。


「よしっ」


小さく呟いて気合を入れ、できるだけ気配を消して庭を通り抜け、お屋敷へ近づいていく。

心拍数は徐々に上がっていったが、私がここでイケメンプロレスラーのような父親と出くわすのと、空振りに終わるのでは、出くわしたほうがマシなのだ。

標的の本命がミカ様ではなくお屋敷だったら、今頃、秘書が助け出してくれているはずだから。


テラスが見えるところまで歩みを進めると、窓ガラスの向こうの居間に、黒い大柄な人影が動いていることが分かる。

ビンゴ!私の推理は見事当たった。

やはり狙いはお屋敷、しかもお祖父様のバカラのデキャンタコレクションだったわけだ。


人影は、居間の中を引っ掻きまわしていた。

サイドボードを開けたり、引き出しを覗き込んだり、テレビ台の下まで覗き込んでいる。

そんなところにあるわけがないのに、乱暴に探し回っていた。


私は呼吸を整える。

これからどうすべきだろう。

この場で通報し警察を呼ぶべきか、乗り込んでいって自ら侵入者を掴まえるべきか。

武術の心得があるとはいえ、もちろん実践経験はない。

そもそも精神修養の目的で始めたものなので、体格差のある人間に対してどこまで有効かも分からない。


やはり110番しようとポケットに手を伸ばしたときだった。

男はイライラとした様子で、乱暴に掃き出し窓を開け、テラスへ出てくる。

苛立ちの原因は明白だ。

長年、居間のサイドボードの上に飾られていた多数のデキャンタは、先日バザーの準備をする際に、お隣の山本さんの依頼で二階へと移動されてあるのだから。


男はキョロキョロと顔を動かし、デキャンタを探しているが、当然テラスなどにあるはずがない。

その時だ。

男の目が朝顔の鉢植えを捉えた。

今朝も、6つのコバルトブルーの花が咲いていた朝顔は、日が高くのぼり、すっかり萎んでいる。


男はあろうことか、その鉢植えを腹立ち紛れに、蹴り上げたのだ。

鉢は倒れ、支柱が抜け、土がこぼれる。


(ゆ、ゆるせない。ミカ様が神戸からお持ちになり、毎日毎日水やりをされている朝顔の鉢にそのようなことを!)


私は咄嗟に飛び出し、男に向かって走り出してしまった。

こんなにも、煮えたぎるような怒りを他者に覚えたのは、初めての経験かもしれない。


男は私の足音に気が付き、顔を歪め「チッ」と舌打ちをする。

私はそのままテラスにあがり、男に向かってスマホを掲げた。


「強盗は失敗です。通報させてもらいますよ」


「ちきしょう!邪魔しやがって」


男はこちらに向かって突進してくる。

近くで見ると、より大きな身体に見えた。

鍛えているというより、元から体格に恵まれているといった感じだ。


ドンと体当たりされ視界がぶれる。

そしてすかさず男の太い腕が、私のスマホを叩き落とした。

さらに攻撃を仕掛けてくるのかと思い、私は体勢を立て直し、武術で習った構えに入る。


しかし男に、闘う気はないようだ。

私に背を向け、テラスから庭へと逃げ出していく。


「待ちなさい!」


私の怒りはまだ心の中で燃え滾ったままだ。

ここで逃がすものか、と彼を追う。

自分がこんな冷静さを欠いた行動に出ていることが、正直自分でも信じられないが、足は止まらない。


男は裏庭に出て、倉庫の前を通り、プールの前を通り、庭と森の間に張り巡らされた柵を乗り越える。

もしかすると、入念に下見を繰り返していたのかもしれない。

迷いのない足取りで、森の奥へと逃げていく。


私もあとを追う。

倉庫の前で、プール掃除に使ったデッキブラシを掴み、武器として装備して森への柵を乗り越える。

ここでちゃんと警察に突き出さなかったら、この男はまたマドカさんやミカ様に同じようなことをするかもしれない。

ミカ様の実の父親が前科者になってしまったとしても、絶対に捕まえたかった。


森には、はっきりとした道はない。

樹々は好きな方向へ自在に伸び、生い茂る草は私の視界を狭くする。

前方に黒い服の男が見えたり、見えなくなったりするが、とにかく気配を追いかけ奥へ奥へと進んでいく。


(「ダメだよ、森は危ない」そんな声が聞こえた気がする。いつかの夢に出てきた少年の声だった。あぁ、坊ちゃんの絵日記にも書いてありましたね。「あぶないから入りません」と。どうしてか、今それを思い出しました。しかし、そんなことは言っていられないのです、坊ちゃん)


ついに男が見えなくなった。

右へ行ったのか、左に行ったのかもわからない。

逃げられたか……。

絶望しかけたとき、枝を踏みしめパキンと折れる音がした。

右か。

私は音のした方へ、ゆっくり進んでいった。


そのときだ。

大木の影から、男が飛び出してきた。

彼は至近距離で私の顔を見据え、ポケットに片手を突っ込んだまま、ニヤリと笑う。


「ここまでだぜ」


男は一歩踏み込んできた。

デッキブラシを構えようとするが、森の中で長い棒はむしろ邪魔だ。

ポケットから出た男の手が伸び、冷たい金属のようなものを太腿に押し当てられてしまう。

私の身体は電流が流れたような衝撃を受け、バランスを崩しデッキブラシも手から離れてしまった。

計算しつくされていたように、よろけた先には深い沢があって、私の身体は五メートルほど下へ転落する。

電流……スタンガンか。

落ちながらそう思ったが、次の瞬間には、意識が遠のいていた。



ハッ、と気がついたときには、男が走り去る足音が聞こえていた。

気を失っていたのは、ほんの数十秒だろう。

追いかけなくては。

そう思い立ち上がろうとしたが、右足が酷く傷んで、断念した。


私は深くため息をつく。

痛みのせいで頭の中がようやく冷静になり、いつもの自分に戻りつつあった。

足の状態を確認すると、素人判断でも骨折はしていないだろうと思えた。

しかし、右足を捻挫していることは間違いない。


頭や手、臀部や顔、身体中を点検するが、他に大きな怪我はなかった。

それでももう、男を追うことは不可能だろう……。

私はそっと目を閉じる。

全身を疲労感が駆け巡り、身体の力が抜けていった。


ミカ様はどうなっただろうか。

秘書が上手く助け出してくれたと信じるしかない。

スマホはテラスに落としてきてしまった。

杖として使えそうなデッキブラシも沢の上。


(さて、どうしましょう。この足でこの岩場は登れないですね。とりあえず体力を温存し、秘書が助けに来てくれるのを待つしかありません)


どうしてか、秘書が来てくれはずだと、疑いもせずに思っている。

私はなんとか足を引きずって、3メートルほど歩き、沢の水を掬って飲んだ。

衛生面など気にしている場合ではなかった。

今は熱中症のほうが怖い。


「あぁ、冷たくて美味しい」


どれくらいの時間が経ったのか。

遥か遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

きっと物事は、解決に向かおうとしているのだろう。

私はほっと安堵し、大木を背にして足を投げ出して座ったまま、再び目を閉じた。

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