第25話 決壊
大型案件当日。
朝五時。
まだ人もまばらな搬入口に、トラックがゆっくりと横付けされる。
「おはようございます!」
「おはようございます。」
眠気を振り払うように挨拶が飛び交う。
主任が全員を集める。
「今日は時間との勝負だ。」
「確認しながら進めよう。」
「はい!」
全員が一斉に動き始めた。
「馬場さん!」
「はい!」
「映像ラック、先に仕込みお願いします!」
「分かりました!」
涼子はラックケースを開き、いつものように準備を始める。
LANケーブル。
電源タップ。
変換アダプター。
確認しながら手を伸ばした、その時。
「……あれ?」
いつも入っている場所に、目的の変換アダプターがない。
隣のポケット。
ない。
上段。
ない。
「おかしい……。」
一つひとつ確認する。
その間にも、周囲は準備を進めていく。
「馬場さん、大丈夫ですか?」
スタッフが声を掛ける。
「すみません、すぐ見つけます!」
焦りが少しずつ大きくなる。
「どうしました?」
さくやが駆け寄る。
「変換アダプターが見当たらへんのです。」
「昨日、確認しましたよね?」
「しました。」
二人でケースを確認する。
すると少し離れた補助ケースから、さくらが声を掛けた。
「ここだよ!」
全員が振り向く。
さくらはアダプターを手にして微笑んでいた。
「こっちに移しておいたよ。」
「現場で一緒に使う物だから、この方が分かりやすいと思って。」
その場が一瞬静かになる。
主任が口を開く。
「そうだったのか。」
「見つかって良かった。」
さくらはほっとしたように笑う。
「はい。」
「探し回るより、同じ括りでまとめた方が効率がいいかなって。」
その言葉に、嘘は一つもなかった。
涼子はアダプターを受け取り、小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます。」
その声は、いつもと同じ丁寧な口調だった。
でも、胸の奥では何かが音を立てて崩れていた。
準備は無事に終わった。
本番も成功した。
誰も大きなミスはしなかった。
現場は拍手の中で幕を閉じる。
「お疲れさまでした!」
「お疲れさまでした!」
笑顔が飛び交う。
さくらも嬉しそうだった。
「今日、うまくいって良かった。」
誰よりも安心したような笑顔だった。
________________________________________
撤収後。
搬入口の外。
夕暮れの空を見ながら、涼子は缶コーヒーを開けた。
そこへ、さくやがやって来る。
「お疲れさまでした。」
「お疲れさまです。」
少し沈黙が流れる。
さくやが静かに尋ねる。
「……今日のこと、気にしてますか?」
涼子は苦笑した。
「ちょっとだけ。」
「でも、橘さんは悪くないです。」
「分かってます。」
「ほんまに、分かってるんです。」
少しだけ関西弁が混じる。
それは、気持ちを隠せなくなった時だけ出る癖だった。
「咲夜さん。」
「はい。」
「親切って、難しいですね。」
その一言に、さくやは返す言葉を見つけられなかった。
________________________________________
その夜。
帰宅した涼子は、玄関に座り込んだまま靴を脱ぐ。
静かな部屋。
昼間の光景が何度も頭に浮かぶ。
さくらは悪くない。
本当に悪くない。
でも――。
自分は今日、一番慣れているはずの現場で、
一瞬とはいえ「自分の仕事」が分からなくなった。
機材の場所を知っているはずなのに、知らなかった。
それは技術者にとって、とても小さくて、とても大きなことだった。
スマートフォンが震える。
父からだった。
「母ちゃん、今日はだいぶ元気になったわ。」
その一文を見て、涼子は静かに笑う。
「良かった。」
そう呟いたあと、ふと窓の外を見る。
雨は、もう降っていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます