第2章 雨宿り
第5話 乾杯
数か月に一度懇親会が開かれる。
今回の会場は、会社から歩いて十分ほどの場所にある小さな居酒屋だった。
金曜日の夜ということもあり、店内は仕事帰りの会社員で賑わっている。
「じゃあ、今日は部署のみんながそろったということで!」
主任がジョッキを掲げる。
「かんぱーい!」
グラスがぶつかり合う軽やかな音が店内へ広がった。
さくらはウーロン茶を一口飲み、ほっと肩の力を抜く。
仕事中とは違う空気。
ネクタイを少し緩めた人。
普段よりよく笑う人。
副調整室では見られない表情が、あちこちにあった。
「橘さん。」
向かいの席から声が掛かる。
「はい?」
「この前、資料ありがとうございました。」
営業部の女性社員だった。
「すごく分かりやすかったです。」
「いえ、そんな……。」
照れながら頭を下げる。
仕事中にはなかなか聞けない言葉だった。
少しだけ嬉しい。
その会話の横では、別のテーブルが盛り上がっていた。
「咲夜君、ビールいける口?」
「はい、好きですよ。」
「若いから強そう!」
「いやいや、そんなことないです。」
困ったように笑う。
その笑顔に、周りの女性社員たちもつられて笑った。
「彼女いるの?」
「そうそう、それ気になる!」
「絶対モテるでしょ。」
「優しいもんね。」
「あと、イケメンだし!!」
次々と飛んでくる質問に、さくやは苦笑いを浮かべる。
「いや、本当に何もないですよ。」
「またまた。」
「隠してるだけじゃない?」
「違いますって。」
笑いながら首を振る。
誰かを期待させるような返事もしない。
冷たく突き放すこともしない。
誰に対しても同じ距離。
その空気は、仕事中と何も変わらなかった。
さくらはグラスを持ったまま、その様子を眺めていた。
――やっぱり。
彼は、人気があるんだ。
そう思った。
少しだけ胸がちくりとした。
けれど、それは嫉妬というほど大きな感情ではない。
むしろ当然のことだと納得している自分がいた。
「失礼します!」
店の入口から、明るい声が響く。
遅れて一人の女性が店内へ入ってきた。
【馬場 涼子 (ばば りょうこ)】
二年目の若手。先輩だけど年は十歳ほど離れている。
「すみません! 収録押してしまって!」
「お、馬場さん来た!」
「お疲れ!」
「間に合ったやん!」
次々に声が掛かる。
彼女は何度も頭を下げながら席へ向かった。
「遅れてすみません。」
空いていた席へ腰を下ろし、ようやく一息つく。
「お疲れさま。」
主任が笑う。
「まあ、収録ならしゃあない。」
「ありがとうございます。」
ジョッキが運ばれてくる。
「じゃあ馬場さんも。」
「乾杯!」
改めてグラスが鳴る。
さくらは、その女性を見る。
いつも廊下ですれ違う時と同じだった。
よく笑い、よく頭を下げ、場の空気を明るくする人。
それ以上でも、それ以下でもない。
「そういえば。」
誰かが話題を変える。
「馬場さんって関西だったよね?」
「はい、大阪です。」
「え、咲夜君もじゃなかった?」
その瞬間。
さくらは、何気なくさくやの方を見た。
「そうなんです。」
さくやは少し笑って答える。
「大阪です。」
「どこなんですか?」
涼子が興味深そうに身を乗り出した。
「豊中です。」
ほんの一瞬、彼女の目が丸くなる。
「えっ。」
思わず笑みがこぼれる。
「私、吹田なんですよ。」
その場にいた誰かが、
「近いの?」
と聞く。
さくやが思わず口を開いた。
「めっちゃ近いやん。」
その一言に、自分でも「あっ」という表情を浮かべる。
「……すみません。」
少し照れながら笑う。
「地元の話になると、つい。」
店内に笑いが起きる。
涼子も笑って頷いた。
「ほんまですやん。」
その空気は少しだけ変わった。
同じ街の景色を知る者同士だけが共有できる、ほんの少しの親近感。
さくらはそのやり取りを見つめながら、静かにグラスへ口をつけた。
――あんな話し方もするんだ。
仕事中には一度も聞いたことのない声色だった。
知らなかった。
その事実だけが、不思議と胸の奥へ残った。
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