映像業界の裏方さん
ばこにき
第1話 春雨
雨の日の副調整室は、少しだけ静かだった。
窓ガラスを叩く雨粒の音は、機材のファンが奏でる低い駆動音に溶け込み、まるで部屋全体がゆっくり呼吸をしているようだった。
ラックに整然と並ぶ映像機器のLEDが、小さな星のように規則正しく瞬いている。
まだ始業まで三十分。
誰もいない副調整室で、一人の女性が今日の運行表に目を通していた。
【橘 咲良(たちばな さくら)。】
三十五歳。
この部署へ異動してきて、もうすぐ一年になる。
ボールペンで今日の担当欄に小さく印を付けると、机の上に置かれたマグカップへ視線を落とした。
湯気はもう立っていない。
いつもなら温かいうちに飲み切るはずなのに、気づけば仕事に集中してしまう。
「また冷めちゃった。」
小さく笑い、電子ケトルへ水を注ぐ。
その時だった。
副調整室の扉が静かに開く。
「おはようございます。」
柔らかな声が部屋へ響く。
振り返ると、雨粒を肩に残した男性が立っていた。
【橘 咲夜(たちばな さくや)。】
二十八歳。
新卒からこの会社で働き続け、今年この部署へ異動してきた。
会社では先輩。
部署では、さくらの方が少しだけ先輩。
そんな少し不思議な関係だった。
「おはよう、さくや君。」
「今日も早いですね。」
「静かな時間が好きだから。」
さくらがそう答えると、さくやは少し笑った。
「僕もです。」
その笑顔には、人を安心させる不思議な力があった。
誰に対しても同じ距離で接し、忙しい日でも声を荒げることがない。
部署へ来てまだ一年も経っていないというのに、いつの間にか誰からも頼られる存在になっていた。
「コーヒー、淹れますけど飲みます?」
「ありがとう。でも今日は自分で淹れるよ。」
「そうですか?」
「うん。今日はちょっと濃いめが飲みたい気分。」
「じゃあ僕も真似しようかな。」
二人は並んで給湯スペースへ向かう。
コーヒーの香りが静かに広がる。
外では雨が少しだけ強くなっていた。
「そういえば。」
ドリッパーへ湯を注ぎながら、さくやがふと思い出したように口を開く。
「最初、名簿を見た時びっくりしました。」
「何が?」
「橘さんって珍しい名字じゃないですか。」
「ああ。」
さくらは少し笑う。
「私もびっくりした。」
「部署に来た初日、『親戚ですか?』って聞かれちゃった。」
「僕もです(笑)」
二人は思わず笑い合う。
「もちろん初対面だったけどね。」
「ですよね。」
「でも、名字が同じだと少し親近感あるよね。」
「確かに。」
それだけの会話だった。
特別な意味なんて、どこにもない。
ただ、雨の朝に交わされた、何気ない雑談だった。
やがて時計の針が始業時間へ近づく。
副調整室にも少しずつ人が集まり始めた。
インカムの動作確認。
送出スケジュールの共有。
映像回線のチェック。
穏やかだった部屋は、仕事の空気へ静かに切り替わっていく。
さくらは運行表を閉じ、深く息を吸った。
今日も一日が始まる。
大きなトラブルなんてなく、みんなが無事に一日を終えられますように。
そんなことを考えながら、いつものように席へ座った。
その願いは、この部署で働き始めてから、一日も変わったことがなかった。
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