第44話 溜まるもの
翌日。
午後の仕事が始まってしばらくした頃だった。
さくらは、少し離れた席にいるさくやを見た。
いつもと変わらないように見える。
パソコンに向かって、資料を確認している。
誰かに声をかけられれば、いつものように顔を上げる。
「はい。大丈夫です。」
「分かりました。」
「ありがとうございます。」
声も、表情も、いつも通りだった。
ただ。
返事をするまでに、ほんの少しだけ間がある。
さくやが画面から目を離し、小さく息を吐く。
それから、また作業に戻る。
さくらは手を止めた。
――疲れてる。
そう思った。
以前なら、「そう見える」だけだった。
けれど今は違う。
マディーから聞いた話。
先輩たちから聞いた話。
帰り道で何度も見た、あの遠回り。
そして、今のさくや。
全部が一本につながっているように思えた。
夕方。
仕事が一段落した頃、さくらは給湯室でさくやと二人になった。
「さくや君。」
「はい?」
「最近、忙しい?」
さくやは少し考えた。
「そうですね……。」
それから苦笑する。
「ちょっとだけ、忙しいかもしれません。」
「やっぱり。」
「分かります?」
「なんとなく。」
さくやは少し驚いたように笑った。
「そんなに顔に出てました?」
「少しだけ。」
「気をつけないといけないですね。」
そう言って笑ったあと、さくやは紙コップを見つめた。
「……でも、最近ちょっと疲れてるのは本当かもしれません。」
さくらは黙って聞いた。
「仕事が多い?」
「それもあります。」
さくやは少し迷ってから続けた。
「僕、頼まれると断れないんですよね。」
苦笑する。
「自分でやった方が早いって思っちゃうんです。」
「だから抱えちゃうんですね。」
「たぶん。」
さくやは小さく息を吐いた。
「気づいたら、自分のところに仕事が溜まってて。」
さくらは頷いた。
昔と同じだ。
システム開発部にいた頃から、何も変わっていない。
「でも……」
さくやはそこで言葉を止めた。
「仕事だけじゃないんですよね。」
「え?」
「人付き合いも、ちょっと疲れるというか。」
さくらは黙った。
「別に、人が嫌いとかじゃないですよ。」
さくやは慌てたように付け加えた。
「むしろ、人と話すのは好きなんです。」
「ただ……」
少しだけ視線を落とす。
「相手が困ってると放っておけないし、頼まれたら断れないし。」
「……。」
「こっちが断ったら、悪いかなって思っちゃうんですよね。」
さくやは苦笑した。
「だから、気づいたら予定が埋まってたりして。」
「仕事でも、プライベートでも?」
「そうですね。」
少し笑う。
「結局、自分で勝手に疲れてるだけなんですけど。」
その言葉を聞いて、さくらは何も言えなかった。
それは、仕事の量だけの問題ではなかった。
人と関わること。
誰かの期待に応えようとすること。
頼られたら応えようとすること。
それが、さくや自身を疲れさせている。
「……無理しないでね。」
さくらが言う。
「はい。」
さくやは笑った。
けれど、その笑顔には少し疲れが残っていた。
________________________________________
翌日。
さくやに仕事を頼もうとしていた先輩がいた。
「咲夜くん、これって――」
「それなら、私が確認しますよ。」
さくらが自然に声を挟んだ。
「え?」
「昨日、さくや君忙しそうだったので。」
「いや、大丈夫ですよ。」
さくやが言う。
「でも、これくらいなら私ができる。」
「……じゃあ、お願いします。」
「お、じゃあ橘さんよろしく。」
さくらは資料を受け取った。
「わかりました。」
さくやが言った。
「助かります。」
さくらは笑った。
さくやも笑った。
けれど。
ほんの一瞬だけ。
さくやの表情が曇った。
視線が資料に落ちる。
「……すみません。」
「気にしないで。」
「ありがとうございます。」
それ以上、さくやは何も言わなかった。
その日の帰り。
さくらは、少し先を歩くさくやを見つけた。
今日も、大通りから外れる。
いつもの遠回り。
さくらは立ち止まった。
けれど、今日は追わなかった。
ただ、その背中を見送った。
仕事を一つ減らしてあげた。
さくやも喜んでくれた。
それなのに。
なぜか、さくらの中には引っかかるものが残っていた。
さくやは、まだ疲れている。
仕事だけじゃない。
人付き合い。
誰かに頼られること。
誰かの期待に応えること。
そういうものから、逃げるように一人で歩いている。
さくらは、遠ざかっていく背中を見つめた。
「……どうしたら、楽になるんだろう。」
小さな声は、誰にも届かなかった。
そしてその問いだけが、
さくらの中に残った。
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