第20話 僕だけが読めない言葉

それから三ヶ月が経った。


山陰の町は春を迎え、旅館の周りには桜が咲き始めている。由貴は縁側に座り、その花びらを見上げながら、新しいノートを開いていた。彼女の隣には、蒼石が座っている。彼もまた、同じように桜を見上げている。


「……ねえ、蒼石。新しい小説、もうすぐ完成するんでしょ?」


「……ああ。あと一章で終わる。」


「……読ませてくれるんだよね?」


「……ああ。最初に、由貴に読ませる。」


由貴はその言葉に、心臓が跳ねるのを感じた。

彼が初めて書いた小説『隣の姫君は今日も我儘で綺麗だ』は、由貴がモデルだった。そして今、彼が書いているのは、由貴と蒼石の物語『隣の君が書いた、僕だけが読めない言葉』だ。


「……楽しみにしてる。」


「……うん。」


蒼石はそう言って、原稿用紙にペンを走らせた。由貴はその横顔を見つめながら、自分もまたノートに言葉を書き始めた。彼女の影アカウント『隣の観察者』は、今では五万人を超えるフォロワーを持つ。彼女は自分のペースで、自分の言葉を紡ぎ続けていた。


その日、由貴のスマホが震えた。見知らぬ番号からの着信だった。


「……もしもし?」


「早乙女由貴様でしょうか? 『文芸社』の編集者、河野と申します。橘蒼石様の新作小説、拝読させていただきました。非常に感動いたしました。ぜひ、前作に続いて書籍化のお話をさせていただけませんか?」


由貴はその言葉に、思わず蒼石の方を向いた。

彼はまだ原稿を書き続けている。由貴はスマホを彼に差し出した。


「……蒼石、出版社からだよ。」


蒼石はゆっくりとペンを置き、スマホを受け取った。彼は短い会話の後、スマホを置いて由貴に向き直った。


「……書籍化が決まった。」


「……やっぱり! すごいよ、蒼石!」


「……由貴のおかげだ。」


「……私?」


「……ああ。由貴がいたから、この物語は生まれた。」


由貴はその言葉に、涙がこぼれ落ちた。彼女はそれを拭いながら、蒼石の手を握った。


「……違うよ。あなたが言葉にしたから、この物語は生まれたんだ。」


蒼石は何も言わなかった。しかし、彼の手が由貴の手を強く握り返した。


その夜、蒼石は由貴に新作の原稿を手渡した。

由貴は震える手でそれを受け取り、最初の一文を読んだ。


『彼女は、自分の存在が誰かの言葉になることを知った。しかし、彼女自身もまた、誰かの言葉になりたいと願っている。それは、彼女が初めて持った、自分自身の言葉だった。』


由貴はその文章を読み、涙が止まらなくなった。彼女は原稿を抱きしめ、蒼石の隣に寄り添った。


「……蒼石、これ、私たちの物語だね。」


「……ああ。」


「……私、これからもあなたの隣で、言葉を紡ぎ続けるよ。」


「……ああ。ずっと、隣にいろ。」


由貴はその言葉に、心から微笑んだ。彼女は自分のノートを開き、新しい一文を書き加えた。


『彼は、誰かに「伝えたい」と願っている。そして、私はその言葉を、一番近くで聞いている。それが、私の幸せだ。』


その日から、由貴と蒼石の日々は静かに、しかし確かに変わっていった。蒼石の新作小説は前作以上の反響を呼び、彼は売れっ子小説家への道を歩み始める。由貴はその傍らで、自分の言葉を紡ぎ続けた。彼女の影アカウントは、今や多くの人の心の支えとなっていた。


そして、ある日。編集者の河野から、一通の提案が届いた。


「橘先生、由貴様。ぜひ、お二人で対談イベントを開いていただけませんか? 読者の皆さんも、二人の言葉を直接聞きたいと願っています。」


由貴はその提案に、少し迷った。彼女は自分の顔を出すことに、まだ抵抗があった。しかし、蒼石は静かに言った。


「……由貴が決めることだ。」


由貴はしばらく考えた後、うなずいた。


「……やろう。私の言葉も、あなたの言葉も、誰かに届けたい。」


その日、イベントは東京で行われた。会場は満員で、由貴はその光景に少し圧倒されながらも、蒼石と並んで壇上に立った。彼の隣に立つことで、彼女は不思議と落ち着いていた。


「……本日はお越しいただき、ありがとうございます。私は橘蒼石です。」


「……早乙女由貴です。」


二人の声が、会場に響く。由貴は深く息を吸い込み、自分の言葉を紡ぎ始めた。


「……私は、誰かに『綺麗』と言ってもらいたいと願っていました。でも、本当に大切なのは、誰かに認められることじゃない。誰かがあなたを見て、あなたを『言葉』にしようとしてくれていること、それに気づくことです。」


会場から拍手が起こる。由貴はその拍手を聞きながら、蒼石の横顔を見た。彼は相変わらず無表情だが、その瞳は優しく由貴を見つめている。


「……私は、この人の隣で、言葉を紡ぎ続けます。それが、私の選んだ道です。」


蒼石はその言葉を聞いて、初めてはっきりと微笑んだ。由貴はその微笑みを見て、心臓が跳ねるのを感じた。


イベントが終わり、二人は会場を後にした。外はもう夜で、街灯の明かりが道を照らしている。由貴は蒼石の隣を歩きながら、静かに言った。


「……ねえ、蒼石。今日のイベント、どうだった?」


「……由貴の言葉が、たくさんの人に届いていた。」


「……そう? よかった。」


「……由貴、一つだけ聞いてもいいか?」


「……何?」


蒼石は足を止め、由貴の方を向いた。彼の目は真剣で、由貴はその瞳に吸い込まれそうになった。


「……由貴は、俺の言葉を、『綺麗』だと思うか?」


由貴はその質問に、一瞬息を呑んだ。そして、彼女は笑いながら答えた。


「……うん。あなたの言葉は、いつだって美しいよ。それは、私が一番知っている。」


蒼石はその言葉を聞いて、もう一度微笑んだ。そして、彼は静かに言った。


「……それでいい。君の『綺麗』は、俺だけが知っている。」


由貴はその言葉に、涙がこぼれ落ちた。彼女はそれを拭うこともせず、蒼石の手を握った。


「……うん。私の『綺麗』は、あなただけのものだよ。」


その夜、二人は東京の街を歩きながら、これからのことを語り合った。蒼石は新たな小説を書き、由貴は自分の言葉を紡ぎ続ける。それは、特別なことではないかもしれない。でも、彼らにとっては、何よりも大切な日々だった。


数ヶ月後、蒼石の新作小説『隣の君が書いた、僕だけが読めない言葉』が発売された。それは、彼と由貴の物語を綴った作品だった。発売初日で重版が決まり、多くの読者の心を掴んだ。


由貴はその本を手に取り、見開きを開いた。そこには、蒼石のサインと、一言だけ書かれている。


『由貴へ。君の言葉は、永遠に俺の隣にある。蒼石』


由貴はその文字を読み、静かに微笑んだ。彼女は本を胸に抱きしめ、窓の外を見た。そこには、彼女が愛する山陰の景色が広がっている。そして、隣の部屋からは、蒼石が原稿を書くペンの音が聞こえてくる。


(……これでいい。私の居場所は、ここにある。)


由貴はノートを開き、新しい一文を書いた。


『彼は、誰かに「伝えたい」と願っている。そして、私はその言葉を、一番近くで聞いている。それが、私の幸せだ。』


それから、彼女はペンを置き、蒼石の部屋に向かった。ドアを開けると、彼は相変わらず机に向かっている。


「……蒼石、お茶を入れたよ。」


「……ありがとう。」


由貴は彼の隣に座り、一緒に原稿を眺めた。そこには、新しい物語の始まりが書かれている。


「……これ、何の話?」


「……まだ、秘密だ。」


「……じゃあ、完成したら教えてね。」


「……ああ。」


由貴はその言葉に、心から微笑んだ。彼女は蒼石の肩に寄り添い、静かに目を閉じた。


――彼の言葉は、いつだって由貴のそばにある。そして、由貴の言葉もまた、彼のそばにある。


それが、二人の『言葉』の物語だった。


【完】


*****


■ あとがきに代えて


この物語は、誰かに「綺麗」と言ってもらいたいと願う一人の女性と、それを言葉にできない一人の男性の物語でした。


SNSの「いいね」に依存する由貴と、観察することでしか愛を表現できない蒼石。二人はすれ違いながらも、最終的には互いの「言葉」を見つけました。


この作品を通して、読者の皆さんに伝えたかったことは「誰かに認められること」よりも、「誰かがあなたを言葉にしようとしていること」の方が、もしかしたら大切なのかもしれない、ということです。


あなたの隣にも、あなたを「言葉」にしようとしている人がいるかもしれません。そのことに気づくことが、最初の一歩です。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


橘蒼石/早乙女由貴(物語の中の二人より)

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隣の君が書いた、僕だけが読めない言葉 TroTro @Tropical2025

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