第17話 編集者からのオファー

発売日の朝、由貴は一番に書店に立っていた。


山陰の小さな町にある本屋。店先には、蒼石の小説が平積みにされている。『隣の姫君は今日も我儘で綺麗だ』そのタイトルを見た瞬間、由貴の胸が熱くなった。


彼女は震える手で一冊を手に取り、表紙を撫でた。そこには、彼女がモデルだと気づく者もいるかもしれない、そんな見覚えのある横顔が描かれている。イラストレーターが蒼石の描写を元に描いたものだ。


「……すごい。本当に、本になったんだ。」


由貴はその場でページを開いた。最初の一文が目に飛び込んでくる。


『彼女はいつも、誰かに「綺麗」と言ってほしいと願っている。しかし、本当に彼女を綺麗にしているのは、彼女自身のその願いそのものだ。』


由貴はその文章を読み、涙がこぼれ落ちた。彼女は慌ててそれを拭い、本を抱きしめた。店員が不思議そうに彼女を見ていたが、由貴は構わずにそのまま会計を済ませた。


旅館に戻ると、蒼石は相変わらず机に向かって原稿を書いている。由貴は彼の背中に、買ってきた本を差し出した。


「……蒼石、見て。本が出たよ。」


蒼石はゆっくりと振り返り、由貴の手にある本を見つめた。彼はしばらくそれを見つめていたが、やがて静かに言った。


「……そうか。」


「そうか、だけ? もっと喜んでもいいのに!」


「……喜んでいる。ただ、言葉にできないだけだ。」


由貴はその言葉に、なぜか笑ってしまった。彼は相変わらずだ。感情を言葉にするのが苦手な、口下手な小説家。でも、今の由貴はそれで十分だと分かっていた。


「……ねえ、蒼石。この本、私がもらっていい?」


「……好きにしろ。」


「じゃあ、もらうね。あなたのサイン、入れてよ。」


蒼石は少し迷ったが、ペンを手に取り、本の見開きに一言だけ書いた。


『由貴へ。お前がいてくれたから、この言葉は生まれた。蒼石』


由貴はそのサインを見て、また涙が浮かんだ。彼女は本を胸に抱きしめ、蒼石の隣に座った。


「……ありがとう、蒼石。」


「……こちらこそ。」


その頃、東京では蒼石の小説が予想以上の反響を呼んでいた。発売初日で重版が決まり、SNSでは「この小説のモデルは早乙女由貴だ」という話題が再燃している。由貴のインタビューも相まって、二人の物語は多くの人の心を掴んでいた。


編集者の河野は、その反響に満足げな表情を浮かべながら、次の企画を考えていた。彼は蒼石に新しいオファーを出すために、再び山陰へ向かうことを決意する。


一方、由貴は山陰の町で、蒼石と過ごす日々を大切にしていた。彼女はSNSを更新する頻度を減らし、代わりに蒼石の原稿を手伝うようになっていた。彼の書く文章を読み、時には意見を言い、時にはただ隣に座っている。そんな時間が、由貴にとって何よりも大切だった。


「……蒼石、次の小説、もう書いてるの?」


「……ああ。」


「どんな話?」


「……まだ、言えない。」


「えー、教えてよ。」


「……完成したら、最初に読ませる。」


由貴はその言葉に、少しだけ嬉しくなった。彼はいつもそうだ。由貴を一番に考えてくれている。それは、言葉にはしなくても、彼の行動が証明している。


その夜、由貴は蒼石の原稿を覗き込んだ。そこには、新しい物語のタイトルが書かれている。


『隣の君が書いた、僕だけが読めない言葉』


由貴はそのタイトルを見て、一瞬息を呑んだ。


「……これ、私たちの話?」


「……そうだ。」


「……どうして、このタイトルにしたの?」


蒼石は少し間を置いて、静かに言った。


「……お前の『綺麗』は、俺だけが知っている。でも、それでいいと思った。お前が他の誰かに『綺麗』と言われても、俺の知っているお前の『綺麗』は、変わらないから。」


由貴はその言葉に、涙が止まらなかった。彼女は蒼石の肩に寄り添い、静かに言った。


「……私も、あなたの『言葉』は、私だけが知っている。それでいい。」


二人はその夜、新しい物語の構想を語り合った。それは、彼らだけの物語。誰にも語られない、でも確かに存在する言葉の物語だった。


数日後、河野編集者が山陰の旅館を訪れた。彼は蒼石と由貴に、新たなオファーを持ってきていた。


「橘先生、早乙女様。今回の書籍化、大成功でした。ぜひ、続編を書いていただけませんか?」


蒼石はその申し出を聞き、由貴の方を向いた。由貴は彼にうなずいた。


「……考えておきます。」


「もちろんです。お時間はいくらでもお取りください。ただ、読者の皆さんは、二人のその後の物語を待っています。」


河野が帰った後、由貴は蒼石に言った。


「……続編、書くの?」


「……どう思う?」


「……私は、書いてほしい。あなたの言葉を、もっとたくさんの人に届けてほしい。」


蒼石はその言葉に、静かにうなずいた。


「……なら、書く。」


彼は机に向かい、新しい原稿用紙にペンを走らせ始めた。由貴はその背中を見つめながら、自分もまた、彼の隣で何かを始めようと決意した。


(……私も、何か書いてみよう。あなたの言葉に影響されて、私の言葉も生まれるかもしれない。)


その夜、由貴は自分のノートを開き、最初の一文を書いた。


『彼はいつも、誰かに「伝えたい」と願っている。しかし、本当に彼を伝えているのは、彼自身のその願いそのものだ。』


それは、蒼石の小説の冒頭を真似たような一文だった。でも、由貴にとっては、自分自身の言葉だった。


(……これが、私の始まり。)


由貴はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。そして、彼女は蒼石の隣で、自分の言葉を紡ぎ始めた。

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