第18話 影アカウント

由貴が自分の言葉を書き始めてから、一週間が経った。


彼女は毎晩、蒼石が原稿を書いている隣で、自分のノートを開いていた。最初は彼の真似をしていただけだった。しかし、次第に自分なりの言葉が見つかり始める。彼女はそれを、誰にも見せずにこっそりと書き溜めていた。


ある夜、由貴はスマホを手に取り、新しいアカウントを作成した。名前は『隣の観察者』。プロフィールには何も書かず、アイコンも真っ黒。誰にもバレない、完全な匿名アカウントだった。


彼女はそこに、自分が書いた言葉を投稿してみることにした。


『彼はいつも、誰かに「伝えたい」と願っている。けれど、その言葉はなかなか届かない。なぜなら、彼は本当に伝えたいことを、言葉にするのが下手だから。』


投稿した瞬間、由貴の心臓はドキドキしていた。誰かに見られるかもしれない。誰かにバレるかもしれない。でも、それ以上に、自分が書いた言葉が誰かの目に触れることが、彼女には新鮮だった。


翌朝、由貴が目を覚ますと、その投稿には『いいね』が三つついていた。たったの三つ。でも、由貴はそれに心が弾んだ。


(……誰かが、私の言葉を読んでくれた。)


彼女はそれから毎晩、少しずつ文章を投稿し始めた。蒼石の観察日誌を思い出しながら、自分の目で見た蒼石のことを書く。彼の無言の優しさ、口下手な性格、それでも由貴を想い続ける姿。

全部を、自分の言葉で綴っていった。


『彼はカメラを構えるとき、いつも少しだけ眉をひそめる。それは、被写体を逃すまいとしているからだ。』


『彼がほうじ茶を入れるとき、いつも同じ温度になる。それは、彼が誰かのために温度を覚えているからだ。』


『彼は「綺麗」と言わない。でも、その代わりに、もっと多くの言葉をくれる。』


由貴の投稿は、少しずつ反響を呼び始めた。匿名アカウントにもかかわらず、その文章の温かさとリアリティが、読者の心を掴んだのだ。『いいね』は三つから十に、十から百に増えていった。


そして、ある日。由貴が投稿した一文が、予想外の形で拡散された。


『彼は、誰かに「綺麗」と言われたいと願う彼女を見て、ただ一言も言わずに写真を撮り続けた。それは、言葉にできない愛情の形だった。』


この投稿が、蒼石の小説を読んだ読者の目に留まったのだ。彼らはすぐに、この匿名アカウントが由貴本人ではないかと推測し始めた。


『これって、あの小説のモデルの人じゃない?』


『由貴ちゃんの視点で書かれてる…!すごく切ない。』


『蒼石くんの気持ち、こんな風に見えてたんだ。』


由貴はその反響に慌てた。彼女はすぐにアカウントを非公開にしようとしたが、時すでに遅し。その投稿は瞬く間に拡散され、蒼石の小説の読者コミュニティで大きな話題となっていた。


その夜、由貴が蒼石の部屋に戻ると、彼はスマホを見つめて何かを考え込んでいた。由貴はその様子に、嫌な予感がした。


「……蒼石、何見てるの?」


「……これ、由貴が書いたのか?」


彼が差し出したスマホの画面には、由貴の影アカウントの投稿が表示されていた。由貴はその場に固まった。


「……えっと、それは……」


「……由貴の言葉だ。間違いない。」


蒼石の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。由貴は観念して、すべてを話した。


「……ごめん、内緒でやってたの。あなたに迷惑をかけると思って。」


「……迷惑じゃない。」


蒼石はそう言って、由貴の隣に座った。


「……むしろ、嬉しい。」


「……嬉しい?」


「……ああ。由貴が、自分の言葉を持ったことが、嬉しい。」


由貴はその言葉に、涙がこぼれ落ちた。彼女は慌ててそれを拭いながら、蒼石に言った。


「……でも、バレちゃったよ。これからどうしよう?」


「……そのままでいい。」


「……そのまま?」


「……ああ。由貴が書いた言葉は、由貴のものだ。誰かにとやかく言われる筋合いはない。」


蒼石はそう言って、由貴の頭をそっと撫でた。由貴はその手の温もりに、心が溶けるような感覚を覚えた。


その夜、由貴は影アカウントを非公開にせず、そのまま続けることを決意した。代わりに、彼女は新しい投稿を一つだけ追加した。


『私は、彼の隣で言葉を紡ぐことにした。それは、誰にでもできることじゃない。でも、私にはできる。なぜなら、彼が私に言葉をくれたから。』


その投稿は、さらに多くの人の心を掴んだ。由貴の言葉は、蒼石の小説とはまた違った形で、多くの人の共感を呼んだ。


一方、涼太はその影アカウントを発見していた。彼は由貴の投稿を読みながら、静かに笑った。


「……なるほど。彼女もまた、言葉を紡ぐようになったか。面白い。」


涼太は何かを考え込むように、スマホを置いた。そして、彼は一つの決断を下す。


(……俺も、彼女に何かを届けるべきかもしれない。)


彼は新しい企画を考え始めた。それは、由貴にとって最後の贈り物になるかもしれない、そんな企画だった。


その夜、由貴と蒼石は旅館の縁側に並んで座っていた。星が綺麗に見える。由貴はその星空を見上げながら、蒼石に言った。


「……ねえ、蒼石。私の言葉、あなたに届いてる?」


「……ああ。ちゃんと届いている。」


「……それなら、よかった。」


由貴はそう言って、蒼石の肩に寄り添った。彼は何も言わなかったが、その手がそっと由貴の手を握っていた。

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