2026年8月6日 14:56
風蝶草への応援コメント
「文芸百合作品の読み合い企画です!」 からきました。拝読しました。言い切られないまま残る余白や、言葉の配置にとても惹かれる読者です。本文の中で言葉や人と人との位置がどう作られていくかを辿りながら、私なりに受け取ったことを書いています。ひとつの読みとしてお受け取りいただければ幸いです。「私は、恋を致しました」最初にあれほど真っ直ぐ言い切っておきながら、そのすぐあとで、恋慕を宝石箱へ仕舞うように「ひけらかさないことを決意いたしました」と続く。この二つの文が近くに置かれていることが、読み終えるまでずっと残っていました。誰にも告げずに仕舞うと決めたはずの思慕が、そのまま静かに収まっているわけではないと思いました。りぃん。りぃん。先生の声を聞くたび、鼓膜の奥で鈴の音が鳴る。こつ、こつ。板書を眺めれば、その音とともに字句が踊り、そこに先生の「お人柄」まで見えるように感じられる。対面よりも、紙の上から人の心情や機微を読み取るほうが安心する〈私〉にとって、文字は初めから、ただ言葉を伝えるためだけのものではなかったのだと思います。先生が誰かを特別視しない公正な人であることが、「安心」であると同時に「心細い」というところも印象に残りました。安心できる距離が、そのまま近づけない距離にもなっているようでした。この作品の奥で静かに支えているものについて、私なりに考えました。◇堆積していく思慕は、まず風蝶草の小さな花弁へ委ねられます。けれど、籠の扉は開放されているのに、蝶に似た花は枝に繋がれたまま、飛び立ちません。ぽとり、ぽとり。花弁は落ち、また新しい花弁が生まれる。そのあと、〈私〉は思慕を文字としてしたためることを選びます。ただ、「美麗な語句」で綴ろうとして、そこで選ばれるのがボールペン字講座なのです。何を書くかではなく、見本の字形をなぞる。そのことに、強く引っかかりました。〈私〉にとって、文字は「心魂の形貌」を映すものです。だから〈私〉の中では、字の歪みを直すことが、自分の歪みを直すことにも繋がっているようです。けれど、本当に字形を整えることで心魂まで変わるのか。その間をつなぐものは書かれていません。同じころ、〈私〉は、秘密や歪を吸い込ませれば風蝶草はさらに美しくなると考えます。そして、花の清楚な色合いを前に、「そうしてそれは事実でした」と言い切ります。飛べない花についても、〈私〉は「やがてはためくのです」と言い切ります。けれど、その「やがて」がいつ訪れるのか、どのようになれば飛べるのかは書かれません。いま飛べないことさえ、〈私〉には、「やがて」へ向かう途中の姿として見えているようでした。ぽとり、ぽとりと花弁が落ち、また生まれる。それでも、〈私〉の確信は消えません。そして、「私自身が蝶に、花になれば良いのです」それまで思慕を花へ委ねていた〈私〉が、自分自身を花や蝶の側へ置き換えます。そこから先の図書室場面を、どういう出来事として受け取ればよいのか、私には決められませんでした。指がなぞった跡から花が咲き、その花が字句を象り、やがて蝶となって窓の外へ飛んでいく。そこに現れる文字は、先生の板書に見劣りしないほど美麗です。名前を書かない手紙を考えていた〈私〉が、ここでは自分の声で「お慕い申しております。先生」と呼びかける。その声を先生が聞いたのか、窓の外へ飛んだ蝶が先生のもとへ届いたのかは、書かれていません。声が出たことと、それが届いたことの間には、何も書かれていない空間があるように感じます。その直後、〈私〉は自室にいて、ノートには、〈私〉自身が「凡そ字句とは形容しがたく」と書くほど、判別の難しい筆記が残されています。図書室で綴られた、先生の板書に見劣りしない文字と、自室に撒き散らされた、字句とは呼びがたい筆記。どちらが〈私〉の心魂を映しているのか。この作品は、その二つのうち一方だけを答えとして選びません。理想に沿って流れる字句も、吐瀉のように残された線も、同じ〈私〉の手元に置かれています。ノートを破り、泥団子のようにして花壇へ還したあとにも、何かが片づいたとは書かれない。そして最後に呼びかけられる相手は、先ほどまでの明確な「先生」ではなく、「貴女」へ変わっています。「私と貴女、どちらが先に風に舞う事が出来ますのかしら」図書室場面では、蝶が窓の外へ飛んでいきます。それでも物語の最後には、誰が先に風に舞うのかが、まだこれからのこととして問われる。その二つの飛翔が同じものなのか、別のものなのかも、私には決められませんでした。花へ委ね、文字にし、最後には自分の声で「先生」と呼びかけても、その思慕が届いたのか、受け取られたのかは書かれません。そして答えのない「貴女」への呼びかけが、最後に残りました。
作者からの返信
先ずは当作品をご覧いただき誠にありがとうございます。そして、素敵な解釈をコメントとしていただけこと、大変、嬉しく思います。丁寧に、そして物語をなぞりながら感想をはさんでいただけていることが、自分の作品を読んでいただけた、解こうとしてくださったことの足跡のように思えて、Lina Ictus Fluctusさんの読みを拝読させていただくことが出来ました。筆者でありながら読者様の言葉を読み返す、という素敵な体験を出来たことにも感謝を述べさせてください。先ず、嬉しいと感じたのは文字との関係について解釈をくださったことです。この物語において文字は鏡の役割を果たしていると考えていて、理想と現実を同時に映し出しています。それと同時に言葉よりも文字に対して思い入れがある<私>が先生の声には鈴の音を聞くように聞き入ります。飛翔についても、別のものである可能性について解釈をしてくださったのが凄く嬉しかったです。同じものであるが順序、あるいは温度が別である、というわけではなく、あるいはそれ自体が既に別のものになっている可能性もあると思いますが、図書室で見た飛翔が、確かにこの先に訪れるかもしれない『飛翔』とは異なるはためき方をする可能性は十分にあり得て、<私>自身が何をして風に舞うとするのかは語られていません。Lina Ictus Fluctusさんの感想や解釈から得られる発想や、作品に対する違うアプローチでの解釈の仕方や考察の仕方も出来てとても楽しかったです。重ねてではありますが誠にありがとうございました。とても励みになりました!
風蝶草への応援コメント
「文芸百合作品の読み合い企画です!」 からきました。
拝読しました。
言い切られないまま残る余白や、言葉の配置にとても惹かれる読者です。本文の中で言葉や人と人との位置がどう作られていくかを辿りながら、私なりに受け取ったことを書いています。ひとつの読みとしてお受け取りいただければ幸いです。
「私は、恋を致しました」
最初にあれほど真っ直ぐ言い切っておきながら、そのすぐあとで、恋慕を宝石箱へ仕舞うように「ひけらかさないことを決意いたしました」と続く。この二つの文が近くに置かれていることが、読み終えるまでずっと残っていました。
誰にも告げずに仕舞うと決めたはずの思慕が、そのまま静かに収まっているわけではないと思いました。
りぃん。りぃん。
先生の声を聞くたび、鼓膜の奥で鈴の音が鳴る。
こつ、こつ。
板書を眺めれば、その音とともに字句が踊り、そこに先生の「お人柄」まで見えるように感じられる。対面よりも、紙の上から人の心情や機微を読み取るほうが安心する〈私〉にとって、文字は初めから、ただ言葉を伝えるためだけのものではなかったのだと思います。
先生が誰かを特別視しない公正な人であることが、「安心」であると同時に「心細い」というところも印象に残りました。安心できる距離が、そのまま近づけない距離にもなっているようでした。
この作品の奥で静かに支えているものについて、私なりに考えました。
◇
堆積していく思慕は、まず風蝶草の小さな花弁へ委ねられます。けれど、籠の扉は開放されているのに、蝶に似た花は枝に繋がれたまま、飛び立ちません。
ぽとり、ぽとり。
花弁は落ち、また新しい花弁が生まれる。
そのあと、〈私〉は思慕を文字としてしたためることを選びます。
ただ、「美麗な語句」で綴ろうとして、そこで選ばれるのがボールペン字講座なのです。何を書くかではなく、見本の字形をなぞる。そのことに、強く引っかかりました。〈私〉にとって、文字は「心魂の形貌」を映すものです。だから〈私〉の中では、字の歪みを直すことが、自分の歪みを直すことにも繋がっているようです。
けれど、本当に字形を整えることで心魂まで変わるのか。その間をつなぐものは書かれていません。
同じころ、〈私〉は、秘密や歪を吸い込ませれば風蝶草はさらに美しくなると考えます。そして、花の清楚な色合いを前に、
「そうしてそれは事実でした」
と言い切ります。
飛べない花についても、〈私〉は「やがてはためくのです」と言い切ります。
けれど、その「やがて」がいつ訪れるのか、どのようになれば飛べるのかは書かれません。いま飛べないことさえ、〈私〉には、「やがて」へ向かう途中の姿として見えているようでした。
ぽとり、ぽとりと花弁が落ち、また生まれる。
それでも、〈私〉の確信は消えません。
そして、
「私自身が蝶に、花になれば良いのです」
それまで思慕を花へ委ねていた〈私〉が、自分自身を花や蝶の側へ置き換えます。
そこから先の図書室場面を、どういう出来事として受け取ればよいのか、私には決められませんでした。指がなぞった跡から花が咲き、その花が字句を象り、やがて蝶となって窓の外へ飛んでいく。そこに現れる文字は、先生の板書に見劣りしないほど美麗です。
名前を書かない手紙を考えていた〈私〉が、ここでは自分の声で
「お慕い申しております。先生」
と呼びかける。
その声を先生が聞いたのか、窓の外へ飛んだ蝶が先生のもとへ届いたのかは、書かれていません。
声が出たことと、それが届いたことの間には、何も書かれていない空間があるように感じます。
その直後、〈私〉は自室にいて、ノートには、〈私〉自身が「凡そ字句とは形容しがたく」と書くほど、判別の難しい筆記が残されています。
図書室で綴られた、先生の板書に見劣りしない文字と、自室に撒き散らされた、字句とは呼びがたい筆記。
どちらが〈私〉の心魂を映しているのか。
この作品は、その二つのうち一方だけを答えとして選びません。理想に沿って流れる字句も、吐瀉のように残された線も、同じ〈私〉の手元に置かれています。
ノートを破り、泥団子のようにして花壇へ還したあとにも、何かが片づいたとは書かれない。そして最後に呼びかけられる相手は、先ほどまでの明確な「先生」ではなく、「貴女」へ変わっています。
「私と貴女、どちらが先に風に舞う事が出来ますのかしら」
図書室場面では、蝶が窓の外へ飛んでいきます。それでも物語の最後には、誰が先に風に舞うのかが、まだこれからのこととして問われる。
その二つの飛翔が同じものなのか、別のものなのかも、私には決められませんでした。
花へ委ね、文字にし、最後には自分の声で「先生」と呼びかけても、その思慕が届いたのか、受け取られたのかは書かれません。
そして答えのない「貴女」への呼びかけが、最後に残りました。
作者からの返信
先ずは当作品をご覧いただき誠にありがとうございます。
そして、素敵な解釈をコメントとしていただけこと、大変、嬉しく思います。丁寧に、そして物語をなぞりながら感想をはさんでいただけていることが、自分の作品を読んでいただけた、解こうとしてくださったことの足跡のように思えて、Lina Ictus Fluctusさんの読みを拝読させていただくことが出来ました。筆者でありながら読者様の言葉を読み返す、という素敵な体験を出来たことにも感謝を述べさせてください。
先ず、嬉しいと感じたのは文字との関係について解釈をくださったことです。この物語において文字は鏡の役割を果たしていると考えていて、理想と現実を同時に映し出しています。それと同時に言葉よりも文字に対して思い入れがある<私>が先生の声には鈴の音を聞くように聞き入ります。
飛翔についても、別のものである可能性について解釈をしてくださったのが凄く嬉しかったです。同じものであるが順序、あるいは温度が別である、というわけではなく、あるいはそれ自体が既に別のものになっている可能性もあると思いますが、図書室で見た飛翔が、確かにこの先に訪れるかもしれない『飛翔』とは異なるはためき方をする可能性は十分にあり得て、<私>自身が何をして風に舞うとするのかは語られていません。
Lina Ictus Fluctusさんの感想や解釈から得られる発想や、作品に対する違うアプローチでの解釈の仕方や考察の仕方も出来てとても楽しかったです。
重ねてではありますが誠にありがとうございました。
とても励みになりました!