第17話 背徳のラーメン

 扇風機の前を陣取り、フルーツ牛乳を一気に飲み干す。風呂上がりの一杯は格別だ。


「ぷはー、うま!皐月さんはコーヒー牛乳にしたんですね」

 

「次はフルーツ牛乳にしようかな」


 うん。大丈夫。風呂に入っても何も思わない。

 だって男同士だから。

 男同士が一緒に風呂に入るのは、至極普通のことだから!


 すると、ぎゅるるる、と腹の音。

 夕飯を食べ損ねたことに気が付いた。


「焼きそばは明日リベンジするとして、今日はラーメン食べて帰りません?」


「うん、そうしようか」


 銭湯行った帰りにラーメンを食べて帰る。

 これってめちゃくちゃ男友達って感じがする。


 曖昧だった境界線を引き直すことができて、俺はすっかり安心しきっていた。


♢♢♢


 銭湯の近くにあるラーメン屋に来た。

 食券を購入し、カウンター席に並んで座る。

 カウンターでは頭にタオルを巻いた強面のおじさんが、慣れた手付きでスープを器に注いでいた。


「あいよ、特製豚骨醤油ラーメン」


 濃厚な茶色いスープの上に浮かぶ脂。豚骨の少し癖のある匂い。

 チャーシューと味玉、メンマとネギと海苔が綺麗に浮かんでいる。口の中にじゅわりと唾が広がった。


「「いただきます」」


 ずるずる、と勢いよく麺をすすり、スープを飲んだ。

 お腹の底から温まって、自然と頬が緩む。


「夜中のラーメンは背徳の味ですね。俺、ラーメン屋来たの久しぶりです」


 最後に来たのは、いつだっただろう。

 ふいに、父のことを思い出した。

 六年前に亡くなった、父さん。


 そうだ、最後にラーメン屋さんに来たのは、父さんとだった。


 大家族で、長男の俺は何かと下の面倒を見て我慢することも多かった。

 そんな俺をねぎらうかのように、年に何度か父さんは「あいつらには内緒だぞ」と言って二人でラーメンを食べに連れて行ってくれた。


 その時間だけは父を独り占めできたような気がして、嬉しかったんだ。


『たまご食わねえのか?はやく食わんと、黄身溶けるぞ』


『一番好きだから最後に残してる』


『……ほら』


 父さんは、自分の味玉をレンゲで掬って俺にくれた。


『父さんの無くなっちゃうよ』


『いいんだよ』


 嬉しくて、結局俺はその味玉を最後まで取っておいた。

 食べる時も勿体なくて、ちびちび齧るように食べて。

 父さんはそんな俺を見て呆れたように笑っていたけど。


 思い出したらしんみりしてしまった。

 手が止まった俺に気付いた皐月さんは、「桃園くん?」と俺の顔を覗き込んだ。


「あっ……はは、ちょっとぼんやりしてました」


「……」


 誤魔化すように麺を啜っていると、隣で「味玉追加できますか?」とカウンター越しで店主に聞いている。

 すぐに、白い小皿に乗せられた味玉が出て来た。その皿を、皐月さんは俺の方へことりと置いた。


「どうぞ」


「え、なんで」


「好きじゃなかった?」


「いや、好きなんですけど……俺味玉好きって言いましたっけ?」


「いつも好きなもの、一番最後に残してない?だから好きなのかなって」


 麺と味玉だけになったラーメンの器に視線をやった。


(バレてたんだ)

 

 なんだか子ども扱いされたようで、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。

 思わず口元を手で覆い隠した。


「桃園くん、今日は頑張ったからご褒美だよ」


 皐月さんはくしゃりと顔を綻ばせ、大人が子どもを褒めるみたいな言い方をした。

 心臓がドッ、と大きな音を立てる。


「あ、ありがとうございます……いただきます」


 その後も、皐月さんは俺が味玉を食べるのを嬉しそうに眺めていた。

 父さんが俺を見る瞳と近しい、愛情が込められた視線だ。


 こんなに優しくていい人なのに、御影の記憶が戻ったらどうなるんだろう。


(皐月さんに嫌われたくないな)


 皐月さんの優しい視線が怒りに染まるのか、それとも哀しみに染まるのか。

 想像するだけで、胸が痛くなる。

 

 でもそこに一滴違う種類の感情が潜んでいることには、この時の俺にはまだ分からなかった。


 ♢♢♢


 数日後、朝の報道番組であの男が逮捕されたというニュースを見た。


「うわ、こいつ!こいつですよ!よかった捕まって……」


 納豆ごはんを食べながら、事件の概要に耳を傾けた。

 あの男は女性のストーカーで、既に接触禁止令が出ていたらしい。警察の取り調べに対しては「女性とは交際関係だった」と供述していたのだとか。


「ひぇー、思い込みじゃん、怖……愛が憎しみに、ってやつなんですかねぇ」


 思わず食事の手が止まり、テレビに見入ってしまう。ふと、視線を皐月さんに向ければ、彼の眉間には深い皺が刻まれ、不快感を滲ませていた。


「皐月さん、眉間」


「え?」


「怖い顔してますよ、お」


「お?」


 そこまで言いかけて、続く言葉を飲み込んだ。


(鬼みたいな、っていうのは駄目か!?他におがつく言葉、何か……!)


「お、おおお、王様!王様みたいな、怖い顔して!」


「王様……?」


 きょとんとした顔で、首を斜めに傾げている。

 苦しいですよね、俺もそう思います。

 すると彼はぷっと吹き出し、肩をくつくつと揺らして笑い出した。


「王様みたいって、どんな顔?」


「こう、余は大変遺憾である、みたいな顔ですよ」


 急に挙動不審な態度を取ったにも関わらず、笑いに変えられたみたいだ。

 皐月さんが天然で良かった。

 なんとかこのまま誤魔化そう。


「でも、皐月さんもこれだけ美人だとストーカー被害に合ってもおかしくないですからね!気を付けてくださいよ」


「桃園くんもだよ。もう無茶なことはしないでね。君が帰ってこないと、僕はきっと——死んじゃうから」


 一瞬、ひやりとした牙を喉元に立てられたような気がした。

 朝の明るい陽射しに包まれたダイニングに、影が差す。


「そ、そんな、大げさな……」


 口元が引き攣って、乾いた笑いしか出てこない。


「……だって、毎日桃園くんに美味しいご飯を作ってもらってる。これが食べられなくなったら、餓死しちゃうかもしれないよ」

 

 皐月さんは冗談めかしてにこりと笑った。でも、視線だけは鋭く突き刺さるように俺に向けられている。



「桃園くん、僕は」


 彼の言葉を遮るように、キッチンからヤカンの湯が吹きこぼれる音が響いた。

 俺は慌てて立ち上がり、逃げるように台所へ向かった。


 コンロのスイッチを押して、火を止める。

 さっきの皐月さんの言葉が、心に深く、重く沈み込んだ。

 テレビから聞こえるニュースの声が、どこか軽薄に感じるほどに。


「……あ、さっき何か言いかけてました?」


「……ううん、なんでもないよ」


 キッチンのカウンター越しに見た皐月さんは、普段通りの優しい表情をしていた。

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