第4話 ガラス越しの夕日
十月に入り、街を渡る風に秋の冷たさが混じり始めていた。
長野から戻って以降、泰介の体調は明確に坂道を下り始めていた。食事の量が半分以下になり、激しい胃痛を抑える鎮痛剤の量も増えた。鏡に映る自分の顔は一回り痩せ、頬の肉が落ちている。
だが、泰介の足取りに迷いはなかった。
胸ポケットのノートを取り出し、開く。
指で追うのは、三つ目の項目だ。
『やり残したこと:会えなかった人に会う』
日曜日。泰介は、指定された小高い丘の上にある小さな喫茶店にいた。
大きなガラス窓から、琥珀色に染まる街並みが一望できる。テーブルの上には、二杯の紅茶が湯気を立てていた。
「佐原くん……なんだか、夢みたいだね」
向かいに座る女性――水野麻里が、柔らかい笑みを浮かべた。
高校時代と変わらない、少し垂れた優しい目元。目尻に小さなシワが増えていたが、それがかえって彼女が重ねてきた穏やかな月日を感じさせた。
「急に連絡してすまなかったな。仕事で近くまで来たから、つい昔の連絡先を辿ってしまって」
泰介は嘘をついた。自分が病気であることも、今日ここへ来た本当の理由も伏せたまま、懐かしい昔話に花を咲かせた。
放課後の校舎、文化祭の準備、二人で歩いた河川敷。
二十年以上前の記憶が、夕日に照らされて鮮やかに蘇ってくる。麻里は地元で結婚し、二人の子供を育てる母親になっていた。幸せそうに家族の話をする彼女の横顔を、泰介は愛おしく見つめた。
「佐原くん、あの頃のこと覚えている?」
麻里がふと、紅茶のカップを置いて泰介を見た。
「高校の卒業式の日。佐原くん、私に何か言いたそうにしてたでしょ? 放課後、下駄箱の前でずっと待っててくれたよね」
泰介の心臓が、跳ねた。
「……覚えてたのか」
「うん。でも私、バスの時間があって走って帰っちゃった。あの時、佐原くんが何を言おうとしていたのか、ずっと気になってたんだ」
二十年前の春の日の情景が、頭の中を駆け巡る。
ポケットの中で握りしめていた小さな手紙。震える声で告白しようとして、結局言えなかった「好きだ」の一言。
泰介は深く息を吐き、静かに麻里の目を見つめた。
「あの時は……『好きだ』って言いたかったんだ」
麻里が目を見開く。
「ずっと好きだった。でも、自分に自信がなくて、麻里ちゃんの眩しさに怯えて、何も言えないまま終わらせてしまった。それが、ずっと心のどこかに引っかかってたんだと思う」
「佐原くん……」
「でもね、水野さん」
泰介は「水野さん」と呼び直した。今目の前にいる彼女の人生と時間を尊重するように。
「今日、こうして会えて本当によかった。あの頃の淡い想いだけじゃなくて、こうして大人になって、それぞれの人生を歩んだ上で笑い合えることが、すごく嬉しい。あの時言えなかった言葉の代わりに、今はこれを言いたい」
泰介は優しく微笑んだ。
「俺の青春を、あんなに温かくて綺麗なおもいでにしてくれて、ありがとう。君が好きだったから、俺はあの苦しかった高校時代を乗り越えられたんだ」
ガラス越しに差し込む夕日が、二人のテーブルを赤く染めていく。
麻里の瞳に涙が溜まり、やがて頬をひとしずく、伝って落ちた。
「……ずるいよ、佐原くん。そんな風に言われたら、泣いちゃうじゃない」
麻里は照れくさそうに笑いながら、ハンカチで目元を拭った。
「私も、ありがとう。佐原くんが私のことをそんな風に思ってくれてただなんて……私の方こそ、一生の宝物をもらったよ」
店を出たところで、二人は足を止めた。
駅へと向かう道すがら、麻里が泰介を振り返る。
「佐原くん、身体に気をつけてね。また……いつか会おうね」
「うん。またね」
叶うはずのない「また」という言葉を交わし、ふたりは背を向けた。
歩き出し、一度だけ振り返ると、麻里が遠くで小さく手を振っているのが見えた。
泰介は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
過去の後悔が、感謝という温かな記憶に上書きされた瞬間だった。
駅から自宅へと戻る電車の中で、泰介はノートを開いた。
『会えなかった人に会う』の横に、ゆっくりと線を引っ張る。
(これで……三つ目だ)
窓の外の暗闇に映る自分の顔は痩せこけていたが、その瞳にはかつてないほどの穏やかな光が宿っていた。
余命365日 旭 @nobuasahi7
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