第3話 木香(きが)の家

中央本線の特急列車が、緑深い山々の間を縫うように走り抜けていく。

​窓の外を流れる風景を見つめながら、泰介は自分の右手に残る微かな震えを感じていた。会社でのプロジェクトを無事に終えた直後から、体調の波は確実に激しくなっていた。胃を締め付けるような不快感と、急激に奪われていく体力。

​だが、泰介の足は止まらなかった。

​胸ポケットの黒いノートを開く。

指でなぞったのは、二番目に書いた一行だった。

​『やり残したこと:謝れなかった人に謝る』

​駅からタクシーに乗り、二十分ほど走らせると、懐かしい木造の家屋が見えてきた。長野県木曽郡。木曽ひのきを扱う伝統的な木工職人の街だ。

​実家の敷地に足を踏み入れると、風に乗って懐かしいひのきの香りが鼻腔をくすぐった。母が他界して以来、十二年間、泰介が足を踏み入れることのなかった場所だ。

​トントン、とカンナを引く規則的な音が、作業場から響いていた。

​泰介が引き戸を開けると、舞い散る木粉の向こうに、丸まった背中があった。

佐原恒一。七十二歳。

かつては「頑固者」として近所でも恐れられ、大工仕事の道を継がずに東京の大学へ進学し、広告会社に就職した泰介を「家を捨てた裏切り者」と怒鳴りつけた父だ。

​カンナを引く手がピタリと止まった。

白髪の増えた頭を上げ、恒一がゆっくりと振り返る。深く刻まれた額のシワと、険しい目元。しかし、その瞳にはどこか老いの影が差していた。

​「……泰介か」

​低い、掠れた声だった。

​「何の用だ。今更戻ってきて」

​怒気を含んだ声を作ろうとしているが、そこには以前のような絶対的な威圧感はなかった。泰介は作業場の土間に足を下ろし、父の前に歩み寄った。

​「親父」

​「忙しいんだ。東京のサラリーマン様が冷やかしに来るような場所じゃない」

​恒一は再び泰介に背を向け、木材にカンナを当てようとした。その手が、わずかに震えているのを泰介は見逃さなかった。

​「親父、ごめん」

​泰介の言葉に、恒一の動きが止まった。

​「……何だと?」

​「ずっと勝手なことばかりして、ごめん。家を飛び出して、母さんの死目にも遅れて……親父にちゃんと頭を下げないまま、十二年も逃げ続けてごめん」

​泰介は土間に膝をつき、深く、深く頭を下げた。ひんやりとした土の冷たさが額に伝わる。

​「お前……急に帰ってきて、何を言ってるんだ」

​「ずっと謝りたかったんだ。親父が俺を突き放したのは、俺が自分の道を選ぶ覚悟すらない半端者だったからだろ。自分の不器用さを親父の頑固さのせいにして、逃げてたのは俺の方だった」

​泰介の声が微かに震えた。胃の奥から鋭い痛みが突き上げてきたが、歯を食いしばって耐えた。今、伝えなければ、二度と伝える機会はない。

​「俺は……親父の作る木製品がずっと誇りだった。親父の背中を見て育ったから、俺も妥協しない仕事をしたいと思えたんだ。遅くなったけど……ありがとう、親父」

​作業場に、静寂が満ちた。

柱時計のカチカチという音だけが響いている。

​やがて、カンナが床に置かれる音がした。

足音が近づき、泰介の目の前に古びた作業ズボンが止まった。

​「立ちなさい」

​絞り出すような声だった。

泰介が顔を上げると、恒一は泰介と目を合わせようとせず、そっぽを向いていた。だが、その頑固な職人の両目からは、大粒の涙が溢れ落ち、シワの刻まれた頬を伝っていた。

​「バカ者が……」

​恒一の手が、泰介の肩を強く掴んだ。ゴツゴツとした、木を削り続けてきた職人の硬く温かい手だった。

​「謝るのは……俺の方だ。お前がどんな思いで東京に行ったかも分からず、意地ばかり張りやがって……」

​恒一の肩が、激しく揺れた。

泰介は立ち上がり、小さくなった父の身体をそっと抱きしめた。ひのきの匂いと、年老いた父の温もり。十二年間の空白が、その温もりの中で静かに溶けていった。

​その夜、二人は何年ぶりか分からない酒を酌み交わした。

父の手料理を食べながら、泰介は自分が手掛けた広告の仕事について話した。恒一は嬉しそうに何度も頷き、「そうか、お前は立派な職人になったんだな」と呟いた。

​泰介は自分が余命一年であることを告げなかった。

残された少ない時間を、悲しみではなく、温かな記憶で満たしたかったからだ。

​翌朝、実家を去る泰介に、恒一は小さな木彫りのストラップを握らせた。

​「ひのきで作ったお守りだ。体に気をつけてな。……また、いつでも帰ってこい」

​「うん。また帰るよ、親父」

​バスの窓から手を振る父の姿が小さくなっていく。

泰介は手の中のひのきを強く握りしめ、胸のノートを開いた。

​『謝れなかった人に謝る』の文字の上に、力強く一本の線を引いた。

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