四の六

 自販機でジュースを買ってあげて、少しベンチで休んだら、落ち着きを取り戻したようだった。


「おじいちゃんとは、どうしてはぐれちゃったの?」


「トイレに行くのに、おじいちゃんをつき合わせたら悪いと思ったから」


 お年寄りで、目も不自由なおじいちゃんだから、トイレに行くあいだ、待っていてもらおうと思ったんだろう。しかし水族館は思いのほか広くて、しかも停電があったから混乱したのだ。迷子になってしまうのも無理はない。


「どこの階で分かれたか覚えてる?」


「わかんない」


「どんな場所だったとか、こんないきものがいたとかは?」


「うーん、ここより明るかったと思う」


 だとすると、地下より地上の階である可能性のほうが高い。ならば、とまずはエレベーターに乗って、上の階から順に探していくことにした。


 入ってすぐの展示しか観なかった二階だが、ちゃんと奥まで行ってみると、退屈な階などという認識は改めなければならないと思った。ここにいるのは日本のいきものばかりではない。世界中の淡水魚や、爬虫類や両生類などの水辺のいきものも多く飼育されていて、地味な雰囲気とは無縁だった。


 例えばスマトラ。金に黒の縦じま、背びれと尾びれに火種のような橙を灯した小型の魚で、人が近づくと水槽の壁面に群がってくる。人懐っこいのか、はたまたエサがもらえると学習した結果なのか。


 ショウヤくんはスマトラに気をとられて、一時的に自分の置かれた状況を忘れていたようだったけど、すぐわれに返り、不安そうな顔でわたしの隣に戻ってきた。


「大丈夫だって」


 励ますつもりで軽く肩を叩いてやると、ショウヤくんはわたしの手首を握ってきた。男の子なのにわたしより小さい手。けど、意外なほどに力は強い。


「おじいちゃんが心配」


 ショウヤくんがいって、わたしは気づいた。この子は、自分ではなく、おじいちゃんのことを思って不安になっているのだと。ひとりぼっちの自分より、目の不自由なおじいちゃんが心配で仕方なかったのだ。


「大丈夫」とわたしは繰り返した。その言葉を、絶対に嘘にしないために。


 ショウヤくんがわたしたちのところに来るまでに、どれだけかかったかわからない。けど、おじいちゃんが孫を心配するのに十分な時間が経っているのは間違いない。もしかすると、もうショウヤくんを探そうと動きだしてしまったかもしれない。


「あ、行ったの、ここのトイレだよ」


 ショウヤくんが指さして立ち止まった。男女別のトイレと、多機能トイレがある。


「じゃあ、この階だったのか? おじいちゃんと分かれたの」


 莉帆が問いつめるが、ショウヤくんは黙ってブンブンと首を振った。莉帆のことはあまり気に入っていない様子である。


「違うんじゃないかな」七波がいった。「ショウヤくんはトイレを探すために階をまたいで移動した。だから、もともとどこの階にいたのか、いまどこの階にいるのか、わからなくなったんだと思う」


 一理ある。七波が正しいとすると、二階ではない地上階ということになるから——。


「もともといたのは一階か。けど、まだ同じ階にいるかな?」


「おじいちゃんが一人でエレベーターやエスカレーターを見つけて移動するとは考えにくいんじゃない?」


「じゃあ探すべきは一階だな、善は急げ!」


 そういって早足で歩きはじめる莉帆。追っていこうとしたところで、わたしの耳は小さな違和感をとらえた。ポロン、と弦を弾く音だった。どこから聞こえてくるのかと首をまわしてみると、それはどうやらトイレのほうからだった。


 わたしが動かないので、七波が莉帆を捕まえる。


「待って、なにか気づいたみたい」


「あ、いや。どうでもいいことなんだけど……」


 七波は目を細めて、「けど、玲愛はいつもいいことに気づく」と楽しげにいった。


 期待されても困る。これは本当になんの役にも立ちそうにないことだから。


「音が気になっただけ。ウクレレ、かな」


 まだ聞こえている。弦楽器には詳しくないけど、ギターでも三味線でもハープでもない音色だから、ほかに思い出せる楽器といえばウクレレくらいしかなかった。


「たしかに聞こえる」莉帆は音の発生源を探った。「あった、これだ」


 三股に分かれた通路の入り口に、そのスピーカーはあった。市販のもので、天井スレスレの壁にとり付けられているが、急ごしらえというか、仮設的であるように見てとれる。ケーブルが一本、壁と天井の角に沿って電源からスピーカーへと向かっていた。


「トイレにこんな音楽、必要かな」


 演出としては弱い。そもそもトイレに雰囲気なんていらない。違和感の正体はそれだった。


「なんだ、本当にどうでもいいことだな。はやく探しに行こう、一階を」


 踵を返した莉帆だったが、誰もついてこないのでまた振り返った。


 七波が自分の世界に入っていた。焦点のボヤけたような目で壁を見つめていた。右手の人差し指を曲げて、第二関節を口の下に当てていた。左手は腕を組むときのように右の肘を支えていた。


「ふんふんふん」


 今回は短かめだった。七秒で結論に達した七波は、鬼気迫る表情で駆け出した。


「あ、ちょっと!」


 呼びかけても止まらない。わたしは、ショウヤくん、莉帆、と順に顔を見て、どうするべきか瞬時に考えた。あの七波の様子から察するに、急を要する事態であることは明白。それをたった一人で対処させるわけにはいかない。おじいちゃんの関わることであるとするならなおさらだ。


 わたしはショウヤくんと約束したのだ、おじいちゃんは「大丈夫」だと。


「莉帆、ショウヤくんをお願い。あとコレも」


 背負っていたリュックを無造作に置いた。荷物を気にしていては七波を見失いそうだったから。


「え、えぇ……」


 七波は下の階に向かっているようだった。ほかのお客さんとぶつからないように、器用に隙間を縫っていく。なかなか距離は縮まらない。エスカレーターに着くと、勢いを殺さず、階段のように駆け下りていった。地下へ向かわずエスカレーターを離脱した七波は、レストランには目もくれず展示のほうへ駆けていく。


「ちょっと、お客さま……」


 飼育員らしい女の人が静止しようとするのも振り切った。危ないのはわかっている、けど——。


「ごめんなさーい!」


 わたしも走り抜けた。七波が意味もなくこんなことをするヤツじゃないと知っているから。


 マンボウもクマノミもチンアナゴも置き去りにした。普段から体育以外で運動しないわたしは、もう息を切らしていた。こんな真剣に走ったのは〈石の猫〉以来かもしれない。


 ようやく追いついたとき、そこはビーチエリアの入り口だった。


 おじいちゃんがいた。砂浜に足を踏み入れてしまい、方向を見失っている。白杖は、さらさらの砂の上ではもう役に立たない。


 ヤシの木が喋っていた。


「——は女子トイレ、左手に多機能トイレがあります」


 おじいちゃんは波打ち際に向かって一歩足を踏み出した。もし水に落ちてしまったら、状況を把握できずパニックになってしまったら、それは命に関わる事態になりかねない。


「おじいちゃん、そっちは危ない!」


 とっさに七波を追い越していた。


 おじいちゃんは声のしたほうに向き直った。そのとき、砂に足を取られてバランスを崩してしまった。体がうしろに傾く。


 伸ばしたわたしの手がおじいちゃんの前腕を掴んだ——。


 人がモノを押すとき、同じ力で押されてもいる。引くときも同様だ。当たり前の力学を、わたしはこのとき初めて実体験として理解した。


 わたしの体重は、目算でおじいちゃんの三分の二。つまり、おじいちゃんを引くのに必要な力は、わたしを引くのに十分な力の、およそ一・五倍だった。


 おじいちゃんを引き戻すと同時に、わたしは思いっきりつんのめった。片足を前に出すも、水中に突っ込んでしまい踏ん張りが効かない。すぐに、もう手遅れだ、と悟った。


 スマホ、水没させたらマズいな。と、考えられたのはその程度だった。ポケットから抜き出した勢いそのまま後方へ投げると、水面はもうすぐそこだった。

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