三、ひとり歩き
三の一
浅い睡眠と覚醒を繰り返していた。
窓ぎわに寄せられたベッドには、夜通し降り続く雨の音が絶え間なく浴びせられた。
原因はそれだろうか、私が寝付けない原因は。
違う。きっと、明確な理由なんてありはしない。
ただ漠然と、居心地の悪さ、焦燥、あるいは不安に似たなにかが、心と体のどこかでくすぶっている。
それがわたしであろうとしながら、それがわたしでなくなろうとしているかのような。
なぜなのか。遠ざかっては揺り戻し、いまは手の届くところにある気がする。
けど、どうしようもない。わたしには変えられない。
わたしには、なにかを変える力なんてない。
掛け布団を頭まで被って、ただ——目をつむった。
再び目を開けたとき、雨はやんでいた。ぼやけた視界でデジタル時計をにらむ。——6:11。
もう少し、このままベッドにいても……いや、どうせろくに眠れないんだから、時間の無駄だ。まだ登校には早いけど、たしか朝練をする部活のために、七時頃には校門が開かれるはずだから——。
足で布団を押しのけた。
無心で寝巻きを脱ぎ、制服に着替える。時間割り表を見て、教科書と一冊の小説を鞄に入れる。洗面所で身だしなみを整える。八枚切りの食パンを、そのまま一枚食べて朝食とする。
玄関で靴を履こうとしたとき、自分が裸足のままであることに気づいた。
——あ、靴下。ぼーっとしてたな。
自分の部屋に戻って、紺のソックスを履いて、部屋を出るとそこには——父さんがいた。
「もう出るの? 早いね」
ふにゃふにゃと、ハリのない声だった。
「あ……。うん」
数秒の間。
「朝ごはんは? まだなら父さんが——」
「もう食べたよ」
「そっか。学校はどう? 友達とは——」
「べつに、普通」
「……そっか」
父さんは寝癖のついた頭を掻いた。童顔よりの顔が困ったような表情をし、眼球が忙しなく動いて、わたしを見ない。
専業主夫、という平成に生まれた言葉がある。うちはまさにそういう家庭だった。家に帰れば、いつでもこの人がいる。——いつでもこの人は、こういうかんじだ。
「そっか」父さんは繰り返した。「じゃあ、登下校は気をつけてね。この前みたいな危ないことには関わらないように」
それはもう、ひと月以上も前の話だ。
「うん、わかってる」
あの事件が警察から知らされたとき、それはもう煩かった。怪我はないかとか怖い思いはしなかったかとか、ひとしきり質問ぜめにされたあと、気弱で遠回しなお説教をいただくことになった。
血の繋がった娘を本気で心配しているらしいのは伝わった。けどその接し方は、つねに腫れものに触るようで——。
「玲愛は、母さんに似て美人さんなんだから」
「——それはどうかな」
母さんは——あの人のことはよくわからない。あの人はほとんど家にいない。
父さんとは大学で知り合ったらしい。物理化学の修士課程を修了したあと、電力会社に就職したらしい。今年度からこの町の発電所に転勤になって、わたしが引っ越しを強いられたのはそのせいらしい。
あまり会話することもない。この前の休日、珍しく家にいて、珍しく口を開いたかと思えば、原発の再稼働を見送ることがいかに愚かしいかという話をとうとうと語るばかりだった。
頭が良くて美人らしい。わたしはあの人に似ているらしい。——よくわからない。
会話を打ち切るために、顔を背けて玄関に足を向けた。それでも父さんはあとをついてきて、わたしが靴を履いたところで「いってらっしゃい、気をつけてね」といった。
「うん、いってきます」
梅雨の朝の湿った空気は、それでも家の中の空気より清々しく感じられた。
学校までの距離は決して短くない。けど、徒歩で通学できないほどでもない。
道中、公園の中を斜めに通過した。地面がぬかるんでいて靴が汚れそうだけど、そこに咲いている花を見ていきたい気分だった。
紫陽花は、薄暗い公園のすみにひっそりと、しかし毒々しいまでの鮮烈な青や紫に色づいていた。
じっさい、この植物には毒があるらしい。たしか、青酸ハイトウタイとかなんとかいう。
どこで聞いた話だったか……ああ、理系のあの人か。
歩を進めた。
五分もすると、右手に石の猫——シイちゃんが見えた。すれ違いざまに視線を合わせ、心の中で挨拶をすると、わずかに憂鬱が軽くなったような気がした。
二ヶ月前とは逆転してしまっている。あのころは、登校するのが憂鬱だったはずなのに。
交番前には誰もいなかった。稲取巡査は普段、生徒の登下校時間に合わせて見守りをしてくれているんだなあ、と当たり前のことに気づく。
とすると、初めて通学路を変えたあの日の会話は、ただ自然な会話をするためだけに、知っていることをわたしたちに質問していたわけだ。下校時間が早まっていると事前に知っていたからこそ、交番前に立っていたということだ。
校門へと続く登り坂で、初めて生徒を見かけた。陸上部が朝練中らしい。坂道を駆け上がっては戻ってくる生徒が全部で六人。こんな朝早くからよく頑張るなあ、と他人事ののんきな感想が頭をよぎる。
陸上部の邪魔にならないようにはじっこを歩いていくと、校門に寄りかかるようにして国語の吉田先生が立っていた。
「ん、おはようさん」
運動部の顧問でもないのにジャージを着ていて、長い髪を後ろで無造作にまとめている。メイクはしていないか、していてもそれとわからない程度で、外見をよく見せようという努力が感じられない。
なんというか、まだ若いのに、いろいろ大切なものを捨て去っている気がする。
軽く頭を下げながら、おはようございます、と通り過ぎた。
本来の登校時間より早く来るのは初めてだから、もしかすると、正当な理由があるか先生に確認されるんじゃないかと危惧していたのだけど、どうやら杞憂だったらしい。吉田先生はろくにこちらを見てすらいなかった。
昇降口に向かう途中でグラウンドが見えたが、こちらに人影はなかった。雨の影響で状態が悪いから、朝練をする運動部がいるとすれば、陸上部のように場所を変えているのだろう。
校舎内も静かだった。自分の足音だけが響く。昇降口の時計は七時二十分。いつもより一時間近く早い。
この時間の学校は、わりと好きかもしれない。
教室に向かう途中の廊下から窓の外の様子を窺うと、園芸部らしい生徒がひとりぽつんと佇んでいた。その向こうがわには、彼らが〈農園〉と読んでいる小規模な畑があって、ナスやゴーヤなどの夏野菜がちらほら花を咲かせている。
あの園芸部の人は——三年生の男子生徒か——なにをしているんだろう。普段どおりの時間に来てみたはいいものの、水やりをする必要もないから手持ち無沙汰なのか。あるいは、雨の影響が心配で早く来たのか。
たぶん前者だ。農園には足跡すらついていない。
そんなことを考えながら教室に入り、鞄を置いて小説を取り出した。
エドガー・アラン・ポーの短編集。
以前、七波に冒険小説が好きだという話をしたら勧められたのが、このなかの『黄金虫』だった。
七波の魂胆は読めている。わたしを推理小説の沼に引きずり込もうとしているのだ。わたしでも知っている、ポーは世界初の推理小説を書いた作家だと。
その手に乗ってなるものかと無意味な対抗心を燃やしながら、しおりの挟まったページを開いた。
睡眠不足は人間の集中力を低下させる。あらためて痛感した一日だった。
授業中の居眠りを注意されること二回。ノートの文字は罫線からはみ出し、数学の小テストは五十点満点の二十二点だった。
まぶたを擦りながら、机の中の教材を通学鞄にしまう。
今日の放課後は図書委員の当番がない。わたしも、七波も。
校舎から出たところで七波と会った。
グラウンドでは、陸上部がまた走っている。今度は指導者つきで。学校の先生ではないみたいだけど、この地域のコーチだろうか。
コーチって、学校とどういう関係なんだろう。雇われて給料をもらっているのか、それとも、無償のボランティアなのか。
隣で七波がなにかいっている。
「——はどうだった? 玲愛はぜったい好きだと思うんだけど」
「え?」
「だから、おすすめした小説はどうだったかって」
「ああ……。面白かった、かな」
悔しいことに、熱中して読んだといっても過言ではなかった。読み終えたところで力尽きて、学生としての本分に集中できなかったのは問題だけど。
「暗号っていいよね。あれは単一換字式暗号って呼ばれる、暗号としてはもっとも単純な部類なんだけどね。バリエーションとしては、シーザー暗号もその一種で、単純にアルファベット順やあいうえお順に何文字かずらすだけ。もう少し複雑になると、ヴィジュネル暗号っていう、解読には鍵が必要に——」
ここからまた、しばらく記憶が曖昧になる。
「もうすぐ期末テストだね」
「うん」
「ちゃんと勉強してる? そういえば聞いてなかったけど、中間テストはどうだった?」
「……普通」
よくなかった。とくに国語と数学は。全教科合わせた成績も、平均より下だったはず。
家に持って帰るのが嫌だった。けど、父さんは結果を見ても、小言のひとつもいわなかった。ただ——。
成績については心配していない。新しい学校に慣れれば、すぐに取り返せるだろう。
玲愛は母さんに似て賢いんだから、と。
「ねえ、玲愛」
気づけば、七波はわたしの正面に回り込んでいた。軽く腰を折って、上目づかいにわたしを見ていた。
「大丈夫? なんか悩みでもある?」
「いや、その——」
いけない、心配させてしまった。
頬を叩いて眠気を散らす。
「ちょっと寝不足なだけだから」
「ならいいんだけど、もし——あ、ちょっとごめん」
スカートのポケットに手を入れて、七波が取り出したのは——。
「スマホ? 持ってたんだ」
制服から出てきたということは、学校に持ち込んでいたということだ。校則では原則禁止ということになっている。けど、親の同意があって教員の許可を得た場合はその限りでないのだとか。
……ん?
スマホを持ってるなら、なんで空き巣事件のとき一一〇番にかけなかったんだ?
「いやな機械、でしょ」七波は画面を確認して、すぐにしまい直した。「どこにいてもつながってるみたいで」
「そう? わたしはべつに嫌じゃないけど」
「んー、伝わんないかあ」
いいながら、七波は進行方向に向き直った。
もしかすると、いまのはある種のジョークだったのかもしれない。ただ、わたしが無知なばっかりに理解できなかっただけで。
「学校には持ってきてないけど」七波の背を追いかける。「わたしもスマホ持ってるからさ、連絡先交換しとかない?」
「そうだね、じゃあそのうちに」
そのうちに、か。
思い返してみれば、これまで休日に七波と会ったことはない。七波から誘われたこともなかったし、こちらから誘ってみたこともなかった。なぜなのか、うまく説明できそうにない。
そのうち、はいつ来るんだろう。
「シイちゃんただいまー」
七波は慣れた様子でいうと、門の向こうに吸い込まれていった。
いつの間にこんなに歩いてきたのか、交番前を通り過ぎた記憶がない。わたしもシイちゃんに挨拶したあと、七波に続いて荻さんのお宅にお邪魔した。
あの日の、初めて荻のおばあちゃんと会った日の草むしりをしに来るという約束は、すぐ翌日に果たされた。以降もなにかと理由をつけては訪問し、いまでは下校途中で立ち寄るのが常態化してしまっている。
初めのころは悪いと思った。帰りがけに寄り道するべきではないし、おばあちゃんにも迷惑がかかると思った。けど、ここは居心地がよくて、しだいに鈍感になっていった。——いや、わたしは意識的に考えないようにしているのかもしれない。
「荻のおばあちゃーん。困ってることないー?」
七波がどたどたと駆け寄っていくと、おばあちゃんは嬉しそうだった。ひとり暮らしだから賑やかになると助かる、といっていたのは本心だったらしい。
「そうですねえ。物置の整理を手伝ってもらえると助かります。夫が骨董品を買い込んでいたものですから、重たいものが多くて」
お手伝いをして、その見返りにお菓子をいただく。べつになにも問題ないじゃんか。
わたしは日常に身を委ね、逆らわないことにした。
——当然だけど、このときのわたしは、すでに事件が起きつつあったことなんて知らなかったし、すでに推理の手がかりを得ていたことなんて気づくよしもなかった。
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