二の四
それから五日が経った火曜日の午後、わたしたちは再び荻さんの家を訪ねていた。
「あら、お巡りさんからお話は伺っていますよ。どうぞお入りになって」
インターホンを鳴らしてからしばらくして玄関に現れたのは、齢八十のおばあちゃんだった。ようやく会えた、本当の荻さんだった。
これは稲取さんから聞いた話だけど、荻さんは激しい咳のため、事件の日の前々日から入院していたらしい。診断は季節外れのインフルエンザだったそうだが、高齢のため大事をとって、という判断だったのだろう。
床材のかすかにきしむ廊下を通って、案内されたのは縁側に面した十畳の和室。座卓の前に用意されていた座布団に座るよう促され、ぎこちなく慣れない正座をする。
日本人でありながら、ここまで〈和〉に統一された空間に身を置くことは滅多にない。というか、記憶にある限りでは初めてのことだった。障子や襖、床の間に飾られた壺に掛け軸。目に映る全てのものが目新しいようであり、どこか懐かしいようでもあった。
「よかったら、召し上がってください」
座卓の上に並べられたのは、大福や羊羹などの和菓子と水出し緑茶だった。静謐な空気に、ほんのりと甘い香りが混じる。旅館でもなければ、いまどきこんな歓待は受けられない。
「え、いいんですか!」
そう訊くが早いか、七波はどら焼きを鷲掴みにし、緑茶で胃に流し込んだ。趣きを台無しにするにおいて、この女の右に出る者はない。
「もちろんです。おふたりのおかげで、家財が無事だったのですから」
おばあちゃんは目尻のしわを深くして、慈しむように微笑んだ。
この家を空き巣から守った。じっさい、それはそうなんだろう。わたしも全力で走ってひと役買ったわけだし、ご厚意に甘えてしまっても、いいのかな。
——いや違う。ここを訪れたのは、お礼をされるためではなかったはず。
完全に目的を忘れて甘味を堪能している七波の足裏を、わたしは親指の先でグッと押し込んだ。中央より指の付け根に近い位置で、湧泉と呼ばれるツボがあるらしい。
「んぐっ!」
のどを詰まらせそうなリアクションの七波に目配せで訴える。話をするのは、わたしじゃないほうがいい。
「そ、そうでした。今日は訊きたいことがあって来たんです」
むせる七波を気づかってお茶を注ぎながら、それもお巡りさんから伺っています、と荻さんは応じた。
「石の猫についてお聞きになりたいとか」
空き巣事件のせいで、わたし自身はすっかり失念していたのだけど、七波は違った。あの淡島という男に知らないといわれたときはすぐ諦めたくせに、とわたしがいうと、いまは本当の荻さんが答えてくれるってわかってるんだから諦める理由がないじゃん、と正論で返されてしまったのだった。
「あの猫は生きた猫だったのです」荻さんは静かに語りだした。「もとはノラ猫だったようですが、いつの間にか住みついてしまいまして。シイちゃん、とわたくしども夫婦は呼んでおりました」
「シイちゃん……」
石の猫はもともと生きていた? それがどうして——いや、話すべき順序があるんだろうから、気長に構えて待とう。
「あのような柄を茶トラというのでしょうか。茶というより、明るい橙に近い色味でした。シイちゃんは、とくに主人によく懐きましてね」
「その、旦那さんはいま?」
黙っていようと思ったのに口出ししてしまった。
「主人は、二年前に逝きました」
「……」
ご愁傷様です、というべきなんだろうか。しかし、荻さんは淡々としていて、悲嘆に暮れている様子でもない。二年も前のことだから、とうに気持ちの整理がついているのかもしれない。
わたしは結局、なにもいえなかった。
「ああ、たしかシイちゃんの写真があったはずですから、お持ちしましょう」
荻のおばあちゃんは立ち上がって、部屋の仕切りになっている襖を開けた。しっかりとした足どりの後ろ姿は、病み上がりのそれに見えない。
少し身を乗り出して隣の部屋を覗いてみる。こちらから見て奥にある窓が、板で塞がれているのがわかった。つまり、空き巣が侵入したのはあそこからだということだ。
「荻のおばあちゃーん。窓、防犯ガラスに変えたほうがいいですよー」
羊羹を食べながら、七波が気安く呼びかける。荻のおばあちゃんは、そうねえ、と返事をしてたんすの引き出しを引いた。
やがて戻ってきたおばあちゃんが持っていたのは、三センチは厚みがあるようなアルバムだった。掠れて白っぽくなった藍色の表紙から、時間の経過が感じられる。
開いてみると、一ページに六枚、見開きで十二枚の写真が貼り付けられていた。どこを見ても猫ばかりの、これはシイちゃん専用アルバムらしかった。
「わ、カワイイ」
七波が女子の「カワイイ」をいった。わたしにはそんな——死語を使うならキャピキャピしたような——黄色い声は出せないけど、写真の猫が愛らしいのは間違いなかった。
おばあちゃんがいったように背中側は橙に近い毛色だが、鼻のあたりからお腹にかけてと、足先の部分が雪のように白い。ピンクの鼻とぷっくりした口元が目を引いて、こんな表現は存在しないのかも知れないけど、〈美猫〉と呼ぶにふさわしい。首には赤いベルトの首輪をつけていた。
構図はさまざまで、一枚ごとに場所も姿勢も異なっている。縁側に寝ているもの、猫じゃらしで遊んでいるもの、ドングリを噛んでいるもの、荻のおばあちゃんの旦那さんらしき男の人に抱かれているもの。そして——。
「あっ、これ!」
わたしよりさきに七波が声を上げて指さした。
その写真で、シイちゃんは門の片側にちょこんと座っていた。石の猫と同じ位置に、石の猫と同じ姿勢で。
「そこがお気に入りの場所だったようで。毎朝、主人が出かける時間になるとそこに登って、まるで仕事に行くのをお見送りしているようでした。ですから——」
ふっ、と吐き出された息には憂いが混じっていた。
もしかして、またわたしは無神経なことをしているんじゃないだろうか。おばあちゃんに思い出を語らせることは、いたずらに悲しみを増幅させることなんじゃないか。
「シイちゃんが死んでしまったとき、主人はそれは傷心したようでした。萎んでしまったようで、出かける背中が丸くなってしまったようで。ですから、知り合いの石材店に頼んであれを作らせたのです。あの猫の石像を」
ああ、と合点がいった。
あの石の猫を最初に見たとき、どこを見ているんだろうと思った。シイちゃんはやっぱり見ていたんだ。見送るべき人が出かけていくのを。
「永らく忘れておりました。もう随分と時間がたちますから」
しかし、いまや見送るべき人はいなくなり、見送るべきであったことすら忘れられてしまっていた。とすると——。
石の猫は、やっぱり『石の猫』だったんだ。
本来の目的が失われてしまった慣習に、『石の猫』の寓意はある。
旦那さんを見送るという目的は失われてしまった。荻のおばあちゃんは、ただの習慣として日常的に手入れをするだけになってしまっていた。
べつに、だからどうということはない。なにかが間違っているわけでもないし、問題があるわけでもない。
ただひとつ、意味が無意味に還っただけ。
だけど、それってなんだか、寂しいことのような……。
「じゃあさ——」
わたしはろくに考えもせず、思いつきをいおうとしていた。
「代わりに、わたしたちが本来の目的になればいいじゃん。毎日、この家の前を通学して、シイちゃんに『いってらっしゃい』と『おかえりなさい』をしてもらえば、そうすれば……」
続けるほど自信がなくなり、尻すぼみになってしまった。
なにをいってるんだろう。わたしが旦那さんの代わりになる? おこがましいにもほどがあるじゃんか。
無神経だ、わたしはやっぱり。人の気持ちがわからないんだ。
案の定というか、荻のおばあちゃんはきょとんとして、どういうべきか迷っているようだった。わたしを見て、それから七波を見た。
七波の反応は——と首を回すと、口元を隠して笑いを堪えていた。
「なにそれ、サイコーじゃん」
それだけいうと、決壊したように吹き出した。
つられて荻のおばあちゃんも破顔する。その表情は、やんちゃな幼い子供を見守るようで——。
うう、恥ずかしい。正座した膝の裏に嫌な汗をかいている気がする……。もしいま鏡に自分の顔を映したら、きっとトマトのように赤くなっているんだろう。
「ええ、ぜひそうしてください。シイちゃんも喜んでくれるはずです」
おばあちゃんの声は温かかった。温かくて、しかも嘘がない声だった。
シイちゃんが喜んでくれるかはわからない。けど、おばあちゃんがそういってくれるなら、悪くもないアイデアだったかもしれない。
卒業するまでの期間限定の解決策にはなってしまうけど、わたしたちはまだ入学したばかりだし、二年半以上は続けられるはず。
——それって長い時間、じゃんね?
荻のおばあちゃんとの会話が思いのほか弾んで、振る舞われた和菓子が美味しくて、気づけば時刻は六時をまわっていた。これ以上の長居はご迷惑だと判断して、お暇することにした。
あまり帰りが遅いと面倒なことになるし。
「えー、まだいいじゃーん」
食べきれなかったぶんに未練たっぷりの七波の背中を押していく。
「また来てくださればいいですよ。老人のひとり暮らしですから、たまに来ていただけると、賑やかになって助かります」
わざわざ玄関まで見送りにきてくれた荻のおばあちゃんは、手にふたつの紙袋を提げていた。どうぞご家族にもよろしく、とわたしたちそれぞれに手渡した。
靴を履いて外に出ると、町が茜の日に色づいていた。ありふれた、いたって平凡な町並み。
いまは馴染みのないこの町も、いつかは思い出の町になるんだろうか。
「じゃあ今度は」わたしは庭に目をやった。「草むしりとか、手伝いにきます」
「あら。ではまたお礼のお菓子を用意しておきましょうね」
そんな気を使わなくても、というよりさきに、「それなら張り切っちゃいます」と七波が腕まくりしてみせた。
わたしたちは荻のおばあちゃんにさよならをして、門の間を抜けた。
「ふぅー、カンペキぃ!」
歩きながら背伸びをして、七波は満足そうにいった。
子供っぽくて、傍若無人で、でも頼れる、不思議なやつ。
一緒にいるのは、けっこう楽しい。
わたしは立ち止まって、門の上の石の猫——シイちゃんを振り返った。
夕日を浴びたその姿は、まるで生きていた頃の橙の毛皮を再現しているみたいだった。
もしくは、本来の目的を取り戻したからこそ、いきいきとして見えるのかもしれない。
——なんて、ロマンチックな想像をしてみたりして。
「じゃ、また明日」
誰にも聞こえないよう小さくいって、わたしは小さく手を振った。
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