第8話 武器屋の親父と、最初の買い出し
《ひよこ隊》が青い魔石を持ち帰った、その日の午後。
誰も近づかなかったはずのダンジョン入口に、久しぶりに人の気配が戻り始めていた。
《外部個体の接近を検知しました》
《接近人数:2名》
通知を受けた藤堂直人は、第一室の奥にあるのぞき穴へ向かった。
草地の向こうから歩いてくるのは、若い冒険者らしい二人組だった。
片方は短い槍を持ち、もう片方は小さな丸盾を背負っている。入口から少し離れた場所で立ち止まり、暗い洞窟を警戒するように眺めていた。
「ここで合ってるよな?」
「《ひよこ隊》が今日、宝を持ち帰ったって場所だ」
「でも最初の調査じゃ、十二人全員が丸裸で帰ってきたんだろ?」
「今朝は矢が一本しか飛ばなかったらしい。毒も前ほど強くなかったって」
「誰か先に入らないかな」
二人はしばらく入口を見つめていたが、結局、入ってはこなかった。
「今日は様子を見るか」
「ああ。明日、人が増えてからにしよう」
そう言って、町の方へ引き返していく。
《接近個体が有効範囲外へ移動しました》
「まだ、入るところまではいかないか」
直人は落胆しかけた。
しかし、昨日までとは違う。
昨日は遠くから見ただけで、誰もが進路を変えていた。
今日は二人が入口まで確認に来た。
町の中で、何かが変わり始めている。
《町内期待度:低迷》
《再挑戦見込み:上昇中》
《翌日予想入場者数:4~9名》
「明日は、本当に戻ってくるかもしれないな」
直人が小さく拳を握ったとき、奥の部屋からリナの泣き声が聞こえた。
「ふぇ……ふえぇ……」
「リナ?」
急いで寝床へ戻る。
三体のゴブリンが、リナを囲んで右往左往していた。
一体は毛布を直し、一体は木皿を差し出し、もう一体は空になった袋を逆さに振っている。
「ギッ、ギッ!」
「分かってる。腹が減ったんだろ」
直人は山羊乳粉末の袋を受け取った。
軽い。
底に残っている粉を指で集めてみたが、一回分にもならなかった。
《山羊乳粉末》
《残量:不足》
「……切れたか」
昨日の夜から、分量を慎重に計算して使っていた。
それでも、もともと冒険者一人が携帯していた分しかない。
赤ん坊を何日も育てられる量ではなかった。
リナは目を閉じたまま、弱々しく泣いている。
昨日ほど衰弱してはいない。
だが、空腹を放置すれば、また同じ状態へ戻ってしまう。
「とりあえず、何か代わりになる物は……」
直人は倉庫の食料を確認した。
《黒パン:6個》
《乾燥肉:4袋》
《干し果物:2袋》
《携帯スープ:3食》
どれも、乳児へ食べさせられるものではない。
携帯スープを薄めることも考えたが、塩分や香辛料が強すぎる可能性がある。
「回復の泉じゃ、腹は膨れない」
泉の水で体調を維持することはできる。
だが、栄養は補給できない。
リナを家族として登録しただけで、食料が自動で生成されるわけではなかった。
「町で買うしかないか」
《所持G:1,400》
金はある。
昨日、冒険者たちが落としていった財布から回収したものだ。
硬貨そのものは、この町で使われている通貨と同じはずだった。
問題は、直人が町へ出られるかどうかだった。
見た目は普通の人間である。
角も翼もない。
ダンジョンマスターだと名乗らなければ、町へ入ること自体はできるかもしれない。
だが、異世界へ来てまだ数日。
町の習慣も、商品の相場も、人の身分証明の仕組みも分からない。
さらに、乳児用の食料を買えば、当然こう聞かれる可能性がある。
――子供はどこにいる。
――母親はどうした。
――なぜ、見たこともない男が一人で乳を買いに来た。
「説明できないよな」
町の隣のダンジョンへ捨てられていた子供を保護した。
自分はそのダンジョンを所有する魔王である。
今はゴブリン三体と育てている。
正直に話せば、善意で保護した人間として扱われるより先に、誘拐犯か魔王として拘束されるだろう。
「ギ……?」
リナのそばにいたゴブリンが、心配そうに直人を見上げた。
「何とかする。乳がないなら、買ってくる」
「ギッ?」
「俺が町へ行く」
三体のゴブリンが、一斉に大きく目を見開いた。
「そんなに驚くなよ。俺は見た目だけなら人間だ」
「ギギッ!」
一体が直人の服をつかみ、激しく首を横へ振る。
危険だと言いたいらしい。
「分かってる。でも、お前たちが行けばもっと危険だろ」
三体が同時に黙った。
人間の町へゴブリンが入れば、理由を聞かれる前に討伐される可能性が高い。
直人なら、少なくとも普通に歩いているだけで襲われることはない。
「昼は目立つ。夕方になってから行く」
そこまで言ってから、直人は自分の服を見下ろした。
目を覚ましたときから身につけている、粗末な麻の上下。
町の人間と比べて極端に奇妙ではないが、かなり貧しい旅人に見える。
武器もない。
身分証もない。
「まず、町へ入れるかどうかだな」
直人は管理画面を開いた。
《ダンジョンマスター活動範囲》
《本体からの安全移動範囲:ダンジョンコアを中心に半径1,000メートル》
《範囲外へ移動した場合、ダンジョン管理機能の一部が制限されます》
「町の東門は範囲内か?」
《肯定》
「市場は?」
《一部が範囲内です》
町全体を歩き回るのは難しい。
だが、東門近くの商店街までは行けるらしい。
「管理画面も完全には切れない」
《遠隔管理可能項目》
《侵入検知》
《罠稼働停止》
《所属個体への警報》
《緊急帰還》
「緊急帰還まであるなら、多少は安心か」
直人はリナを見た。
泣き疲れたのか、ゴブリンに抱えられながら小さく息をしている。
今日のうちに食料を手に入れなければならない。
迷っている時間はなかった。
「俺がいない間は、罠を全部止めておく」
これから冒険者が来る可能性はある。
しかし、リナを守る者が減った状態で、攻略者を迎え入れるわけにはいかない。
《入口矢トラップ:停止》
《毒床:停止》
《宝箱:一時休止》
《臨時休業状態へ移行します》
入口に、簡素な木札が生成された。
《設備調整中》
《本日の攻略受付は終了しました》
「こんな機能もあるのか」
町の者には、ダンジョンの文字として普通に読めるらしい。
直人はゴブリンたちへ指示を出した。
「二体はリナのそば。一体は入口を見張れ。誰か来ても中へ入れるな」
「ギッ!」
「危険を感じたら、この警報を押せ」
壁に赤い光点を設定する。
「押せば俺の管理画面へ通知が来る」
「ギギッ!」
「それから、リナに泉の水を少しずつ飲ませてくれ。腹は膨れないけど、何も飲まないよりはいい」
三体は真剣な顔でうなずいた。
直人は財布へ三百Gを入れた。
千四百Gすべてを持っていくのは危険だ。
相場が分からない以上、必要以上に金を見せるべきでもない。
「行ってくる」
「ギッ」
三体の返事に背中を押され、直人は初めてダンジョンの外へ踏み出した。
草地を町へ向かって歩く。
これまで、入口から眺めるだけだった場所だ。
振り返れば、岩肌に開いた小さな洞窟が見える。
外から見ると、本当にただの穴だった。
あの中に罠があり、回復の泉があり、ゴブリンが暮らし、人間の赤ん坊が眠っているとは思えない。
「俺の城、外から見ると貧相だな」
だが、今は外観を気にしている場合ではない。
町へ近づくにつれて、人の声が大きくなる。
畑から戻る農民。
荷車を引く商人。
薬草の束を抱えた子供。
直人は無意識に緊張した。
自分が魔王だと見抜かれるのではないか。
管理画面が他人にも見えているのではないか。
しかし、すれ違う人々は直人を少し見るだけで、すぐ自分の仕事へ戻っていった。
東門には、槍を持った衛兵が二人立っていた。
「止まれ」
声をかけられ、直人の心臓が跳ねる。
「町へ何の用だ?」
「買い物です」
「どこから来た?」
直人は一瞬だけ迷った。
「東の街道を歩いてきました。しばらく、この辺りで仕事を探そうかと」
完全な嘘ではない。
ダンジョンは、町の東側にある。
仕事を探しているのも本当だ。もっとも、自分で作る仕事だが。
衛兵は直人の服装と手元を確認した。
「武器は?」
「持っていません」
「冒険者ではないのか?」
「ええ。雑用でもあればと思って」
「身分証は?」
「失くしました」
衛兵の眉が動く。
怪しまれている。
直人が緊急帰還を意識しかけたとき、もう一人の衛兵が口を挟んだ。
「その格好で盗賊には見えん。東門周辺だけなら通してやれ」
「問題を起こすなよ。日が落ちる前に宿を取れ。野宿は禁止だ」
「ありがとうございます」
直人は頭を下げ、門をくぐった。
町の中へ入った瞬間、空気が変わった。
焼いた肉の匂い。
鍛冶場から響く金属音。
呼び込みをする商人の声。
石畳を走る子供たち。
数日前まで画面の向こうから眺めていた、異世界の町。
今、その中を自分が歩いている。
「見物してる場合じゃない」
直人は東門周辺の店を探した。
乳児用の食料なら、食料品店か薬屋だろう。
だが、文字は管理画面の補助によって読めても、店の仕組みまでは分からない。
どこへ入るべきか迷っていると、通りの角から聞き覚えのある声がした。
「だから、今月中に払うって言ってるだろ!」
「先月も同じことを言ったよな」
「次は絶対に持ち帰る! 今日だって、ちゃんと宝を――」
声の方を見る。
小さな武器屋の前で、《ひよこ隊》の剣士が大柄な男に頭を下げていた。
男は五十歳前後だろうか。
太い腕に革の前掛けを着け、髭にはところどころ白いものが混じっている。
店先には剣や盾が並び、奥には鍛冶場らしい炉が見えた。
「その宝ってのが、これか?」
武器屋の男が、指先ほどの青い魔石を持ち上げる。
「鑑定しても二十Gがいいところだ。回復薬とパンを合わせても、借りた装備代には全然足りん」
「でも、ダンジョンには本当に宝があった!」
「それは分かった。お前たちが嘘をついてないのもな」
男はため息をつき、剣士の腰にある安物の剣を指した。
「だから、また貸してやったんだろうが。次に失ったら、本当に荷運びからやり直しだぞ」
「分かってるよ」
「分かってない顔だ」
直人は、少し離れた場所から会話を聞いていた。
《ひよこ隊》が再挑戦できた理由が分かった。
この武器屋の男が、装備を貸したのだ。
昨日奪われた剣や弓の代わりを用意し、もう一度挑戦する機会を与えた。
「で、矢は本当に一本だったのか?」
武器屋の男が尋ねる。
「ああ。昨日と全然違った」
「毒床は?」
「弱くなってた。足が少し重くなるだけだ」
「罠の故障か?」
「分からない。でも、ちゃんと対策すれば第一室までは行ける」
「ふむ」
男は腕を組んだ。
その顔には、冒険者とは違う計算が浮かんでいる。
「つまり、盾があれば矢を防げる。毒も耐えられる。昨日売れ残った小盾が動くかもしれんな」
「親父、商売のことしか考えてないだろ」
「当たり前だ。お前たちが装備を失えば、新しい装備が売れる。持ち帰りに成功すれば、次の客が来る。どっちに転んでも、武器屋には仕事が増える」
「ひどいな!」
「そのひどい武器屋から、無利子で剣を借りてるのは誰だ?」
剣士が黙り込む。
男は鼻を鳴らしたあと、少しだけ声を落とした。
「まあ、何も持ち帰れなかった昨日よりはましだ」
その言葉に、直人は胸を突かれた。
自分が還元した七十八G。
ダンジョン経営の数字としては、わずかな額だった。
だが、その小さな戦利品が、《ひよこ隊》の信用を少し戻している。
武器屋にもう一度装備を貸す理由を与えている。
そして今後、盾や薬を買おうとする冒険者が増えるかもしれない。
町へ返した価値は、持ち帰った品物の価格だけではない。
次の商売を生み出すきっかけにもなっている。
「おい、そこの兄ちゃん」
突然、武器屋の男が直人へ声をかけた。
「え?」
「さっきから、店の前で何を見てる」
気づかれていた。
直人は慌てて視線をそらしかけたが、逃げれば余計に怪しい。
「すみません。少し聞きたいことがあって」
「武器か?」
「いえ。食べ物を探してます」
「ここは武器屋だ」
「見れば分かります」
「なら、なぜ俺に聞く」
直人は少し迷った。
だが、この男は《ひよこ隊》へ装備を貸した。
口は悪いが、完全に冷たい人間ではなさそうだ。
「乳児に飲ませる山羊乳の粉末を売っている店を知りませんか」
武器屋の男と《ひよこ隊》の剣士が、同時に直人を見た。
「乳児?」
「はい」
「お前の子か?」
直人は言葉に詰まった。
家族として登録した以上、自分の子だと言っても完全な嘘ではない。
「……保護している子です」
「母親は?」
「いません」
「どこで拾った」
直人の緊張が高まる。
正直に場所を言うわけにはいかない。
「町の外です」
「ずいぶん曖昧だな」
男の目が細くなる。
《ひよこ隊》の剣士も、訝しげに直人を見ている。
直人は逃げ道を考えた。
だが、ここで逃げれば、次に町へ来られなくなる。
「本当に、困ってるんです」
直人は財布から硬貨を取り出した。
「金はあります。山羊乳の粉末と、乳児に使える清潔な布。それを買いたいだけです」
武器屋の男は、直人の手にある硬貨を見た。
冒険者たちから回収したものだ。
偽金ではない。
「その金、どこで手に入れた」
「仕事の報酬です」
「何の仕事だ?」
「……回収と、管理です」
「怪しいな」
「自分でもそう思います」
直人が答えると、男はしばらく黙った。
やがて、大きなため息をつく。
「赤ん坊は、今どこにいる」
「町の外です。仲間が見ています」
「仲間?」
「三人います」
「男か、女か」
「……男、というか」
ゴブリンに性別があるかどうか、直人は知らない。
答えに困っていると、男はますます怪しむ顔になった。
「お前、本当に誘拐犯じゃないだろうな」
「違います」
「なら、子供を連れてこい」
「それはできません」
「なぜだ」
「まだ弱っていて、町まで運べないからです」
それは本当だった。
直人はまっすぐ男の目を見た。
「昨日、死にかけていました。今は少し回復しました。でも、飲ませる物がなくなったんです」
男の表情から、わずかに険しさが消えた。
「昨日、か」
「はい」
「町の東側で?」
直人は答えなかった。
男はしばらく直人の顔を見ていたが、それ以上は追及しなかった。
「待ってろ」
「え?」
「いいから、そこで待ってろ」
男は店の奥へ入っていった。
しばらくすると、布袋と何枚かの柔らかい布を持って戻ってくる。
「妻が孫のために買った山羊乳粉末だ。まだ未開封だ」
「売ってもらえるんですか?」
「一袋百二十G」
「買います」
「布は一枚十G。五枚で五十」
「お願いします」
直人は合計百七十Gを差し出した。
男は硬貨を数え、袋と布を直人へ渡す。
「薄め方は分かるか?」
「管理……知り合いに聞けば分かります」
「湯を沸かしたら、人肌まで冷ませ。濃すぎても薄すぎても駄目だ」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
男はそう言ってから、直人の財布へ視線を落とした。
「ただし、その子が本当にいるなら、次に町へ来たとき様子を教えろ」
「分かりました」
「それから」
男は店先に並ぶ武器を指した。
「お前、武器を持ってないな」
「使えません」
「町の外で子供を守るなら、せめて短剣くらい持て」
「剣術はないんですが」
「獣を追い払うだけでも違う。何も持ってない奴は、それだけで狙われる」
男は棚の下から、鞘に入った短い刃物を取り出した。
装飾のない、実用品らしい短剣だった。
「中古だ。刃こぼれは直してある」
「いくらですか?」
「本来なら八十G」
男は直人を見た。
「今日のところは、五十でいい」
「なぜ?」
「赤ん坊の乳を買いに来た男が、帰り道で野犬に食われたら後味が悪い」
直人は短剣を受け取った。
ずしりとした重みが手に伝わる。
戦闘技能のない自分が持っても、強くなるわけではない。
それでも、何もないよりは心強かった。
「ありがとうございます」
「あと、今度から乳は向かいの雑貨屋で買え。今日はもう在庫がないから、俺のを出しただけだ」
「分かりました」
直人は、合計二百二十Gを支払った。
《所持G:1,180》
初めて、Gが減った。
昨日までは、増える数字だけを見ていた。
今は、その金が乳と布と短剣へ変わっている。
Gとは、ただ貯めるための点数ではない。
町で必要な物を買い、住民を生かすための金だった。
「ところで兄ちゃん」
帰ろうとした直人へ、武器屋の男が声をかけた。
「名前は?」
「藤堂直人です」
「変わった名前だな。俺はバルガス。この店の主人だ」
「覚えておきます」
「で、ナオト」
バルガスは、青い魔石を指先で転がした。
「町の外で管理の仕事をしてるって言ったな」
「はい」
「今度、売れそうな武器や防具を手に入れたら持ってこい」
直人の心臓が一度、大きく鳴った。
倉庫には、十二人分の装備がある。
その中には、この店で売られた物もあるだろう。
「買い取ってくれるんですか?」
「物による。ただし、盗品は御免だ」
「……敗走した冒険者の装備は?」
口にしてから、直人は失言に気づいた。
バルガスの目が細くなる。
「なぜ、そんな物を持ってる」
「仮の話です」
「仮にしては具体的だな」
直人は視線をそらさなかった。
ここで完全にごまかせば、今後の取引はできない。
「ダンジョンから回収された品を扱う仕事をしています」
嘘ではない。
「持ち主が敗走して、所有権がダンジョン側へ移った物です」
「ダンジョン側?」
バルガスは黙った。
《ひよこ隊》の剣士が、直人と店主を交互に見る。
「まさか、あの洞窟の……」
「管理に関わっています」
直人は、それ以上は言わなかった。
魔王だとは名乗らない。
だが、無関係だとも言わない。
バルガスは青い魔石を机へ置き、腕を組んだ。
「俺が昨日貸した剣の前に、《ひよこ隊》が使ってた装備もあるのか?」
「あります」
剣士が一歩前へ出た。
「俺の剣も?」
「ある」
「返してくれ!」
剣士が直人の胸ぐらへ手を伸ばしかける。
バルガスが太い腕で止めた。
「敗走品の所有権は、ダンジョンへ移る。ギルドの規則だ」
「でも!」
「分かってて入ったんだろ」
剣士は悔しそうに拳を握った。
直人は、その顔を見た。
前なら、規則なのだから当然だと思っただろう。
今は違う。
あの剣が、彼にとって単なる評価額ではないことを知っている。
「そのまま返すことはできない」
直人は言った。
「でも、買い戻せるようにはできるかもしれない」
「買い戻す?」
「ダンジョンから回収された品を、この店へ売る。店が整備して、中古品として販売する」
バルガスが眉を上げる。
「お前たちが金を貯めて買えば、取り戻せる」
「同じ物を、もう一度金を払って買えっていうのかよ」
「そうなる」
「ふざけるな!」
「でも、倉庫に積まれたままよりはいい」
直人は静かに答えた。
「俺が持っていても使えない。町へ戻せば、誰かが使える。元の持ち主が買い戻すこともできる」
剣士は納得していない。
当然だ。
しかし、バルガスは別の角度から考えていた。
「所有権が正式に移っているなら、盗品ではない」
顎髭を撫でながら言う。
「ただし、店へ持ち込むときは来歴を記録する。元の持ち主にも知らせる。黙って売りさばくのはなしだ」
「それで構いません」
「買い取り価格は安いぞ。修理費もかかる」
「分かっています」
「あと、一度に大量には持ってくるな。市場価格が崩れる」
直人は、その言葉に反応した。
「市場価格が崩れる?」
「当たり前だ。中古の剣を一度に十本も流せば、新品が売れなくなる。鍛冶屋も困る」
価値還元率だけではない。
町へ返す品の量や種類まで考える必要がある。
大量に還元すれば、町が潤うとは限らない。
既存の商売を壊すこともある。
「勉強になります」
「妙な奴だな」
バルガスは鼻を鳴らした。
「次に来るとき、まず二、三点だけ持ってこい。俺が見てやる」
「分かりました」
「それから、そのダンジョンの罠」
バルガスは《ひよこ隊》の木盾を指した。
「矢が一本なら、この程度の盾でも防げる。明日から小盾を店先へ多めに並べる」
「商売が早いですね」
「お前のところが罠を変えれば、町の売れ筋も変わる」
バルガスは笑った。
「面白いじゃないか」
直人も、わずかに笑った。
自分が罠の設定を変える。
冒険者が対策を考える。
武器屋が商品を変える。
その装備で冒険者が再び挑戦する。
町とダンジョンは、すでにつながり始めている。
「また来ます」
「ああ。赤ん坊の報告を忘れるな」
直人は山羊乳粉末と布、短剣を抱え、町を出た。
東門を抜けたとき、管理画面に通知が浮かぶ。
《ダンジョン所属個体に異常なし》
《リナ:空腹状態》
《緊急度:上昇中》
「急がないとな」
直人は草地を走った。
レベル一の身体はすぐに息が上がったが、立ち止まる気にはならなかった。
洞窟へ戻ると、三体のゴブリンが入口で待っていた。
「ギッ!」
「買ってきたぞ!」
乳の袋を見せると、三体が一斉に飛び跳ねる。
直人は鍋へ泉の水を入れ、火を起こした。
バルガスに教わったとおり、湯を人肌まで冷ます。
山羊乳粉末を適量溶かし、管理画面へ確認する。
《濃度:適正》
《温度:適正》
《摂取可能》
「よし」
布へ乳を含ませ、リナの口元へ運ぶ。
小さな口が動き、夢中で乳を飲み始めた。
「ふう……」
直人は、今度こそ本当に安堵した。
三体のゴブリンも、リナの周囲へ座り込んでいる。
「町へ行ってきた」
「ギ?」
「怖い場所じゃなかった。少なくとも、すぐには襲われなかった」
「ギギッ」
「それに、取引できそうな武器屋も見つけた」
直人は短剣を腰へ差した。
「バルガスっていう、口の悪い親父だ」
リナは乳を飲みながら、小さな手を動かした。
直人の指を探している。
差し出すと、また握られた。
《本日のG支出:220》
《購入物》
《山羊乳粉末》
《清潔な布:5枚》
《中古短剣》
《所持G:1,180》
数字は減った。
だが、無駄になったわけではない。
リナの食料になった。
生活用品になった。
直人を守る最低限の道具になった。
そして、町との最初の取引につながった。
「Gは、増やすためにあるんじゃないんだな」
必要な物へ変え、また稼ぐ。
町へ流れた金が、武器や食料となって城へ戻る。
ダンジョンの中だけで資源を抱え込んでも、暮らしは成り立たない。
直人は、倉庫に積まれた装備を見た。
明日は、この中から二、三点を選ぶ。
バルガスに査定してもらう。
売れたGで、さらに乳や布を買う。
冒険者が戻れば、DPも増える。
宝箱から品を持ち帰らせれば、町の期待も上がる。
少しずつだが、循環が見え始めていた。
《町内期待度:低迷》
《翌日予想入場者数:6~12名》
《周辺店舗動向》
《小盾需要:上昇予測》
《解毒用品需要:上昇予測》
「店舗動向まで出るのか」
今日、バルガスが言っていたことが、そのまま数字になっている。
矢を一本にしたことで、盾を使えば防げるという情報が広まった。
毒床が残っているため、解毒用品も売れる。
直人の罠設定が、町の商売を動かしている。
「俺がダンジョンを変えると、町の店も変わる」
これまで、町は客の供給源としか見ていなかった。
だが、町には武器屋があり、薬屋があり、食料品店がある。
冒険者が損をすれば、彼らも影響を受ける。
冒険者が成功すれば、対策用品が売れる。
そして直人たちも、町の商品がなければ暮らせない。
「城だけ儲かればいいって話じゃないな」
リナが乳を飲み終えた。
直人は柔らかい布で口元を拭い、毛布へ寝かせる。
少女は満足そうに目を閉じた。
「今日は、ちゃんと食べさせられた」
「ギッ」
「明日も何とかする」
三体のゴブリンが、揃ってうなずいた。
その夜。
ダンジョンの倉庫では、ゴブリンたちが翌日町へ持っていく装備を選んでいた。
錆びの少ない剣。
壊れていない革の籠手。
未使用の道具袋。
一度に大量へ流せば、町の商売を壊す。
だから、最初は三点だけ。
直人は品物の横へ、元の所有者と回収日を書いた紙を置いた。
「来歴を記録する。黙って売らない」
「ギ」
「持ち主が買い戻したいなら、店を通して買えるようにする」
「ギギッ」
初日に十二人から奪った戦利品。
それは今まで、直人の利益として倉庫に眠っていた。
だが、町へ戻せば新しいGになる。
冒険者へ戻れば、次の挑戦を生む。
武器屋が整備すれば、町の仕事にもなる。
価値は、奪って抱え込むだけでは増えない。
動かして初めて、次の商売につながる。
直人は明日の販売品を確認し、管理画面を閉じた。
「ダンジョン経営って、罠を置くだけじゃないんだな」
入口では冒険者を迎える。
奥では魔物が働く。
町では商人と取引する。
そのすべてを回しながら、リナを育てる。
最弱魔王の仕事は、少しずつ増え始めていた。
そして翌朝。
昨日まで静まり返っていた入口の前には、盾や解毒薬を手にした新人冒険者たちが、列を作り始めることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます