翼の無い僕は天国一の役たたず!

豆しば太

読み切り︰翼のない僕は、天国でいちばん役に立たない

『翼のない僕は、天国でいちばん役に立たない』


1 死んでいないのに天国へ来た


天国から落ちてきた少年を見たことがあるだろうか。


普通はないだろう。


天国というものは、死んだ人間が下から昇っていく場所であって、上から誰かが落ちてくる場所ではないからだ。


けれど、その日の午前八時十三分。


天界第七層にある《聖環学院》の校庭へ、一人の少年が落下した。


「うわああああああああっ!」


少年の名は、空木ソラ。


十六歳。


人間。


少なくとも本人は、そのつもりだった。


ソラは雲を突き破り、光の輪を三つほど破壊し、学院の象徴である純白の噴水へ頭から突っ込んだ。


盛大な水柱が上がる。


校庭で朝礼をしていた千二百人の天使候補生たちが、一斉に振り返った。


翼のある者。


頭上に輪を浮かべた者。


身体が半透明の者。


目玉が百個ある者。


翼だけが生えていて、肝心の本体が見当たらない者。


人間界で想像される可愛らしい天使ばかりではない。


むしろ、まともな人間の姿をしている者の方が少なかった。


噴水から顔を上げたソラは、そんな彼らと目が合った。


「……ここ、どこですか?」


沈黙。


やがて、頭上に巨大な目を浮かべた教師が叫んだ。


「人間だああああああっ!」


校庭が爆発したような騒ぎになった。


「生きた人間だ!」


「どこから入った!?」


「触っていい!?」


「人間って本当に毛穴あるの!?」


「誰か保健室へ!」


「いや、解剖室へ!」


「待ってください! 最後の人、明らかにおかしいですよね!?」


ソラは噴水から逃げ出そうとした。


しかし、濡れた石に足を滑らせ、再び頭から水へ落ちた。


そのときだった。


「全員、静粛に」


柔らかい声が響いた。


騒いでいた天使候補生たちが、一瞬で口を閉じる。


校舎の屋上から、一人の女性が降りてきた。


長い銀髪。


白い制服。


背中には左右合わせて十二枚の翼。


そして頭上には、時計の文字盤に似た巨大な光輪が浮かんでいる。


学院長、セラフィナ・クロノス。


天界でも最高位に近い《十二翼》の天使である。


セラフィナは噴水の前へ降り立ち、ソラを見下ろした。


「名前は?」


「空木ソラです」


「年齢は?」


「十六歳です」


「死因は?」


「死んでません!」


「人間は、死んだとき大抵そう言うのです」


「いや、本当に! 今朝も普通に学校へ行こうとしていて、横断歩道を渡っていたら、空から白い穴みたいなものが落ちてきて……!」


「空から穴が?」


セラフィナの目が細くなった。


彼女はソラの胸へ手を当てた。


淡い光が少年の身体を包む。


「心臓は動いていますね」


「だから言ったじゃないですか!」


「魂も肉体に接続されたままです」


「信じてもらえました?」


「つまり、あなたは生きたまま天界へ侵入した密入界者です」


「罪が重くなった!」


セラフィナは微笑んだ。


「安心してください。事情が判明するまで、学院で保護します」


「帰してはもらえないんですか?」


「人間界への門は、百年に一度しか開きません」


「次はいつですか?」


「昨日閉じました」


ソラはその場に膝をついた。


「百年……」


「ですが、例外があります」


ソラが顔を上げる。


「天使候補生として学院を卒業し、《門を開く奇跡》を習得すれば、自力で帰還できます」


「僕が、天使に?」


周囲の生徒たちがざわついた。


天使は人間の死後になるものではない。


この世界における天使とは、人々の願い、祈り、約束、後悔から誕生する存在だ。


人間が天使になるなど、聞いたこともない。


「無理だろ」


「人間には翼がないぞ」


「奇跡を蓄える器官が存在しない」


そんな声が飛び交う。


セラフィナはソラの背後へ回り、制服の襟をつかんだ。


「失礼」


「え?」


制服を勢いよく引き下ろす。


「ぎゃあああっ! 何するんですか!」


ソラの背中が露出した。


そこには、翼がなかった。


羽根の痕跡も、光の紋様もない。


ただし、背骨に沿って、小さな黒い文字が並んでいた。


まるで誰かが、皮膚の内側から文章を書いているようだった。


セラフィナの笑顔が消えた。


《この子を、どうか忘れないで》


文字は、そう記されていた。


しかし、次の瞬間には消えてしまった。


「学院長?」


セラフィナは再び微笑んだ。


先ほどよりも、わずかに不自然な笑みだった。


「決まりです。空木ソラを、本日付で聖環学院一年十三組へ編入させます」


「十三組?」


「別名、《廃棄寸前組》です」


「名前からして嫌な予感しかしない!」


「卒業できなければ、百年後まで学院で用務員をしてもらいます」


「絶対に卒業します!」


こうして空木ソラは、死んでいないのに天界へ来て、翼がないのに天使を目指すことになった。


そして彼は、まだ知らなかった。


自分がこの学院へ落ちてきたのではないことを。


この天界そのものが、ソラを引きずり上げたのだということを。


---


2 廃棄寸前組


一年十三組の教室は、校舎の外にあった。


正確には、校舎の壁に鎖で吊り下げられていた。


強風が吹くたびに教室全体が揺れる。


「どうして教室が空中ブランコみたいになってるんですか!?」


ソラが叫ぶと、担任教師は黒板へ文字を書きながら答えた。


「去年、十二回爆発したからだ」


担任の名は、バルバトス・ベル。


三十代ほどに見える男性で、黒い長髪を後ろで結び、片方の翼だけが異常に大きかった。


もう片方の翼は、根元から存在しない。


服装も天使らしい白ではなく、喪服のような黒一色だった。


「校舎から切り離しておけば、本館への被害が少なくて済む」


「原因を取り除こうとは思わないんですか?」


「原因はお前たちだ」


教室には、ソラを含めて七人の生徒がいた。


一人目。


机の上で眠っている金髪の少女、ミトラ・レイ。


背中には美しい四枚翼があるが、すべての羽根に値札が付いている。


二人目。


透明な箱を頭にかぶった、小柄な少年ピピ。


箱の中には小さな雷雲が浮かんでいる。


三人目。


全身を包帯で覆った大柄な少年ガラン。


背中から翼ではなく、無数の腕が生えていた。


四人目。


制服を完璧に着こなし、分厚い規則書を抱えた少女リリエル。


頭上の光輪は、ひどく四角い。


五人目と六人目。


一つの椅子に、背中合わせで座っている双子のネムとラム。


ネムには右半身しかなく、ラムには左半身しかない。


そして七人目が、翼のない人間、空木ソラだった。


「彼が今日から加わる空木ソラだ」


ベルが紹介する。


誰も拍手しない。


ミトラだけが薄目を開けた。


「能力は?」


「ないです」


「翼は?」


「ないです」


「家柄は?」


「普通の会社員の家庭です」


「資産は?」


「お小遣いなら三千円くらい……」


ミトラは再び目を閉じた。


「価値なし」


「初対面でそこまで言います!?」


ピピが箱の中の雷雲を震わせる。


『人間、珍しい。解剖していい?』


箱の表面に文字が浮かんだ。


「よくない!」


ガランは無数の腕で器用に拍手した。


「俺は歓迎するぞ。人間は弱いと聞く。弱い者がいると、俺が強く見える」


「歓迎の理由が最低だ!」


ネムとラムが同時に顔を向けた。


「僕は君が三日後に泣く未来を見たよ」


「私は君が四日後に燃える未来を見たわ」


「ろくな未来がない!」


最後に、リリエルが立ち上がった。


「静粛に。学院規則第三条、編入生への過度な威嚇は禁止されています」


「まともな人がいた……!」


ソラが安心した直後、リリエルは規則書を開いた。


「ただし、人間は学院規則上、生徒に分類されません。したがって威嚇、実験、分解、売買のいずれも禁止事項には該当しない可能性があります」


「一番危ない人だった!」


ベルが黒板を叩いた。


「雑談は終わりだ。本日の授業は《基礎奇跡学》。全員、祈力を出せ」


生徒たちが机に手を置く。


机の中央に、透明な羽根が一本ずつ現れた。


「祈力とは、人間の祈りから生まれる力だ。天使は翼に祈力を蓄え、奇跡へ変換する」


ベルはソラを見る。


「人間、お前もやれ」


「どうやって?」


「願え」


ソラは机に手を置いた。


目を閉じる。


翼が欲しい。


卒業したい。


家に帰りたい。


母の作った朝ご飯を食べたい。


強く願った。


何も起きなかった。


周囲から笑い声が上がる。


「やはり翼なしでは祈力を扱えないか」


ベルは冷静に言った。


そのとき、教室の床が大きく傾いた。


吊り下げていた鎖の一本が切れたのだ。


「え?」


教室が斜めになる。


机も椅子も生徒も、割れた窓の方へ滑り始めた。


「またか」


ベルはため息をつく。


ミトラが翼を広げた。


「《黄金固定》」


金色の光が教室を包み、すべての机が空中で停止する。


しかし値札の付いた羽根が、一枚ずつ灰になっていく。


「十秒で三百万祈貨。高い」


「奇跡を使うたびに料金がかかるの!?」


「私の奇跡は有料」


「自分にも!?」


その間にベルが鎖を修復し、教室は元へ戻った。


「今のが奇跡だ。願うだけでは足りない。世界へ代償を支払い、あり得ない結果を成立させる」


ソラは、自分の何も起きなかった机を見つめた。


やはり自分には何もない。


その日の授業が終わった後。


クラスメイトたちはさっさと帰っていったが、ソラは教室に残っていた。


ベルが声をかける。


「落ち込んでいるのか?」


「別に」


「安心しろ。十三組の連中は、全員何らかの欠陥を抱えている」


ベルは黒板へ六人の名前を書いた。


「ミトラは強力な奇跡を使えるが、他人から与えられた価値に依存している。値段が付かないものを信じられない」


「ピピは言葉を口にすると雷を落としてしまう。だから箱で声を封じている」


「ガランは誰かを助けたいと願うたび、腕だけが増えていく。だが救い方を知らない」


「ネムとラムは未来を見るが、片方ずつ異なる結末しか見えない」


「リリエルは規則を破ると、身体が石になる」


ベルは最後に、ソラの名前を書いた。


「お前は、翼がない」


「僕だけ欠陥がそのまますぎません?」


「欠陥とは、才能がまだ使い道を見つけていない状態だ」


ベルはそう言い残して教室を出た。


一人になったソラは、もう一度机に手を置いた。


願う。


祈る。


しかし、やはり羽根は現れない。


「……帰りたいな」


小さくつぶやいた。


その瞬間。


ソラの机の中から、かすかな声が聞こえた。


――帰りたい。


少女の声だった。


ソラは机を開ける。


中には何もない。


――お母さんに会いたい。


今度は、少年の声。


――痛い。


――怖い。


――誰か、気づいて。


無数の声が重なり始める。


ソラは耳を塞いだ。


それでも声は、頭の内側から聞こえてきた。


机。


床。


壁。


空気。


学院の至る所に、声が染み込んでいる。


すべて、誰かの祈りだった。


けれど、奇跡にはならなかった祈り。


誰にも届かなかった願い。


ソラの背中に、黒い文字が浮かび上がる。


《この子を、どうか忘れないで》


その直後、教室の窓の外で、巨大な何かが目を開いた。


雲の下。


人間界と天界の狭間。


そこに、無数の口を持つ黒い影が漂っていた。


ソラと目が合う。


影は笑った。


「みつけた」


---


3 天使はすべての祈りを救わない


翌朝。


ソラは学院の食堂で、巨大なパンと格闘していた。


天界のパンは、人間の言葉を理解する。


そして食べられることを嫌がる。


「離せ! 僕はまだ発酵したばかりだ!」


「食べ物が命乞いしないでください!」


「せめて家族へ別れを!」


「パンに家族がいるんですか!?」


「食パン五枚切りの兄弟が!」


ソラがパンを押さえ込んでいると、向かいにミトラが座った。


彼女は銀貨を一枚、テーブルへ置く。


するとパンは自ら皿へ横たわった。


「私を食べてください」


「態度が違いすぎる!」


ミトラはパンをちぎりながら言った。


「世の中の大半は、値段を付ければ大人しくなる」


「嫌な格言ですね」


「あなたにも値段を付けてあげる」


ミトラはソラを眺めた。


「希少な生きた人間。研究用として、二千祈貨」


「安いのか高いのか分からない」


「食堂のパン四個分」


「安い!」


そこへ、リリエルが走ってきた。


「空木ソラ。学院長がお呼びです」


「僕を?」


「昨夜、十三組の教室周辺で未登録の祈力反応が観測されました。何か知っていますか?」


ソラは黒い影のことを思い出した。


だが、正直に話せば解剖室へ送られるかもしれない。


「何も知りません」


その瞬間。


リリエルの規則書が勝手に開き、赤い光を放った。


「学院内での虚偽申告。規則違反です」


「嘘発見機能まであるの!?」


「正直に話してください」


仕方なく、ソラは昨夜聞いた声と黒い影について説明した。


話を聞いたミトラの表情が変わる。


リリエルは顔を青ざめさせた。


「《棄却祈願》……」


「何ですか、それ」


「奇跡になれなかった祈りです」


リリエルは周囲を確認し、声を落とした。


「天使は人間の祈りを受け取り、重要度、緊急性、実現可能性に応じて処理します。しかし、すべての願いを叶えることはできません」


「それは分かります。世界中の願いを全部叶えたら、大変なことになるでしょうし」


「処理されなかった祈りは、本来なら自然に消滅します」


「本来なら?」


ミトラが言った。


「消えなかった祈りは、下へ捨てられる」


「捨てる?」


「天界の底にある《忘却層》へ」


リリエルが慌ててミトラを止める。


「それ以上は機密です」


「でも、昨夜見たものが関係しているんですよね?」


ソラが尋ねる。


誰も答えない。


そのとき、食堂全体に鐘の音が鳴り響いた。


『全生徒へ通達。本日の実習は、人間界で行います』


空中に学院長セラフィナの顔が映し出される。


『一年生は、担当区域において小規模奇跡を一件成立させてください。ただし、人間に姿を見られてはいけません』


食堂が歓声に包まれた。


人間界実習は、生徒たちにとって人気の授業らしい。


ソラだけは首を傾げた。


「僕、人間界へ戻れるんですか?」


リリエルが説明する。


「学院が開く実習用の門は、一時的な投影門です。天使の身体だけを人間界へ投影します」


「その門を使えば、僕も帰れるんじゃ」


「投影終了と同時に、強制的に天界へ戻されます」


「世の中うまくいかない……」


一年十三組に与えられた実習地域は、とある地方都市だった。


ソラの生まれ育った町とは、何百キロも離れている。


七人とベルは光の門を通り、人間界の商店街へ降り立った。


ただし、人間には彼らの姿が見えない。


「実習内容を説明する」


ベルは生徒たちへ小さな瓶を配った。


瓶の中には、光る文字が一つずつ入っている。


「人間一人の祈りを受け取り、危険のない範囲で奇跡に変換しろ」


ミトラの瓶には、


《宝くじで一億円当たりますように》


と書かれていた。


「危険しかない願いですけど」


ソラが言う。


「調整すればいい」


ミトラは近くの売り場へ黄金の光を飛ばした。


宝くじを買おうとしていた男性の足元へ、百円玉が転がる。


男性はそれを拾い、募金箱へ入れた。


「願いを叶えてないですよね?」


「彼は一億円が欲しいのではない」


ミトラは男性の後ろ姿を見る。


「自分の行動に、価値があると感じたかっただけ」


その瞬間、瓶の文字が消え、代わりに小さな羽根が生まれた。


ソラは少し驚いた。


ミトラは何でも金で判断する少女だと思っていた。


けれど、彼女は願いの奥にある本当の気持ちを見抜いていた。


ピピの瓶には、


《今日だけ雨が降りませんように》


と書かれていた。


近くの公園では、少女が亡くなった犬のために、小さな墓を作っている。


空には雨雲。


ピピは頭の箱を少し開いた。


「……晴れろ」


小さな声が漏れる。


次の瞬間、雷鳴が響いた。


雨雲に穴が開き、公園の一角だけに光が差す。


少女は涙を拭い、犬の墓へ花を置いた。


瓶の中に羽根が生まれる。


ガランの願いは、


《重い荷物を持っているおばあさんを助けて》


だった。


ガランは無数の腕を伸ばし、荷物を持ち上げようとする。


しかし人間に姿が見えないため、荷物だけが空中へ浮いた。


「ひいいいいっ! 呪われた!」


「逆に怖がらせてる!」


ソラたちは慌てて荷物を元へ戻した。


結局、ガランが杖を転がし、それを拾おうとした高校生が老婆に気づくよう仕向けた。


高校生は荷物を持ち、老婆と一緒に歩き始めた。


願いは成立した。


ネムとラムは、道に迷った子どもを母親へ導いた。


リリエルは、遅刻しそうな会社員のため、信号の切り替わる時間を規則の範囲内で三秒だけ短くした。


やがて、ソラの番になる。


瓶の中には、何も書かれていなかった。


「空なんですけど」


ベルが瓶を確認する。


「不良品か?」


そのとき。


ソラの耳に、あの声が聞こえた。


――助けて。


商店街の向こう。


古い病院。


声は、その屋上から聞こえる。


ソラは走り出した。


「どこへ行く!?」


ベルたちが後を追う。


病院の屋上に、一人の少女が立っていた。


年齢は、ソラと同じくらい。


病院着の上にカーディガンを羽織り、柵の向こうを見つめている。


天使たちの姿は見えていない。


少女は小さくつぶやいた。


「誰にも迷惑をかけずに、消えられますように」


ソラの瓶に、文字が浮かんだ。


《私なんか、最初からいなければよかった》


「これを、奇跡にするんですか?」


ソラの声が震える。


リリエルは答えられない。


少女の願いをそのまま叶えれば、彼女の存在を消すことになる。


だが願いを無視すれば、実習は失敗する。


ベルが静かに言う。


「願いとは、言葉通りとは限らない」


「でも、僕には奇跡が使えません」


「なら、奇跡を使わずに救え」


「僕たちは見えないんですよ!」


少女が柵を越えようとする。


ソラは反射的に飛び出した。


手を伸ばす。


当然、投影された身体では人間に触れられない。


はずだった。


ソラの手が、少女の手首をつかんだ。


「え?」


少女が振り返る。


彼女には、ソラの姿が見えていた。


「誰……?」


ソラ自身も驚いていた。


けれど、手を離さなかった。


「分かりません」


「何それ」


「僕も、ここにいる理由が分からないんです。朝起きたら天国へ連れていかれて、翼もないのに天使をやれって言われて、変なクラスへ入れられて……」


「天使?」


「見えませんよね。僕にも翼はありませんけど」


少女は泣きながら、少しだけ笑った。


「変な人」


「よく言われます。今日だけで六回くらい」


「私、もう疲れたの」


「はい」


「治療も、心配されるのも、頑張れって言われるのも」


「はい」


「だから、消えたいって思った」


「はい」


「止めないの?」


ソラは少女の手を握ったまま答えた。


「僕には、あなたの苦しさが分かりません」


少女の表情が固まる。


「分かるなんて言ったら、嘘になります。でも……」


ソラは空の瓶を見た。


「消えたいって願いの中に、助けてって声が聞こえました」


少女の目から涙がこぼれる。


「そんなこと、言ってない」


「声に出していなくても、聞こえました」


「どうして?」


「分かりません。でも、聞こえたから来ました」


少女はしばらく黙っていた。


やがて、柵の内側へ戻る。


「じゃあ、お願いしてもいい?」


「僕にできることなら」


「明日も、来て」


ソラは言葉に詰まった。


実習が終われば、天界へ戻される。


明日来られる保証はない。


だから、嘘はつけなかった。


「明日は、来られないかもしれません」


少女の顔が曇る。


「でも、あなたが明日まで生きていたら、また会う方法を探します」


「何それ。全然、天使らしくない」


「僕もそう思います」


少女は涙を拭いた。


その瞬間、ソラの瓶の中に羽根が現れた。


白でも金でもない。


透明な羽根だった。


ベルの顔色が変わる。


「その羽根は……」


直後、空が割れた。


黒い影が病院の上空へ現れる。


無数の口が一斉に開いた。


「みつけた」


人間には聞こえない声が町中へ響く。


天使たちだけが凍りつく。


黒い影から、無数の腕が伸びた。


腕は少女ではなく、ソラをつかんだ。


「空木!」


仲間たちが手を伸ばす。


しかしソラの身体は、黒い影の中へ引きずり込まれた。


最後に見えたのは、泣きながら手を伸ばす少女の姿だった。


そして少女の唇が、こう動いた。


――忘れないで。


---


4 忘れられた祈りの墓場


ソラが目を覚ますと、そこには空がなかった。


地面もない。


上下の感覚さえ存在しない。


暗闇の中を、無数の言葉が流れている。


《病気が治りますように》


《試験に受かりますように》


《あの人が振り向いてくれますように》


《戦争が終わりますように》


《明日もご飯を食べられますように》


《お父さんが帰ってきますように》


《誰か、私を見つけて》


祈り。


願い。


誰にも届かなかった声。


それらが、星のように暗闇を漂っている。


「ここが、忘却層……?」


「その呼び方は、天使たちが付けた」


背後から声が聞こえた。


振り返る。


そこには黒い影がいた。


無数の口。


無数の目。


輪郭は絶えず変化し、老人にも、子どもにも、動物にも見える。


「我々は自らを、《アノン》と呼ぶ」


「僕をどうするつもりですか?」


「返してもらう」


「何を?」


「お前を」


黒い腕がソラの胸へ触れた。


その瞬間、記憶が流れ込んでくる。


夜の病室。


赤ん坊を抱く女性。


医師たちが首を横に振る。


生まれたばかりの赤ん坊は、呼吸をしていなかった。


女性は何度も呼びかける。


「お願い」


「目を開けて」


「この子を連れていかないで」


「誰でもいい」


「神様でも、天使でも」


「この子を、どうか忘れないで」


その祈りは天界へ届いた。


しかし、棄却された。


一人の命を救うために奇跡を使えば、世界の均衡に小さな歪みが生まれる。


救命可能性も低い。


祈願優先度、最低。


処理結果、棄却。


けれど、その祈りは消えなかった。


母親の願いは強すぎた。


忘却層へ捨てられた無数の祈りが、その声へ集まった。


忘れられた願いたちは、たった一人の赤ん坊を救うため、天界の許可なく奇跡を起こした。


赤ん坊は息を吹き返した。


その子が、空木ソラだった。


「僕は……」


「お前は人間ではない」


アノンの口が一斉に動く。


「人の肉体に宿った、棄却祈願の集合体」


ソラの背中に文字が浮かぶ。


《この子を、どうか忘れないで》


「そんな……」


「お前に翼がないのは当然だ。翼は、天界に認められた祈りの証。我々は認められていない」


「じゃあ、僕が声を聞けたのは……」


「お前が我々だからだ」


アノンは暗闇の向こうへ腕を伸ばす。


そこには、巨大な門があった。


門の向こうに、聖環学院が見える。


「天界は祈りを選別する。価値のある願いだけを救い、弱く、小さく、都合の悪い声を捨てる」


「全部の願いを叶えることなんてできない」


「叶えろとは言っていない」


アノンの声に、怒りが混ざる。


「聞けと言っている」


暗闇を漂っていた祈りが、急に激しく渦巻き始めた。


「捨てられた祈りは消えない。聞かれなかった声は、声であることをやめ、災厄になる」


巨大な門に亀裂が走る。


「我々は天界へ上がる。すべての天使に、捨てた声を返す」


「そんなことをしたら、天界が壊れる!」


「壊れればいい」


「人間界にも影響が出る!」


「祈りを捨て続ける世界に、存在する価値があるか?」


ソラは答えられなかった。


アノンの言っていることは、間違っていない。


天界はすべての願いを救えない。


けれど、救えなかった願いを、存在しなかったことにしている。


病院の屋上にいた少女。


彼女の「消えたい」という願いも、そのまま処理されれば棄却されていただろう。


その奥にある「助けて」という声を、誰にも聞かれないまま。


「お前は我々の門だ」


アノンが言う。


「お前の身体を通れば、忘却層と天界はつながる」


ソラの胸に黒い穴が開き始める。


無数の祈りが、身体の中へ流れ込んでくる。


痛い。


苦しい。


頭が割れそうだった。


数え切れないほどの声が響く。


助けて。


愛して。


気づいて。


許して。


帰りたい。


生きたい。


死にたい。


誰にも言えなかった無数の声。


「やめろ……」


「お前は、我々のために生まれた」


「違う」


「お前の命は、我々が与えた」


「違う!」


ソラは叫んだ。


「僕は、僕だ!」


暗闇が震える。


「たしかに、僕はみんなの祈りから生まれたのかもしれない。でも、誰かの道具になるために十六年間生きてきたんじゃない!」


「では、天使側へ戻るのか?」


「それも違う!」


ソラは黒い穴を両手で押さえた。


「祈りを捨てる天界も間違ってる! でも、聞かせるために全部壊すのも間違ってる!」


「ならば、どうする?」


「考える!」


「答えになっていない」


「十六歳に世界の答えを求めないでください!」


そのとき、忘却層の天井が爆発した。


金色の光。


雷。


無数の腕。


規則書。


半分ずつの翼。


一年十三組の生徒たちが、暗闇へ飛び込んできた。


「ソラ!」


リリエルが叫ぶ。


ミトラは金色の鎖でアノンの腕を縛った。


「所有権を主張する」


「僕は物じゃない!」


「今だけ黙って。あなたの価値は、食パン百億個分まで上がった」


「基準がパンなんだ!」


ピピが箱を完全に外す。


初めて見る彼の素顔は、まだ幼かった。


「ソラを……返せ!」


言葉と同時に、巨大な雷が落ちる。


ガランの無数の腕がソラをつかみ、引き寄せる。


ネムとラムが叫んだ。


「右へ行けば学院が崩壊する!」


「左へ行けば人間界が崩壊する!」


「他の未来は!?」


「見えない!」


「役に立たない予言だな!」


最後に、ベルが降り立った。


片翼を広げ、アノンとソラの間に立つ。


「迎えに来たぞ、問題児」


「先生……」


「勝手に誘拐されるな。始末書を書くのは担任だ」


アノンの身体が膨張する。


忘却層全体が、巨大な怪物へ変わっていく。


「天使ども。我々を再び捨てるのか」


ベルは剣を抜いた。


「いや」


剣先を学院へ向ける。


「今日は、捨てた側に責任を取らせる」


---


5 天国でいちばん役に立たない奇跡


聖環学院では、緊急警報が鳴り響いていた。


忘却層から黒い祈りが噴き上がり、校舎を包み始めている。


触れた天使たちは、他人の声を無理やり聞かされた。


助けられなかった命。


届かなかった謝罪。


誰にも見つけられなかった孤独。


強大な祈りに耐えられず、生徒たちは次々と倒れていく。


学院長セラフィナは、中央塔の頂上に立っていた。


十二枚の翼を広げる。


「忘却門を完全封鎖します」


天空に巨大な時計の文字盤が現れた。


時間そのものを止め、忘却層との接続を切ろうとしている。


そこへベルたちが戻ってきた。


「やめろ、セラフィナ!」


「遅かったですね、ベル」


「門を閉じれば、忘却層にいる祈りはどうなる?」


「永遠に封印されます」


「また捨てるのか」


「ほかに方法はありません」


セラフィナはソラを見る。


悲しそうな目だった。


「あなたのことは、誕生したときから知っていました」


「僕を?」


「十六年前、天界の規則を破って生まれた奇跡。いずれ忘却層と天界をつなぐ門になると予測されていました」


「だから僕を人間界に?」


「あなたを殺すべきだという意見もありました」


十三組の生徒たちが身構える。


セラフィナは首を横に振った。


「私は反対しました。あなたには罪がなかったからです。人間界へ隠し、普通の人間として一生を終えさせるつもりでした」


「じゃあ、どうして僕は天界へ?」


「忘却層の圧力が限界に達し、あなたを呼び戻したのでしょう」


黒い祈りが、学院を覆っていく。


セラフィナの時計が回転を始めた。


「門を閉じます。空木ソラ、あなたも忘却層との接続を失い、普通の人間へ戻れるでしょう」


「中にいる声は?」


「救えません」


「聞くことも?」


「必要ありません」


ソラは黙った。


その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが決まった。


「必要あります」


「何ですって?」


「叶えられない願いでも、聞いてもらう意味はあります」


「聞くだけでは何も救えません」


「救えなくても、いなかったことにはしないで済む」


ソラは学院を見渡した。


倒れている生徒たち。


泣いている者。


耳を塞いでいる者。


黒い祈りは、憎しみだけでできているのではない。


寂しかったのだ。


誰にも聞かれず。


誰にも覚えられず。


捨てられたまま、長い時間を過ごしてきた。


「学院長。天使の翼は、祈りを奇跡へ変える器官なんですよね」


「そうです」


「僕には翼がない」


「だからあなたは奇跡を使えません」


「違います」


ソラの背中に、黒い文字が浮かび上がる。


一つだけではない。


《この子を、どうか忘れないで》


《お母さんに会いたい》


《もう一度だけ話したい》


《誰かに名前を呼んでほしい》


無数の文字が全身を覆っていく。


「僕には翼がないから、祈りを奇跡に変えなくていい」


ソラは忘却層へ向かって手を伸ばした。


「そのまま受け取れる」


黒い祈りが、ソラの身体へ流れ込む。


「やめなさい!」


セラフィナが叫ぶ。


「それだけの祈りを受け入れれば、あなたの人格は消滅します!」


「一人では無理です」


ソラはクラスメイトたちを見た。


「だから、手伝ってください」


最初に手を差し出したのは、ガランだった。


「俺は、誰かを助けたいと思うたびに腕が増えた」


無数の腕を広げる。


「ようやく、使い道が分かった」


ガランの腕が、黒い祈りを一本ずつ受け止める。


次にピピが箱を外した。


「僕の言葉は、いつも誰かを傷つけた」


雷が空を裂く。


「でも、声が届かないよりはいい」


雷鳴が黒い祈りを照らし、一つ一つの言葉を浮かび上がらせる。


ネムとラムが互いの手を握った。


「右の未来にも救えない人がいる」


「左の未来にも救えない人がいる」


二人は初めて一つの身体のように重なった。


「だから、今ここにいる人を見る」


未来を見る目を閉じ、目の前の祈りへ手を伸ばす。


リリエルは規則書を開いた。


「学院規則第一条。天使は人間界の秩序を守らなければならない」


ページを破る。


彼女の足先が石になった。


「学院規則第二条。未処理の祈願への私的接触を禁ずる」


さらに破る。


石化が膝まで進む。


「学院規則第三条――」


「もうやめろ!」


ソラが叫ぶ。


「いいえ」


リリエルは規則書をすべて破り捨てた。


「間違った規則を守ることは、正しさではありません」


身体の半分が石になりながら、それでもソラの手を握った。


最後にミトラが残った。


彼女は黒い祈りを見つめている。


「値段を付けられない」


「ミトラ?」


「これらの願いに、いくらの価値があるのか分からない」


ミトラの翼に付いていた値札が、次々と剥がれ落ちた。


「価値が分からないものは、怖い」


彼女は震える手を伸ばした。


「でも、価値がないとは限らない」


値札の消えた四枚翼が、大きく広がる。


これまでで最も強い黄金の光が、学院全体を包んだ。


ベルも片翼を広げた。


「十三組、合同奇跡を開始する」


「でも、僕たちは何を起こせば?」


ソラが尋ねる。


ベルは笑った。


「それを決めるのがお前だ」


奇跡。


あり得ない結果を、世界へ代償を支払って成立させるもの。


だが、今必要なのは、誰かを生き返らせることでも、運命を変えることでもなかった。


ソラは思い出す。


病院の少女。


彼女は、消えたいと願っていた。


けれど本当に欲しかったのは、願いを叶えてくれる神ではなかった。


自分の声を聞く、誰かだった。


「すべての祈りを、天界中へ届ける」


セラフィナが目を見開く。


「不可能です。何億、何兆という声ですよ!」


「一瞬でいい」


ソラは笑った。


「天使全員に、聞いてもらう」


「それは奇跡ではありません。ただ声を届けるだけです」


「そうです」


ソラは黒い祈りを抱きしめた。


「世界でいちばん役に立たない奇跡です」


七人の力が、一つにつながる。


ガランの腕が祈りを支え。


ピピの雷が声を光へ変え。


ネムとラムが無数の未来へ道を開き。


リリエルが天界の規則を書き換え。


ミトラが、値段の付けられないものへ力を与え。


ベルの片翼が、すべてを天へ運ぶ。


そして翼のないソラが、祈りを祈りのまま受け入れる。


「合同奇跡――《忘れない》!」


光が爆発した。


その瞬間。


天界中のすべての天使が、声を聞いた。


叶わなかった願い。


間に合わなかった祈り。


誰にも言えなかった思い。


ほんの一瞬。


けれど、確かに届いた。


天使たちは泣いた。


教師も、生徒も、上位天使も。


自分たちが処理表の数字として捨ててきたものが、一人一人の声だったことを、初めて知った。


アノンの巨大な身体が崩れていく。


無数の口が、静かに閉じる。


「これで……我々は救われたのか」


ソラは首を横に振った。


「分かりません」


「我々の願いは叶わない」


「はい」


「死者は戻らない」


「はい」


「失われた時間も、消えた命も」


「戻りません」


アノンは、少し笑った。


今度の笑顔は、怖くなかった。


「それでも、聞かれた」


黒い影は、無数の小さな光へ変わっていく。


「それだけで、声は災厄ではなくなる」


最後の光が、ソラの胸へ触れた。


「忘れるな。我々は、お前でもある」


「はい」


「生きろ。空木ソラ」


忘却層は消えなかった。


けれど、墓場ではなくなった。


天界とつながる、巨大な夜空になった。


叶わなかった祈りが星となり、静かに瞬いている。


---


6 翼がなくても


事件から一週間後。


聖環学院では、緊急の制度改革が始まった。


これまで棄却されていた祈願は、すべて記録されることになった。


叶えられない願いにも、担当天使が一度は耳を傾ける。


すぐに何かが変わるわけではない。


相変わらず救えない命はある。


間に合わない願いもある。


けれど、少なくとも「存在しなかったこと」にはされなくなった。


学院長セラフィナは、中央塔の修理費を眺めながら震えていた。


「天界創設以来、最大の赤字です」


ミトラが書類を確認する。


「私が貸しましょうか? 利息は一日二割で」


「結構です」


リリエルの石化は解除された。


ただし規則書を破った罰として、三千ページの反省文を書かされている。


「反省文を書くという規則そのものに、反省を促す効果があるのでしょうか」


「石になっても規則の話をしてる……」


ピピは再び箱をかぶっている。


だが以前よりも、ときどき自分の声で話すようになった。


そのたびに小規模な落雷が起こり、校舎の避雷針が増設された。


ガランは保健委員になった。


無数の腕で怪我人を運ぶ姿は便利だったが、患者一人に対して包帯を百周巻くため評判はよくない。


ネムとラムは未来を見る回数を減らした。


代わりに、今日の昼食が何かを予想することへ能力を使っている。


的中率は五割。


二人いるので、必ずどちらかが当たる。


そして、空木ソラ。


彼は学院長室へ呼び出されていた。


「あなたの処分が決まりました」


セラフィナが厳しい表情で告げる。


「学院規則違反、無断での実習離脱、忘却層への侵入、天界全域への無許可放送、中央塔を含む学院施設四十三棟の損壊」


「退学ですか?」


「いいえ」


セラフィナは一枚の紙を差し出した。


《特別進級許可証》


「あなたは今回、天界史上初となる新種の奇跡を成立させました。よって基礎奇跡学の単位を認定します」


「じゃあ、卒業に近づいた?」


「全必修科目、合計六百四十二単位のうち、一単位です」


「遠い!」


「なお、施設損害の弁償として、卒業後三百年間の就労義務が発生します」


「人間の寿命を考えてください!」


「心配ありません。あなたが人間かどうかは、かなり疑わしくなりました」


「そこを曖昧にしないで!」


ソラが抗議していると、学院長室の窓を白い鳥が叩いた。


鳥は一通の手紙をくわえている。


差出人は、人間界の少女。


病院の屋上で出会った、あの少女だった。


どうして天界へ手紙を送れたのか。


封筒には、ただ一言、


《天使さんへ》


と書かれている。


ソラが手紙を開く。


中には短い文章があった。


《約束したから、明日まで生きました》


《明日まで生きたら、次の日も少しだけ生きてみようと思いました》


《退院できたら、あなたを探します》


《名前を聞いていなかったので、今度会ったら教えてください》


ソラは何度も読み返した。


手紙の最後には、小さな羽根の絵が描かれていた。


「帰りたいですか?」


セラフィナが尋ねる。


「もちろん」


ソラは答える。


「家族にも会いたいし、学校にも戻りたい。病院の子にも、約束があります」


「では、卒業を目指しなさい」


「百年かかりませんよね?」


「十三組の平均卒業年数は、四百二十年です」


「百年より増えた!」


セラフィナが笑う。


「ただし、空木ソラ。あなたには一つ、大きな可能性があります」


「可能性?」


「天使は翼の数によって、扱える奇跡の規模が決まります」


セラフィナは自らの十二枚翼を広げた。


「ですが、あなたには翼がない」


「それ、欠点ですよね?」


「翼とは、祈りを決まった形の奇跡へ変える器官です。言い換えれば、可能性を限定する枠でもある」


ソラは自分の背中を見る。


そこには翼がない。


代わりに、無数の声が眠っている。


「翼のないあなたは、どんな形にもなれる」


学院長室の扉が勢いよく開いた。


「ソラ! 大変!」


リリエルが飛び込んでくる。


「十三組の教室が落下しています!」


窓の外を見る。


鎖がすべて切れた教室が、雲の下へ落ちていく。


教室の窓から、ベルが顔を出していた。


「全員集合! 今日の授業は、落下する教室を救う実習だ!」


「どうして普通に修理しないんですか!?」


「修理費がない!」


ミトラが翼を広げる。


「救助費用、一人五百祈貨」


「同級生から金を取るな!」


ピピの雷が校庭へ落ちる。


ガランの腕が何十本も伸びる。


ネムとラムが別々の方向を指さす。


リリエルが規則書を振り回す。


ソラは窓枠へ足をかけた。


「空木ソラ」


セラフィナが呼び止める。


「あなたは何者ですか?」


人間ではないかもしれない。


天使でもない。


忘れられた祈りの集合体。


天界の規則に存在しない、名前のない何か。


それでも、答えは決まっていた。


ソラは笑う。


「一年十三組、出席番号七番」


窓から飛び降りる。


翼はない。


当然、飛べない。


「うわああああああああっ!」


落下するソラを、ガランの腕がつかむ。


ピピの雷が加速させ、ミトラの黄金が身体を守る。


ネムとラムが最善の軌道を示し、リリエルが「校内での飛行許可」を無理やり発行する。


七人は、落下する教室へ向かって飛んでいく。


翼がなくても。


奇跡が使えなくても。


一人では何もできなくても。


誰かの声を聞くことはできる。


手を伸ばすことはできる。


そして、伸ばした手を握ってくれる仲間がいる。


空木ソラは、天国でいちばん役に立たない天使候補生だ。


けれど後に、天界中の誰もが彼の名を知ることになる。


十二枚の翼を持つ大天使でもなく。


世界を支配する神でもなく。


叶えられなかった願いの隣に、ただ座り続けた者。


天界史上最初にして最後の、


《無翼の天使》として。


もっとも、それはずっと先の話。


今のソラにとって、最も重要な問題は一つだけだった。


「先生! 教室の下に町があります!」


「安心しろ! 衝突まであと三十秒ある!」


「全然安心できない!」


「十三組、初の共同作業だ!」


「この前、天界を救ったばかりでしょう!?」


「それは授業に含まれない!」


「命懸けだったのに!?」


天界第七層。


聖環学院。


今日も、翼のない少年の悲鳴が、どこまでも青い空へ響いていた。


『翼のない僕は、天国でいちばん役に立たない』 完

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翼の無い僕は天国一の役たたず! 豆しば太 @maskiyo

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