第2話 朝、目が覚めると
朝、目が覚めると
朝、目が覚めた。
チュン、チュン。窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてくる。
幸一はゆっくりと目を開ける。
――あれ?
いつもと何かが違う。
部屋全体が見えている。
正面だけではない。
右も左も、後ろまで見えているような不思議な感覚だった。
けれど、はっきり見えているわけでもない。
景色が妙にかすんでいて、細かいところはよく分からない。
「……何だ、これ。」
起き上がろうとした幸一は、自分の体を見て固まった。
手がない。
あるのは、細くて緑色の足。
先には小さなかぎのような爪がついている。
「えっ……。」
幸一は慌てて布団から飛び出した。
その瞬間だった。
ぴょん!
体が信じられないほど高く跳ね上がる。
気がつくと、机の上に立っていた。
「うそだろ……。」
幸一は辺りを見回した。
さっきまで寝ていた布団が、ずっと遠くに見える。
机の上に置かれたティッシュ箱は、小さな家ほどの大きさに感じられた。
鉛筆立ては木のように高くそびえ、コップ一杯の水は、小さな池のように見える。
「なんなんだ……これ。」
目の前には、鏡が立て掛けられていた。
幸一は恐る恐る近づき、鏡をのぞき込む。
「……えっ。」
息をのんだ。
鏡に映っていたのは、自分ではなかった。
全身は鮮やかな緑色に輝き、頭の上では細長い触角がゆらゆらと揺れている。
折りたたまれたたくましい後ろ足は、今にも勢いよく跳び出しそうだった。
そこにいたのは、人間ではない。
一匹のバッタだった。
幸一は鏡の前で固まった。
目の前の生き物が、自分だとは信じられない。
「うそだろ……」
もう一度、鏡をのぞき込む。
何度見ても、鮮やかな緑色の体は消えなかった。
しかも――。
「トノサマバッタじゃないか!」
幸一はその場で立ち尽くした。いや、立ち尽くしたつもりだった。
頭の中は真っ白になる。
人間とバッタが合体したヒーローなら、テレビや映画で見たことがある。
でも、ただのトノサマバッタになったなんて話は、一度も聞いたことがない。
「なんでよりによって、バッタなんだよ……。」
幸一はつぶやいた。
驚いた拍子に、また体がぴょんと跳ね上がり、今度はカーテンレールの上まで飛んでしまった。
「うわあっ!」
どうやって降りればいいんだ。
幸一は細いレールの上で、ぶるぶると震えることしかできなかった。
幸一は慌ててカーテンレールの上を歩き、布団を見下ろした。
隣では、春と翔太がまだ気持ちよさそうに眠っている。
「春!」
そう呼ぼうとした。
だが、声が出ない。
口を動かしても、どうやって話せばいいのか分からなかった。
代わりに、
ギチ、ギチ……。
羽と足をこすり合わせるような音が鳴っただけだった。
(えっ……。)
もう一度やってみる。
ギチ、ギチギチ。
やっぱり人間の言葉は出てこない。
幸一は青ざめた。
(どうしよう……。)
助けを呼びたくても呼べない。
そのとき、ふと気が付いた。
(待てよ……。)
もし春や翔太が目を覚ましても、目の前にいるのは一匹のバッタだ。
誰が、それを父親だと思うだろう。
それどころか――。
(翔太なら、虫取り網で捕まえるかもしれない……。)
昨日まで一緒に虫取りへ行こうと誘ってくれていた息子に、今度は自分が捕まえられるかもしれない。
そう思うと、体がぶるっと震えた。
ぐう……。
不意に、お腹の奥がきゅっと縮む。
今まで感じたことのない、激しい空腹だった。
頭の中は、食べ物のことでいっぱいになる。
(お腹が……すいた。)
さっきまで「どうしよう」と考えていたことさえ忘れてしまうほど、その空腹は強烈だった。
とにかく、お腹がすいた。
何か食べなければ。
そう思うよりも早く、幸一の体は自分の意思とは関係なく動き出していた。
ぴょん!
幸一の体は窓のすき間をすり抜け、一気に外へ飛び出した。
「うわあっ!」
足の下からマンションの壁がすっと遠ざかる。
一瞬、体が宙に投げ出されたような感覚に、幸一は思わず目を閉じた。
(落ちる!)そう思った。
けれど、体は地面へ真っ逆さまに落ちることはなかった。
後ろ足を伸ばし、羽がブルっと震えると、風に乗るようにゆっくりと地面へ近づいていく。
幸一は草むらへふわりと降り立った。
顔を上げると、目の前には小さな空き地が広がっていた。
一面にクローバーが生えている。
その姿を見たとたん、幸一の腹がグウっと鳴った。
「クローバーか……。」
そう思った次の瞬間には、もう体が勝手に動いていた。
むしゃ、むしゃ、むしゃ。
恐る恐る草を口に入れる。
(こんなの、本当に食べられるのか……。)
そう思った。
けれど、思っていたような苦さはない。
青臭さも気にならなかった。
気づけば、もう一口。
さらにもう一口。
昨日まで食べたかったごはんも、お肉も、お魚も、不思議と思い浮かばない。
草でも、お腹はちゃんと満たされていく。
(食べられるんだ……。)
幸一は夢中で食べ続けた。
そのとき初めて、自分が本当にトノサマバッタになってしまったのだと実感した。
ようやくお腹がいっぱいになり、幸一は草の上でひと休みした。
「さて……どうしよう。」
ひとりごとが口をつく。
もちろん、人間の言葉にはならない。
ギチ……。
小さな音が鳴っただけだった。
(朝のうちに終わらせたい仕事があったんだけどな……。)
そんなことを考えていると、
ふいに背中がゾクっとした。
草むらの向こうで、黒い影がわずかに動いた。
幸一は息をのむ。
その影は、まっすぐこちらへ近づいてきていた。
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