第15話 激重な少女たち 準備万端な二人

 イリア様が、おかしい。


 私が言うのだから間違いない。

 一日のうち、大半をイリア様と過ごす時間にあてているこの私が言うのだから、それはまず間違いない。


「セレナさん?」


 イリア様の目の動きがおかしい。


 あの日から、明らかにおかしくなった。


「セレナさん?」


 私たちが聖女様にお呼ばれした日。

 港町のレストラン、ルナ・マーレで食事を共にしたあの日から。


 イリア様は何もない場所を見つめていることが多くなった。


 私が話しかけてもどこか上の空で……。


「あの……」


 水音。


 蛇口から流れていく水。


 私の手元で、陶器の触れ合う音がする。


「大丈夫ですか?」


 なんで?

 どうして?


「……なんでですか?」


 返事をする。


「な、なんでって、そのお皿、もう十分くらい洗っていますよ?」

「……」


 私は手元を見る。


 十分も私の手の中で洗われたお皿。


 ぴっかぴか。


「ああ……ちょっと汚れが気になりましたので」


 私は静かにそう言うと、皿の水気を切った。


「なんか最近おかしいよ? 大丈夫?」


 心配そうな顔をした少女が、私のことを覗き込む。


「大丈夫です。心配かけてすみません」


 丘の上の教会の、小さな厨房。


 静かな朝食の後の、厨房での些細な一コマ。


「そう? ならいいけど……」


 私と同じ服を着た修道女の娘は、微笑んで言った。


「何かあったら言ってくださいね。私たちは家族なのですから」


 私も微笑み返す。


 家族……。


「ええ、ありがとう」


 でもね、家族にも言えないことって、あると思いませんか?


 私が気もそぞろに一枚の皿を洗っている間に、ほとんど終わってしまった炊事を眺めて。


 少しの罪悪感を抱きながら。


「では、私は告解室へ行って参ります」


 神よ、もし祈りが届くのなら、あなたに打ち明けても良いでしょうか?


 ……愛する人が、私の目を見てくれません。


 あの日から、ずっと。


 なんでですか?

 どうしてですか?


 どうしてどうしてどうして。


「セレナさん」


 厨房を出る私に、少女から声がかけられる。


「頑張ってください」

「……何を言っているのかよく分かりませんが、まあ、頑張ってきます」


 えっと。


 ……私って、そんなに分かりやすいのでしょうか……?




 ◇ ◇ ◇




「イリア様、今日の相談者リストです」

「あ、ありがとうございます」

「相変わらずの面々ですね」

「そ、そうですねえ」


 ……。


「一旦休憩ですね。良かったら紅茶をどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

「良かったら、このクッキーなども。イリア様ほど上手くできたかは分かりませんが……」

「お、美味しそうですね、ありがたくいただきます」


 ……。


「昼食の時間です、イリア様」

「い、行きましょう」


 ……。


「お疲れ様です、次の方で今日は終わりです」

「……」

「イリア様?」

「……あ、はい! そうなのですね、頑張ります!」


 ……。

 …………。


 神よ、これはなんですか?


 ずっと目を合わせてくれない。


 ずーっと。


 ……。


「イリア様、今日も一日お疲れ様でした。これで本日の相談は終了です」

「あ、ありがとう」


 最後の相談者を見送った私は、告解室のドアを開けて、イリア様の隣に立った。


「今では、何だかすっかり恋愛相談所ですね」

「本当ですね……」


 私は、イリア様に微笑みかける。


「あれから、体調大丈夫ですか? 寝不足とのことでしたが……」

「ああ、それは……」


 イリア様が言い淀んだ。


「……大丈夫ですよ、最近はよく寝られていますから……」


 嘘だ。


 私には分かります。


 これは、五時間しか寝ていない顔です。

 何度か、会話で検証済みですから……。


「イリア様、失礼します」


 イリア様に近づく。


「顔を、よく見せてください」


 私も薬屋の娘ですから。

 体調の良し悪しは、見た目でなんとなく分かったりするのです。


「あ、あの……?」


 また、これだ。


「だ、大丈夫ですから……!」


 また目を逸らされる。

 今度は顔ごと、逸らされてしまう。


「向こうを見ないでください」


 私はイリア様の向いた先に回り込む。


「やはり、体調が悪いのではないですか?」


 額で、イリア様の熱を測る。


 ほんのり熱い。


 やっぱり、風邪……でしょうか。


「イリア様、熱が少しあるかもしれません」


 私はイリア様を見下ろしながら言う。


「そ、そうでしょうか……?」

「はい、間違いなく」


 この顔の熱さ、間違いない。

 確実に微熱以上はある。


「今日はもう、お休みにしましょう。この後は大した仕事も残っていませんし、大事をとった方がいいです」

「で、でも、まだやり残した仕事が……」

「イリア様」


 私はイリア様に手を差し出す。


「少しくらい、構いませんよ。一緒にお部屋に行きましょう」

「う……」


 そして、私はまた目を逸らされてしまう。


 もう。


 なんなのですか、いったい。


 じれったくて、おかしくなりそうです。


「イリア様!」

「ひゃ、はい!?」

「……す、すみません、つい大声を」

「い、いいえ……」


 私は、一度目をつぶると、イリア様に向けて言った。


「それではこれでどうでしょうか」


 私は、机に置いていた相談者リストに、何か書き加えると、イリア様に見せた。


「お疲れのところ申し訳ありません。もう一人相談者が増えたことを伝え忘れていました」


『相談者、セレナ・ヴァレンティア』


「イリア様に相談があります。続きは、イリア様のお部屋で」


 これなら、お休みも『仕事』ですから。


「うう……」


 イリア様が、何か唸っている。


「これでは、逃げられないではないですか……」

「逃げられない?」

「ああ、いえ、なんでもありません」


 逃げられない?


 私は首を傾げる。


 でも、まあその通りですね。


 私は次の言葉を続ける。


「イリア様がお眠りになるその時まで、今日はずっとそばにいますから」


 ずっと一緒ですから。


 イリア様がまた私と目を合わせてくれるまで、ずっとそばにいますので。


「……」

「イリア様?」


 イリア様がちらりと私を見た。


 潤んだ、瞳。


「よ、よろしくお願いします」


 午後三時の鐘の音。

 壁にかけられた古い時計の音。


 ちょっと昔にもあったような、そんな些細なデジャヴ。


 焦らされた私の心が、痛いくらいに高鳴った。


「はい、逃しはしませんので」


 胸が痛い。

 本当に痛い。


 なんでだろう?


 しばらく私は考えた。


 ……神よ、これって、もしかして。


 お泊まりになってしまっていませんか?


 落ち着きなさい、私。

 やりすぎです。




 ◇ ◇ ◇




 まだ仕事があると言って聞かないイリア様の隣で、一緒に仕事を終わらせた後、一緒に夕食を食べ、少しの間別れた。


 その間に、イリア様の部屋に向かう準備をした。


 忘れ物をしても、すぐに取りに戻れる距離ですが、念のため。


 夜七時を回る頃、私はイリア様の部屋のドアをノックした。


「セレナです、相談に参りました」


 中で、ばたばたと音がした。


「……どうぞ、お入りになってください」

「……失礼します」


 ドアノブを回す。


 久しぶりに入る、イリア様のお部屋。


 音もなくドアが開いていく。


 大丈夫です、これは、相談ですから。


 相談という名の、ただの看病。




 準備万端な二人が、そこに立っていた。


 私も、イリア様の目を見ることができなかった。

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