第5話 まさかの二人きり


 十月十日。茉子は父が予約したという麻布の個室居酒屋まで歩いていた。父は定年まで麻布で働いていて、この店にもよく来ていたらしい。

 

 しかし、両親は来られなくなった。この日に限って、父も母も熱を出したというのだ。本当か疑ってしまった茉子は実家に電話をかけたが、電話口から聞こえる父の声は辛そうだった。

 

「申し訳ない……。その青年にはよろしく言っておいてくれ……うぅ……ごほごほっ」

 そう言って父は激しく咳をすると、電話を切った。


 まさか二人きりになるなんて。何を話せばいいのかわからないのに。


 茉子は歩きながら『今日話すこと』を考えた。しがない派遣社員の私の日常なんか話したところで面白くはないから、彼のフランス生活について話題を振ろう。うん、それでいい。


 そう思って個室居酒屋の前に着くと、ちょうど入り口の前に、帽子を被った青年が立っていた。

 

「ゆいとさん、ですか?」

 茉子は横から声をかけた。すると、彼はゆっくりと振り向いた。今日は眼鏡をかけていた。

 

「茉子さん、お久しぶりです。ご両親は?」

 眼鏡から覗く柔和な目が、少し丸くなった。

 

「父も母も、発熱で来られなくなりました。ごめんなさい、せっかく来てくれたのに」

 

「あ、そうなんだ……」

 

「キャンセル……しますか? 私と二人で話しても……」

 茉子は腕時計を見つめた。十八時。

 

「いえ。せっかく予約してくださったんだから、中に入りましょうよ」

 

 彼はそう言って、個室居酒屋のドアを開けた。中には入らず、「どうぞ」と茉子をエスコートしてくる。海外生活が長いからか、彼の所作はいちいちスマートだった。


 茉子と彼は広めの個室に通された。掘りごたつで、落ち着いた雰囲気の部屋だった。壺や掛け軸が飾られていて、庭からは日本庭園が見える。


「茉子さんは何か飲まれますか?」

 彼はドリンクのメニュー表を差し出した。

 

「えっと……ウーロン茶にしようかな」

 

「じゃあ、俺もそれにします」

 

「ゆいとさんは飲まないんですか?」

 

「車で来ているので」

 ゆいとさんは店員さんにウーロン茶を注文すると、目を伏せながらおしぼりを受け取っていた。


 店員さんがいなくなり、部屋の中は茉子と彼だけになった。

 

「……フランスの生活はどうですか」

 茉子は用意しておいた質問を聞いた。

 

「楽しいです。ご飯は美味しいし、景色も素敵です」

 まるで観光ガイドの受け答えみたいだった。

 

「そうなんですね。えっと……」

 茉子は彼の目を見れず、眼鏡のフレームを見た。黒縁で、よく似合っていた。

 

「目が……悪いんですか?」

 

「いえ。伊達メガネです」

 

「あぁ、そう……」

 

 海外にいると伊達メガネが普通なのか。茉子はそのまま、彼の後ろに見える掛け軸を見つめた。文字が書かれているが、達筆すぎて文字は読めない。

 

「あれ……なんて書いてあるんですかね」

 

「え? あぁ、これ?」

 彼は後ろを向き、掛け軸を指さした。

 

「ははっ……! 確かに、なんて書いてあるんだろう」

 

 え……? なんだその笑顔は。茉子の心臓は止まりそうになる。掛け軸ごときで、子どもみたいに笑うなんて。

 

「見てください、くずし字学習アプリで調べる方法があるみたいですっ」

 

 彼はスマホで調べたのか、スマホを見ながら笑いがおさまらないようだった。

 

「ほんと面白いなぁ……」

 

 彼はおしぼりで目頭を押さえていた。え、泣くほど笑う?

 

「ごめんなさい、私が掛け軸なんて言ったから……」

 

「いえいえ。なんか、おかしくて」

 

「すみません、変なことを言って……」

 茉子の顔はみるみる赤くなる。この感覚は、ニースのレストランと同じだ。穴があったら入りたい。


 そのタイミングで、店員さんが襖を開けてウーロン茶を運んできた。父が予約したというコース料理も運ばれてくる。綺麗な色をした前菜だ。

 

「あの……」

 茉子はテーブルの上のお品書きを見た。これは居酒屋というより、料亭のメニューだ。父は料亭に仕事仲間と行くはずがないのに、何で……。

 

「ここ、高そうじゃないですか? ちょっと父に連絡してみます」

 

「どうしてです?」

 彼は前菜をスマートに食べていた。

 

「お金が払えるかわかりません。まったくもう、父はどういうつもりだったのか……」

 

 茉子は前菜に手を付ける。この前菜はいくらになるのか、考えると手が震える。

 

「あぁ、お金なら僕が払いますよ?」

 

「え……?」

 

「女性と二人で食事してるんだから。金額は気にしないでください。多分、払えます」 

 いつの間にか、彼は前菜を食べきっていた。

 

「ゆいとさん……お金持ちなんですか?」

 

 そう言いながら、茉子は頭の中で整理した。フランスで働き、お金も持っている。この人、実業家か何か?

 

「うーん……お金持ちではないかな」

 彼はウーロン茶も飲み干していた。

 

「え、それじゃあ、支払いで無理させてるってことですよね? ごめんなさい、すぐに父に連絡しますから

!」

 

 茉子は頭を下げた。こんな高そうな店を予約した父に非がある。父に払ってもらおう。

 

「茉子さん」 

 その時、彼は穏やかな笑顔をぶつけてきた。

 

「……そんなことより、茉子さんの話が聞きたいです」

 

「私の?」

 変な声が出た。

 

「茉子さんは、普段は何をされているんですか?」

 

「な、何をって……」

 茉子はウーロン茶を一気飲みした。胃の中に冷たい飲み物が降りてきて、変な感じがした。

 

「ただの派遣社員ですよ。今日もデータ入力とか、発注とか……」

 

 うわあああ。私はこんなつまらない話をしに来たんじゃないんだよ。

 

「じゃあ……趣味は?」

 

「え……趣味?」

 

「はい」

 彼は真っ直ぐに茉子を見つめていた。茉子は空になったグラスの氷を見つめた。

 

「……料理とか、お菓子作りをしています」

 

「へぇ。お菓子が好きなんですか?」

 

「えぇ、まぁ……。いつも、スマホでお菓子作りのレシピとか見てます。美味しいお店も調べたり、とか……。フランスでも、本場のマカロンを食べましたよ」

 

 耐えきれなくなり、茉子は氷を口に含ませた。その様子を見た彼が「あ、食べるんだ」と言って笑った。

 

「ドラマとか、映画とか、スポーツとかは見ないんですか?」

 彼は茉子が興味のないものたちを挙げた。

 

「どれも見ません。特に、スポーツは本当に見ないです」

 

「どうして?」

 

「ルールが、わからないから……」

 茉子は襖を見た。店員さん、食べ終わったんだから早く次のを持ってきてよ……。

 

「なるほど、そういうことか」

 彼はそうつぶやくと、視線を茉子と同じ襖に向けていた。

 

「来ませんね、料理」

 

「はい……」

 

 少し視線をずらすと、彼と目があった。茉子はすぐに襖の絵柄を見た。襖を見ているはずなのに、瞬きが早くなってしまう。

 

「じっと見ていたら、襖がお菓子に見えてきました」

 彼の冗談すら、茉子の赤い耳には届かなかった。

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