第23話

危篤となった糠助(ぬかすけ)は、見舞いに来た犬塚信乃(いぬづか・しの)へ、誰にも話さなかった秘密を明かした。


糠助はもともと安房国(あわのくに)洲崎(すさき)の農民で、農業と漁をして暮らしていた。


長禄三年十月、先妻との間に玄吉(げんきち)という男の子が生まれた。しかし妻は産後の回復が悪く、乳も出ない。玄吉も栄養を得られず病弱になった。


二人の看病で仕事ができず、家の物を売り、借金が増え、妻も亡くなった。


追いつめられた糠助は、役行者(えんのぎょうじゃ)の霊地として漁を禁じられていた洲崎の海へ、夜ひそかに網を入れた。魚が集まる禁漁地なら、一晩で幼い子を養う金を作れると考えた。


すぐ捕らえられ、水へ沈めて処刑する柴漬(ふしづけ)の刑を言い渡された。


その年は、里見家の奥方五十子(いさらご)と伏姫(ふせひめ)の三回忌に当たり、大赦が行われた。糠助は死罪を許されたが、安房から追放された。


二歳の玄吉を背負い、上総から下総の行徳(ぎょうとこ)まで歩いた。しかし物乞いにも慣れず、親子とも飢えて力尽きた。


糠助が玄吉を抱いて橋から身を投げようとしたとき、通りかかった武家の飛脚が止めた。


その男は足利成氏(あしかが・しげうじ)の家臣だった。四十歳を過ぎても子が育たず、夫婦で神仏へ祈り、人の苦しみを救おうと誓っていた。


事情を聞くと、玄吉を養子にして大切に育てると申し出た。さらに糠助へ旅費と弁当を与えた。


絶望の中で仏に会ったように思った糠助は、玄吉を託した。あまりに急な別れで、養父の名を聞かず、自分も名乗らなかった。


それが親子の最後となった。糠助は大塚へ流れ着き、農家へ婿入りした。その後も貧しいままだったが、二度と欲に負けまいと正直に生き、十八年間、役行者へ罪を詫び、玄吉の無事を祈り続けた。


## 右頬の痣


糠助は信乃へ、玄吉を見分ける印を伝えた。玄吉の右の頬先には、生まれつき牡丹の花に似た痣がある。


生後七日の祝いに鯛を料理すると、腹の中から白い珠が出た。中の模様は「信」の字に見えた。


珠は初毛と臍の緒とともに守り袋へ入れ、母が「長禄三年十月二十日生まれ、安房の糠助の子玄吉」と書きつけた。


玄吉がその袋を失っていなければ、親子を証明できる。


養父は成氏の家臣である。成氏はいま千葉城にいるという噂なので、玄吉も下総国(しもうさのくに)千葉にいるかもしれない。


「いつか成氏様のもとへ行くことがあれば、玄吉を捜して、この話を伝えてください」


信乃は息をのんだ。


自分には「孝」の珠と左腕の牡丹の痣がある。義兄弟の犬川荘助(いぬかわ・そうすけ)には「義」の珠と背中の痣がある。玄吉も「信」の珠と頬の痣を持つなら、同じ因縁で結ばれた者に違いない。


「まだ会わない兄のように思えます。機会があれば下総へ行き、必ず捜します」


信乃が約束すると、糠助は手を合わせて拝んだ。


*


翌朝、糠助は息を引き取った。信乃は養父の蟇六を説得して葬儀費用を出させ、残った家と田の代金を寺へ寄進し、糠助夫婦と先祖の供養にあてた。


村人は、それが信乃の提案だと知っていた。


「信乃殿が村長になれば、私たちを子のように守る父母となるだろう」


人々は早い代替わりを望んだ。


## 美男の浪人


糠助の旧宅を買ったのは、網乾左母二郎(あぼし・さもじろう)という二十五歳の浪人だった。


以前は扇谷上杉定正(おうぎがやつ・うえすぎ・さだまさ)の近習だった。話がうまく、主君に重く用いられたが、その立場で同僚を陥れ、悪事を訴えられて追放された。


左母二郎は色白の美男で、書が巧みだった。流行歌、小鼓、一節切(ひとよぎり)という縦笛など、さまざまな芸も身につけていた。


大塚で子どもへ読み書きを教え、娘たちには歌や舞も教えた。女性との噂が絶えなかったが、亀篠(かめざさ)が芸を気に入り、夫の大塚蟇六(おおつか・ひくろく)へ取りなした。


左母二郎は浜路(はまじ)にも言い寄り、恋文を渡そうとした。浜路は手にも触れず、厳しく拒絶した。その後は左母二郎が来るたびに避けた。


信乃とは親が決めた仲でも、まだ正式な夫婦ではないため、親しく話すことさえ控えている。そんな浜路にとって、軽薄な男との噂は耐えられない恥だった。


## 酔客の宴


亀篠の考えは逆だった。左母二郎は、鎌倉にいたころ五百貫の禄を得た近習の筆頭で、同僚の嫉妬と讒言によって追放されたが、近く呼び戻される内意がある、と自分で語っていた。


亀篠はその話を信じた。復職すれば上杉家の有力者となる。その前に浜路の婿にすれば、大きな利益を得られる。


さらに浜路を左母二郎へなびかせれば、信乃を諦めさせられる。いずれ信乃を殺すとき、浜路が夫として慕っていては争いの種になる。


左母二郎も浜路を手に入れるため、蟇六夫婦へ徹底してへつらった。


## 陣代を迎えた酒宴


翌年五月、新しい陣代となった簸上宮六(ひかみ・きゅうろく)が、部下の軍木五倍二(ぬるで・ごばいじ)、卒川庵八(いさかわ・いおはち)らと村を巡察し、蟇六の屋敷へ泊まった。


蟇六は料理、酒、賄賂まで用意した。亀篠は庚申待ち(こうしんまち)という夜通し起きて過ごす行事にかこつけ、左母二郎を呼んで音楽の宴を開いた。


浜路には派手な衣を着せ、客へ酒をつがせ、筑紫琴(つくしごと)を弾かせた。左母二郎には艶っぽい歌を歌わせた。


浜路は見知らぬ酔客からなれなれしく話しかけられ、左母二郎と並んで芸を見せることを恥じた。親へ逆らえず一曲だけ奏でると、宮六たちは品のない様子で褒め騒いだ。


浜路は怒りと恥ずかしさに耐えられず、騒ぎに紛れて席を立った。


信乃は宴へ出ず、一人で兵法書を読んでいた。蟇六も陣代へ信乃を紹介しなかった。


亀篠は世間の噂も村人の反発も気にせず、左母二郎を繰り返し屋敷へ招いた。左母二郎も呼ばれれば必ず来て、蟇六へ低く頭を下げた。


夫婦は、へつらわれる心地よさに喜び、左母二郎を信頼するようになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る