禁忌の譜

をはち

禁忌の譜

雨の夜、古い木造アパートの二階の一室で、横井奏太郎は古びた木箱を開けた。埃っぽい湿った匂いが立ち上り、中から現れたのは一枚の黄ばんだ楽譜だった。


墨で記された複雑で執拗な旋律の連なり。タイトルはない。ただ、紙の端に薄れかけた文字で「禁忌」とだけ記されている。


奏太郎は大学で民俗音楽を研究する大学院生だった。古書店で見つけたこの一枚の紙に、奇妙なまでに魅せられ、持ち帰っていた。


江戸末期のある旗本の屋敷から出たと聞かされたが、詳細は定かではない。


試しに部屋にあった古い鍵盤楽器で音を立ててみると、低く重い響きが部屋の空気を震わせた。その瞬間、胸の奥に得体の知れないざわめきが広がった。


その夜から、夢を見るようになった。霧に包まれた古い城郭。苔むした石垣に松明の炎が揺れ、黒い甲冑の武士たちが血に濡れた刀を構えて立つ。


遠くで太鼓の音が響き渡る。夢の中の奏太郎は、その中心に立っていた。手に持つのは、一本の横笛。


目覚めると、枕元に楽譜が落ちていた。昨夜、確かに机の上に置いたはずだった。研究室で同僚に話すと、教授は顔色を変えた。


「その譜、どこで手に入れた? 似たような話は昔からある。決して吹いてはならない曲だという。


城が落ちる前夜、ある侍が禁じられた旋律を奏で、すべてを狂わせたという伝承だ…」


奏太郎は笑って聞き流した。迷信だ、と。


しかし、異変は静かに、確実に始まった。アパートの住人たちが夜中に、低くうねるような笛の音を聞くようになった。


音は奏太郎の部屋から漏れているという。だが当の本人には、自覚がない。ただ頭の奥で、旋律が耳鳴りのように繰り返されるだけだった。


鏡に映る自分の顔が、時折、別人のように見えた。蒼白い顔に落ち窪んだ目、微かに動く唇。まるで誰かに操られる人形のように。


ある激しい雨の夜、奏太郎は我を忘れた。楽譜を手に取り、指が自然に動き、笛の代わりに口で旋律を囁き始めた。低く、切なく、しかしどこか甘美な調べ。


部屋の空気が歪んだ。壁が波打ち、床が呼吸するような感覚。外の雨音が、遠い戦場の叫び声に変わる。視界に幻影が浮かび上がった。


炎に包まれる城。女たちの悲鳴。侍たちが次々と倒れ、血の海が広がる。最後に、城主の首が落ちる瞬間――すべてが、その旋律とともに崩れ落ちていく。


奏太郎は殿と運命を共にするように、脇差しの代わりに手にした包丁で己の腹を掻き切り、喉を一突きした。


翌朝、アパートは雨のおかげで燃え広がることなく、住人たちは無事だった。


だが奏太郎の部屋だけは激しく焼け落ち、黒く炭化した死体には、深々と包丁が突き刺さったままだった。


その夜以来、雨の降るたび、燃え落ちたあの部屋で、誰かが禁忌の譜をなぞっている気配がするのだった。


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禁忌の譜 をはち @kaginoo8

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