#30 無重力の関係

『こちらヲッチ号。レーザー回線接続完了。以後、グランダ市第四宇宙港の管制に従う』


 ナービの行う通信が、九インチほどのモバイルモニターから流れる。背後には、宇宙への扉となる、グランダ市の宇宙港があり、ガイドとしてチカチカと緑の光が点滅していた。


 そんな光景を、セイトは無重力ブロックを流れながら見る。ノービードまでは三十万キロと少し。決して遠い距離ではない。秒速十五キロで飛び続ければ、理論上五時間半で到達する。


(本当は加速と減速の時間があるからもう少しかかるけど……)


 速度を維持したまま月面都市に接近したとて、その速度を殺さなければ地表に叩きつけられ、粉々となるだけだろう。加速するということは、減速にもエネルギーを使うということなのだ。


 ポスン、と彼の後頭部が壁のクッションに沈んだ。


『月面との相対速度、秒速千二百メートル。周回軌道に入った。以降、ローテーションに従って警戒任務を行う』


 デンド・ファミリーがいつ動くか、と考えながら、彼の視線は天井の照明に向いた。グランダの薄暗い光ではなく、ホテルで見たような、煌々とした灯り。


「セイト、通信って聞いてて楽しい?」


 その彼に、ニコが飛んだ。ふわりと浮いて、天井に触れて彼と高度を合わせる。はたり、揺らめいたTシャツの緩い胸元から、微かな膨らみが覗く。彼はモニターに目を戻した。


「ハイスクールってさ、国際感覚を養うだなんだ、って言って色んな言葉のニュースを流すんだ。だから、その癖で何か聞いてないと落ち着かなくて」


 ノービードの海で再会した幼馴染の顔が、彼の脳裏でフラッシュバックする。


「銀河標準語がわかれば、どこでも困らないと思う」

「そりゃあ、パイロットだとか、船乗りだとか、教育水準の高い所ならそうだけどさ」


 牛乳片手のニコが、彼の隣で、クッションにぶつかった。


「田舎の星……というか、惑星の中でも、田舎の方に行くと土着の言語しか話せない人って言うのはいるんだ。だから、マルチリンガルにならないと生きていけない」

「ノービードでも、そうなの?」

「そうだね。ノービード一つとっても、銀河標準歴六百年の調査じゃ、大体五千の言語がある、って言われてる」

「ウェブとレビトン通信が銀河系を繋いでも、言葉は一つにならないの?」


 くすり、セイトは笑う。馬鹿にされたか、と感じたニコの顔が、微かに怒りを見せた。少なくとも、セイトにはそう見えた。


「だって、エイエンズ銀河の暦が統一されたのが六百年前だよ。それ以前から、星系単位のインターネットは当たり前に使われていた。でも、惑星レベルでの言語統一すら起こらなかった」


 ニコの手が、彼の指を包んだ。


「六百年経っても、世界は一つの勢力に纏まらない。言葉なんて、もっと纏まらないよ」


 彼のモニターに、エイエンズ銀河の星図が映る。人類が到達したエリアの端から端まで、凡そ一万三千光年。レビトンジャンプがなければ、人間なんぞは銀河の片隅の惑星で子を産み、育て、死に、そのサイクルの中で逼塞していただろう。


「セイトは、子供のこと好き?」


 思考を読んだのか、突拍子もない思い付きか。彼は詮索することなく言葉を組み立てる。


「孤児院にいたからさ、年下の面倒を見ることは多かった。そういう意味じゃ、好きなのかもしれない。俺だってまだまだガキだけど」


 ニコの手が、セイトの脇腹を撫でた。


「じゃあ、私は? セイトの中で、私は子供?」


 百四十センチの体が、セイトの体にピタリと張り付く。


「……何かあった?」


 まずい状況だ、と思う彼の口に、ニコの唇が重なった。入り込む舌。数十秒の接吻の後、彼はやっと呼吸が叶った。


 が、何かが好転することもなく、むしろ、事態は最悪の方向に動き出す。ニコの指先が、やけに湿度を持って彼の体をなぞるのだ。


「ニコ、やめよう」


 非常に、危険だ。


「何に影響されたかは知らないけど、こういうのは運命共同体とすることだよ」

「セイトと私の運命は一つ。だって、同じ機体に乗ってる。私無しでセイトは戦えないし、セイト無しで私は生きられない」


 理路整然とした論破を前に、彼の喉から苦しい、もごもごとした音が漏れる。


「だから、私はセイトとしたい。一つになりたい」

「やめてよ、彼女がいたこともないんだし……」


 ニコの体など、セイトにしてみれば簡単に振りほどける、紙人形に過ぎない。だが、それ故に振りほどけないのだ。万が一怪我をさせれば、後悔という言葉では済まされないだろう。


「その、マフィアでこういうことをさせられていたなら、やめてくれ。俺はそんな簡単に体を許したくない。前のキスだって、そういうことなんだろ?」

「違うよ、セイト」


 ニコの白く細い指が、セイトの顔を掴む。また、キスが行われた。最中、彼女の体は、セイトの胸へ擦り付けるように当てられる。


「ヘルトのストレージで読んだの。キスとか、セックスとか、そういうことをする男女は仲良くなれるって」

「……ハッキングした?」

「少しアクセスしただけ。ハッキングって言うほどじゃない。ほとんどセキュリティかかってなかったし」

「は?」


 一文字の発音は、セイトのものではなかった。扉の傍、一人、茶色い肌の女が発したのだ。


「ヘルト、本の通りにしてもセイトは仲良くしてくれない。なんで?」

「いや、ボクの端末にアクセスして漫画読んだの? あれ十八禁だからニコは読んじゃダメなのに」

「端末じゃない。中央サーバーの、ヘルトに割り当てられた領域に入り込んだ」

「結局ダメじゃん!」


 中央サーバーに成人向け漫画を置くなよ、とセイトは言ってやりたいが、完全に体重を預けてきたニコを受け止めることで一杯一杯だった。


「でも、あの漫画は嘘なの? 男の人は、歓んで女の人を受け入れてた」

「エロ漫画はファンタジー! いい? パイロットと感応者がデキちゃうってのはよくあることだけど、そういうことするのはもっと大人になってから! 子供の恋愛なんて、一時の熱でしかないんだからさ」


 ニコの動かない表情に、彼は見上げられる。


「じゃあ、エイダーとヘルトはどういう関係なの?」

「ボク? ボクとエイダーは健全な関係だよ。エイダーって馬鹿真面目で。十年経っても、死んだ奥さんに尽くしてるんだからさ」

「死んだ人にどう尽くすの?」

「エイダーは、もう誰も抱かないって決めたんだよ。それが、奥さんを裏切らない唯一の方法だって思ってる」


 急転直下したムードに包まれ、彼は気圧されたような形で黙る。


「ま、保育園に行くまでの間働かなくても済むくらい稼いでから考えなよ。しっかり成長して、自分で判断できるようになる、っていうのも必須の条件だけどさ」

「そういうことだから、ニコ。俺たちにはまだ早いよ」


 突き放すこともできず、彼の腕はゆっくりとニコの体を押し返すのみ。


「セイトは、したい?」

「しちゃいけない。責任を持てるくらい立派な人間じゃない」


 その返答に満足したか否か。彼に答えは出せなかったが、ニコはクッションを蹴って扉へと流れた。


「セイト、牛乳取ってくる。待ってて」


 プシュン、とスライドドアが空気圧で動いた。


「さて、セイト」


 ヘルトの、赤い入れ墨が入った顔。


「これはアドバイスなんだけど、無重力ですると色々飛び散るから、ちゃんと重力ブロックでやった方がいいらしい」

「宇宙船じゃしませんよ……」


 苦笑いさえできない呆れ具合で、セイトはそう返した。ニコがもう一パック持ってくるまでの数分。腕を組んだ姿勢で、彼はふわふわと無重力ブロックを漂っていた。


『天城より入電』


 モバイルモニターから、少しピリッとした声が聞こえてくる。


『接近する所属不明機を確認したそうだ。リーダー、リーベルを出させるか?』

『こっちの方が近いんだろ? なら、セイトたちに行かせるのが筋だな』


 会話の直後、警報が鳴り響いた。


『全船へ通達! スクランブル! リーベルは発進せよ!』


 待ち構えていたセイトは、近くの壁を使って、扉を掴む。


「ヘルトさん」


 されど、開ける前に立ち止まった。


「後詰の用意を」

「あいあいさー」


 重力ブロックに飛び出ると、ニコとぶつかりそうになった。


「着替えてるかと思ったよ」


 エレベーターの中で、彼は落ち着いた声音を出す。


「一緒に行きたかったから」


 出撃までは、十分とかからない。二人が見たのは、赤に率いられる、水色の群れだった。

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