第20話 13年後の未来
頬に柔らかいものが何度も押しつけられ、俺はゆっくりと目を開けた。
「パパ、起きてー。朝だよー」
ぼんやりした視界の中央に、娘の顔があった。
寝ている俺の腹へ跨がり、両手で頬を挟んでいる。
まだ4歳だというのに、毎朝これだけは容赦がない。
「咲良……今日は休みなんだから、もう少し寝かせてくれよ」
「おなかすいた」
「ママを起こしてきて」
「ママ、起きなかった」
「パパも今まで起きてなかったよ」
隣へ顔を向ける。
紗理奈は布団を頭まで被り、こちらへ背中を向けていた。
咲良に起こされた気配すらない。高校生の頃は朝に強い方だったはずなのに、社会人になってからは、休日だけ別人のように寝るようになった。
「紗理奈、起きてるだろ」
「起きてないよー」
「普通に返事してるじゃん」
「寝言です」
「随分はっきりした寝言だな」
「寝言に返事すると、眠ってる人が帰ってこられなくなるんだよ」
「都合のいい迷信を使うなよ」
布団の中から伸びてきた手が、俺の肩を押した。
「ほら、咲良がお腹空いたって。パパに朝ご飯作ってもらおうねー」
「昨日、紗理奈が作るって言ってなかった?」
「証拠は?」
「俺が聞いてる」
「証人が1人だけなので証拠不十分です」
「何だよ、その理屈」
俺たちが言い合っている間も、咲良は俺の腹の上で身体を揺らしている。
「パパ、フレンチトースト」
「昨日も食べただろ」
「きょうも食べる」
「他のものにしない?」
「やだ」
「そこまで気に入ったものを毎日食べたがるところ、ママにそっくりだな」
高校を卒業してから13年。
俺と紗理奈は31歳になり、結婚して6年が経っていた。
そして4年前に生まれたのが、今も俺の上から退こうとしない娘の咲良だ。
髪や目元は紗理奈によく似ている。性格も今のところ母親寄りで、一度こうすると決めたら、俺が何を言っても簡単には曲げない。
「分かったから、先に降りて」
「フレンチトースト?」
「作るよ」
「やったー!」
咲良は勢いよく俺から降りると、寝室の扉へ向かって走っていった。
「廊下は走るなよ」
「はーい!」
返事だけは素直だった。
俺もベッドから身体を起こし、隣で丸くなっている紗理奈の布団を少しだけめくる。
「本当に起きないの?」
「今日は湊が作ってくれるんでしょ?」
「俺が作ることは決まったけど、紗理奈も起きろよ」
「完成したら起こして」
「娘より手がかかるな」
「誰の可愛い奥さんに向かって言ってるの?」
紗理奈は目を閉じたまま笑い、俺の腕を引いた。
体勢を崩したところで、頬へ軽く唇が触れる。
「朝ご飯よろしく、旦那さん」
「そうやって誤魔化すの、ずるくない?」
「結婚して何年も経つのに、まだ照れてくれる湊が悪い」
紗理奈は満足したように俺の腕を離し、再び布団へ潜った。
俺は触れられた頬を指先で擦りながら寝室を出る。
結婚して6年、付き合い始めてからなら13年近く経っている。
それでも、何の前触れもなくキスをされれば、今でも多少は意識する。
昔のように顔を真っ赤にして動けなくなることは減ったが、完全に慣れる日はたぶん来ないのだろう。
それを本人に伝えれば、面白がって何度もしてきそうなので黙っているが。
リビングへ入ると、咲良はすでにダイニングテーブルの椅子へ座っていた。
「パパ、おそい」
「まだ1分も経ってないよ」
「おなかぺこぺこ」
「昨日の夜も随分食べてたけどな」
冷蔵庫から卵と牛乳を取り出す。
俺たちが今住んでいるのは、駅から少し離れた場所にある3LDKのマンションだ。
結婚してすぐは、大学時代から暮らしていた小さな部屋に住み続けていた。しかし咲良が生まれ、さすがに手狭になったため、3年前にこの部屋へ引っ越した。
俺は現在、中堅のIT企業で法人向けシステムの営業をしている。
学生時代の俺を知っている人間が聞けば、営業職に就いたことを意外に思うかもしれない。
俺自身、就職活動を始めた頃は、人前で話す仕事だけは避けるつもりだった。
けれど、今の会社の説明会で、営業といっても無理やり商品を売り込むのではなく、相手の困っていることを聞き、それに合ったシステムを提案する仕事だと知った。
誰かの話を聞き、何に悩んでいるのかを考えることなら、俺にもできるかもしれない。
そう思って受けた会社へ運よく採用され、気づけば9年近く働いている。
相変わらず大勢の前で話すのは得意ではない。
それでも、昔のように失敗する前から諦めることはなくなった。
「パパ、卵の殻入ってる」
「入ってないよ」
「ママは入れるよ」
「ママには言うなよ。怒るから」
「ママ、料理へた?」
「少し苦手なだけ」
「湊ー?聞こえてるよー?」
寝室の方から声が飛んでくる。
「起きてるなら手伝ってよ」
「今から起きまーす」
そう答えたものの、出てくる気配はなかった。
食パンを卵液へ浸していると、咲良が椅子の上で足を揺らしながら尋ねる。
「きょう、どこ行くの?」
「パパとママが通ってた高校」
「こうこう?」
「大きいお兄さんとお姉さんが通う学校だよ」
「さくらも行く?」
「今日は文化祭だから、遊びに行くんだ」
「ぶんかさいって何?」
「お店を出したり、劇をしたりするお祭りみたいなもの」
「プリンある?」
「たぶん何か食べるものはあるよ」
「じゃあ行く」
食べ物があると分かれば、それだけで十分らしい。
フライパンへパンを置き、弱火で焼いていく。
咲良には詳しく話していないが、今日は高校の文化祭を見ることだけが目的ではなかった。
昨夜、部屋を片づけていた時、偶然高校時代の写真が入った箱を見つけた。その中には、紗理奈と付き合い始める直前に交換した手紙も残っていた。
それを見つけた咲良が、俺たちが本当の恋人になった場所へ行きたいと言い出したのだ。
白嶺学園の中庭。
紗理奈が偽物の彼女になった場所であり、数か月後、本当の恋人になった場所でもある。
あの頃の俺は、13年後に子供を連れて戻ることになるなど、想像さえしていなかった。
「パパ、焦げてる」
咲良の声で我に返る。
慌ててフレンチトーストを裏返すと、片面が少し濃い色になっていた。
「これくらいなら焦げてないよ」
「くろいよ」
「香ばしいだけ」
「ママに言う」
「何で?」
「プリン」
「口止め料を覚えるには早すぎるだろ」
咲良がどこでそんな交渉を覚えたのか考え、すぐに1人の顔が浮かんだ。
千一だ。
あいつは今でも時々うちへ遊びに来ては、咲良へ余計なことを教えて帰る。
高校卒業後は俺たちと別の大学へ進み、今はゲーム会社で宣伝やイベントの企画に関わっているらしい。
高校時代からゲームばかりしていた千一にとっては、かなり合っている仕事なのだろう。忙しいと文句を言いながらも、仕事の話をする時はいつも楽しそうだった。
「2人ともおはよー」
紗理奈が欠伸をしながらリビングへ入ってくる。
髪はまだ整えておらず、俺の大きめのシャツを部屋着代わりに着ている。
初めて紗理奈の家へ泊まった夜、風呂上がりの姿を見ただけで、まともに顔を見られなかったことを思い出す。
今では毎朝のように見る姿だ。
それでも、寝起きの無防備な紗理奈を可愛いと思う気持ちは、あの頃とあまり変わっていない。
「何?」
視線に気づいた紗理奈が、自分の身体を両腕で隠した。
「またおっぱい見てた?」
「朝から何言ってるんだよ」
「初めて泊まった日も、同じこと言ったよねー」
「13年前のことを蒸し返すなよ」
「その時、ちょっとは見たかったって認めたじゃん」
「咲良の前で話すことじゃないだろ」
「おっぱいって何?」
咲良がすぐに反応する。
「ほら、余計なこと言うから」
「ママが言ったんじゃなくて、パパも言ったよ」
「二人とも言わないの」
咲良は納得していない顔をしていたが、皿へ盛ったフレンチトーストを見た瞬間、興味を失ったようだった。
「いただきます!」
3人で朝食を食べ始める。
紗理奈は一口食べると、少しだけ眉を上げた。
「今日、ちょっと焦げてない?」
「香ばしくしたんだよ」
「パパ、焦げたのママに言わないでって言った」
「咲良」
「プリンくれなかったから」
「子供相手に口止めしようとするからでしょ」
紗理奈は楽しそうに笑いながら、咲良の口元についた粉砂糖を拭った。
現在の紗理奈は、化粧品会社の広報部で働いている。
大学時代、紗理奈はイベント企画を中心に活動するサークルへ入り、学園祭や新入生向けの催しを何度も運営していた。
もともと人と話すことが好きで、誰とでもすぐに打ち解ける。華やかな見た目もあり、サークルへ入って間もなく、男子から何度も誘われていた。
同棲を始めたばかりの俺は、そのたびに落ち着かなくなった。
紗理奈が飲み会へ行くと聞けば、帰りが遅くならないか気になり、知らない男の名前が会話へ出れば、どういう関係なのか考えてしまう。
嫉妬していると正直に言えず、何でもないような顔をした結果、紗理奈から、
「何か言いたいならちゃんと言って」
と怒られたこともあった。
結局、俺が心配するようなことは一度も起こらなかった。
紗理奈は恋人がいることを隠さず、俺が不安そうにしていれば、誰とどこへ行くのかもきちんと話してくれた。
俺も少しずつ、紗理奈を信じることと、不安を我慢して黙り込むことは違うのだと分かるようになった。
そのサークルで広報を担当した経験から、紗理奈は広告や宣伝の仕事に興味を持った。
現在は新商品の発表会やSNSでの宣伝企画を担当している。咲良が生まれたあとは1年ほど休職し、今は勤務時間を少し短くしながら仕事を続けていた。
休日でも新しい広告を見つければ立ち止まり、仕事の参考にすると言って写真を撮る。
高校時代から、人の目を引くことには慣れていた紗理奈らしい仕事だと思う。
「ねえ、今日何着ていこうかな」
朝食を食べながら、紗理奈が尋ねてくる。
「何でもいいんじゃない?」
「母校に久しぶりに行くんだよ? 老けたと思われたくないじゃん」
「誰に思われるんだよ」
「先生とか、後輩とか」
「13年前の卒業生を覚えてる後輩なんかいないよ」
「千一たちも来るんでしょ?」
「そうみたいだな」
昨夜、久しぶりに高校時代のグループへ千一から連絡が来た。
文化祭へ行くなら自分たちも顔を出すという内容だった。
俺は普段、グループの通知をほとんど見ない。今回も紗理奈から教えられるまで気づかなかった。
「玲奈も来るのかな」
紗理奈が何気なく口にする。
「千一が『俺たちも行く』って書いてたから、たぶん一緒なんじゃない?」
「そっか。玲奈と会うのも久しぶりだね」
「最後に会ったの、いつだっけ?」
「去年の年末じゃない? 咲良にクリスマスプレゼント送ってくれた時」
「そんなに経ってたか」
玲奈とは高校卒業後、完全に縁が切れたわけではない。
大学は別々だったが、年に数回は千一も交えて食事をした。最初の頃は互いに何を話せばいいのか分からず、気まずい空気になることも多かった。
けれど、昔の距離へ戻ろうとしなくなってからは、かえって普通に話せるようになった。
玲奈は難関大学へ進学し、卒業後は医療機器を扱う企業の研究職に就いた。
仕事は相当忙しいらしく、直接会う機会は少ない。それでも咲良が生まれた時には病院まで来てくれ、その後も誕生日やクリスマスになると贈り物を送ってくれていた。
「れなちゃん来るの?」
咲良が嬉しそうに顔を上げる。
「たぶんね」
「せんいちおじさんも?」
「お兄さんって呼ばないと、また怒るぞ」
「おじさんだよ」
「それは本人の前で言わないであげて」
紗理奈が笑いながら娘の頭を撫でる。
朝食を終えたあと、出かける準備を始めた。
俺が食器を洗っている間に、紗理奈は咲良の着替えを手伝う。洗面所からは、どの髪飾りをつけるかで言い合う声が聞こえてきた。
「今日はピンクがいいの!」
「服が黄色だから、白の方が可愛いって」
「ピンク!」
「じゃあ、パパに決めてもらう?」
「それはパパが困るからやめてくれ」
洗面所を覗くと、咲良は両手に違う色の髪飾りを持っている。
紗理奈も困ったように俺を見た。
「どっちがいいと思う?」
「咲良が好きな方でいいだろ」
「ほら、ママ。ピンク」
「湊、少しは服との組み合わせも考えてよ」
「4歳なんだから好きなものをつければいいじゃん」
「湊は昔からそういうところ適当だよねー」
「紗理奈が細かすぎるんだよ」
結局、咲良は左右へ一つずつ違う色の髪飾りをつけることになった。
本人は満足そうなので、それでいいと思う。
紗理奈が着替えている間、俺は押し入れから昨日見つけた箱を取り出した。
高校時代の写真や、大学へ入学した頃の書類が詰め込まれている。
俺たちは、高校を卒業した春から同棲を始めた。
約束どおり同じ大学へ進学するため、あの夜から本格的に受験勉強を始めた。
紗理奈は自分の勉強をしながら、俺の苦手な部分を何度も教えてくれた。千一や教師にも助けてもらい、模試の判定は少しずつ上がっていった。
それでも余裕のある受験ではなかった。
紗理奈は最初の試験で合格したが、俺は一度落ちた。
後期日程でも結果が出ず、最後に残った補欠合格の連絡が来たのは、入学手続きを締め切る数日前だった。
電話を切ったあと、紗理奈は俺以上に泣いた。
『これで一緒に行ける』
そう言って抱きついてきた紗理奈の重さと、肩に落ちた涙の感触は、今でも覚えている。
大学の近くに借りたのは、古い1LDKのアパートだった。
家賃を抑えるために選んだ部屋で、壁は薄く、キッチンも狭かった。
最初の数週間は、毎日が旅行のようで楽しかった。
朝起きれば紗理奈がいて、大学から同じ部屋へ帰る。二人で食事を作り、夜遅くまで話しながら課題を進めた。
もちろん、楽しいことばかりではなかった。
家事の分担では何度も揉めた。
紗理奈は脱いだ服をソファへ置き、使った物を元の場所へ戻さない。俺は気になったことをその場で言わず、限界まで溜め込んでから不機嫌になる。
初めて大きな喧嘩をした時は、同じ家にいるのに丸一日口を利かなかった。
夜になっても空気は悪いままで、紗理奈が突然俺の前へ座り、
『このまま寝たら、明日の朝もっと話しづらくなるから。今、全部言って』
と逃げ道を塞いだ。
あの時から、俺たちは不満があればなるべくその日のうちに話すようになった。
完璧にできているわけではない。
今でも俺が黙り込み、紗理奈が強引に聞き出すことはある。反対に、紗理奈が平気なふりをしている時は、俺の方から声をかけられるようになった。
大学を卒業したあとも、しばらく同じアパートで暮らし続けた。
社会人になってからは生活する時間が合わず、朝しか顔を合わせない日もあった。仕事で疲れて帰れば、夕食を作る余裕もなく、二人でコンビニ弁当を食べた夜も多い。
それでも、一人で食べるよりはずっと良かった。
付き合って7年目、俺は紗理奈へ結婚を申し込んだ。
洒落たレストランも、豪華な演出もなかった。
大学時代から暮らしていた部屋で、二人分の洗濯物を畳みながら、この先も一緒に暮らしたいと伝えただけだった。
紗理奈には、
『結婚の申し込みをしながら靴下を畳んでる人、初めて見た』
と笑われた。
それでも最後には泣きながら頷き、畳みかけの服を放り出して抱きついてきた。
その翌年に結婚し、さらに2年後、咲良が生まれた。
「パパ、何見てるの?」
気づけば、咲良が箱の横へしゃがみ込んでいた。
「昔の写真だよ」
「見せて」
咲良を膝の上へ座らせ、大学の入学式で撮った写真を見せる。
真新しいスーツを着た俺と、明るい色のワンピースを着た紗理奈が並んでいた。
「ママ?」
「そうだよ」
「髪ながい」
「今より少し長かったな」
「パパ、ほそい」
「今もそこまで変わってないだろ」
「今の方がおじさん」
「誰に教わったんだ、そんな言葉」
咲良は楽しそうに写真をめくっていく。
同棲していた部屋、大学の文化祭、卒業式、就職した直後、結婚式。
写真を1枚めくるたび、13年分の時間が順番に現れる。
「これ何?」
咲良が箱の奥から、白と桃色の封筒を取り出した。
俺にも見覚えがあった。
高校時代、紗理奈と交換した手紙だった。
「まだ残ってたのか」
「当たり前でしょ」
着替えを終えた紗理奈が、後ろから俺たちの間へ顔を出す。
「捨てるわけないじゃん。私たちが本当の恋人になった時の手紙だよ?」
「ママのおてがみ?」
「そう。ママがパパに好きって書いたの」
「俺の方もあるだろ」
「湊は好きって書いてなかったけどね」
「まだ言うの?」
「一生言うよ」
紗理奈は俺の隣へ座り、咲良の持っていた封筒を受け取った。
「読んで」と咲良が頼む。
「それは駄目」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
「ママ、パパのこと好きだったの?」
「今も大好きだよ」
「咲良の前で普通に言うなよ」
「何で? 本当のことじゃん」
紗理奈が俺の肩へ頭を預ける。
娘の前だからと分かっていても、真正面から言われれば多少は照れる。
「パパもママすき?」
咲良が俺の顔を覗き込む。
ここで誤魔化せば、紗理奈がしばらく根に持つだろう。
「好きだよ」
「小さい」
「声の大きさは関係ないだろ」
「もう一回」
「今はいいだろ」
「ママ、パパはずかしいんだって」
咲良まで楽しそうに笑っている。
どうやら、からかわれる側になることだけは俺に似なかったらしい。
「パパとママ、どこでほんものになったの?」
咲良が封筒を見ながら尋ねた。
俺と紗理奈は顔を見合わせる。
「今日行く学校の中庭だよ」
紗理奈が答える。
「ママが偽物の彼女になったのも、パパが本当に好きって言ってくれたのも、同じ場所」
「にせものって何?」
「恋人じゃないのに、恋人のふりをしてたの」
「なんで?」
「それは少し長い話になるな」
「パパが頼りなかったから、ママが助けてあげたの」
「随分都合よく説明するなよ」
「結果的には助けたでしょ?」
「それは否定しないけど」
咲良はよく分からないまま、白い封筒と桃色の封筒を交互に見ていた。
「そのにわ、見たい」
「だから今日行くんだよ」
「はやく行こう!」
「まだ出かける準備が終わってないだろ」
「さくらは終わったよ」
「パパとママはこれからなの」
咲良は待ち切れないらしく、手紙を箱へ戻すと玄関へ向かって走り出した。
「靴を履くのはまだ早いよ!」
紗理奈が娘を追いかける。
俺は二つの封筒を箱へ戻しかけ、少し考えてから鞄へ入れた。
あの中庭でもう一度読むつもりはない。
ただ、家族になった俺たちが同じ場所へ戻る日に、持っていきたいと思った。
スマートフォンが震える。
高校時代のグループへ、千一からメッセージが届いていた。
『先に学校へ向かってる。俺たちは昼前には着く予定』
短い文章の最後には、玲奈が選んだのだろう、妙に可愛らしいスタンプがついている。
高校生だった頃の俺が見れば、二人が一緒に文化祭へ来るというだけでも驚くだろう。
「湊、早くー!」
玄関から紗理奈の声がする。
「今行くよ」
鞄を肩へ掛け、リビングの電気を消す。
玄関では、咲良が俺の靴を勝手に並べ、紗理奈がその隣で待っていた。
「手、繋いで行こう」
咲良が片方の手を俺へ、もう片方を紗理奈へ差し出す。
俺たちはそれぞれ小さな手を握った。
13年前、紗理奈から差し出された手を掴むことさえ、俺には大きな勇気が必要だった。
今ではその間に咲良がいて、俺たち2人の手を強く握っている。
「それじゃ、行こっか」
紗理奈が笑う。
「ああ」
高校時代、未来のことを考えるのが怖かった俺はもういない。
俺たちは家族になった姿で、全てが始まった場所へ向かうことになった。
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