十五年前の一件は、彼が最後に払った分でした
売店の裏で、バンは樽を洗っていた。
四十を過ぎた男の背中は、剣鬼と呼ばれていた頃の絵姿とは似ていない。絵の方は今でも興行場の壁に貼ってある。客はあれを見て、この男を思い出さない。
「金貨二枚、ありがとうございました」
俺が言うと、バンは手を止めずに答えた。
「返せとは言わん。あれは賭けだ」
「勝ちましたよ」
「知ってる」
俺は、様式の紙をその樽の縁へ置いた。
水が跳ねて、右下の登録年が滲みかけた。バンは布で手を拭いてから、紙を持ち上げた。
三秒見て、また樽へ戻した。
「どこで拾った」
「委員長がくれました。参考までに、と」
「あの狸め」
バンは笑わなかった。
「凪。これは、俺が売った。誰にも騙されてない」
「二十人いたって聞きました。十五年前の召喚は」
「二十人だ」
バンは樽の内側を布でこすった。
「最初の三年で七人死んだ。残った十三人のうち、九人が借金で身動きが取れなくなった。当時は共同基金なんてない。個別債務は個別に潰す以外なかった」
「それで」
「俺の帰還権は、当時いちばん高い値がついた資産だった。剣鬼の帰還権だからな。委員会は喉から手が出るほど欲しがった」
「売ったんですね」
「九人分の債務と、ちょうど同じ額だった」
俺は樽の水を見ていた。
中で光が揺れて、形にならなかった。
「九人は帰ったんですか」
「六人帰った。二人は残ると言った。一人は、金が入る前に死んだ」
バンは布を絞った。
「六人帰したから、いい買い物だった。今もそう思ってる」
「じゃあ、どうして」
俺は言葉を選び損ねた。
「どうして、こんなところで樽を洗ってるんですか」
バンは初めてこちらを見た。
怒っていなかった。それが一番きつかった。
「帰還権を売った勇者は、帰れない」
彼は言った。
「帰れない勇者は、興行の顔になるしかない。借金があるからじゃない。使い道が、それしか残らないからだ」
◇
その夜、俺は登録簿を借りた。
リゼッタが立ち会った。彼女は俺が数字を読んでいる間、一度も口を挟まなかった。
「様式の初回使用は一件。譲受人は興行委員会」
「はい」
「その後、この帰還権は使われていません」
「使われていない、というのは」
「行使記録が無いということです。売られたきり、十五年、動いていません」
俺は指を止めた。
「委員会は、これで誰かを帰したわけじゃない」
「帰していません」
リゼッタは静かに言った。
「帰還権は、名義人本人でなければ行使できません。買った側は、使えないと知っていて買っています」
「使えないものを、金貨で」
「使えなくすることに、価値があったんです」
俺は椅子の背に体重を預けた。
剣鬼の帰還権が市場に出ていれば、いつか誰かが買って、バンを帰す可能性が残る。委員会はその可能性ごと買った。
買って、引き出しに入れた。
「十五年、引き出しの中ですか」
「ええ」
リゼッタは登録簿を閉じた。
「凪様。ひとつ申し上げます。……あなたは今、九人を帰した男を可哀想だと思っています」
「思ってます」
「本人がそう思っていない場合、それは救済ではなく訂正になります」
◇
翌朝、砂場の掃除の時間に、俺はもう一度売店の裏へ行った。
バンは今度は薪を割っていた。
「バンさん。ひとつだけ聞かせてください」
「言え」
「帰りたいですか」
斧が止まった。
止まって、しばらく動かなかった。
バンは薪を台へ置き直して、それから、初めて答えに詰まった顔をした。
「……十五年前なら、即答した」
「今は」
「今は、向こうに誰がいるか思い出せん」
彼は斧を振り下ろした。
薪が真っ二つに割れて、片方が転がって俺の靴に当たった。
「凪。お前は基金を作った。あれは正しい。だが俺の分は、基金の仕事じゃない」
「どうしてですか」
「借金じゃないからだ」
バンは次の薪を立てた。
「俺の帰還権は、借金のカタに取られたんじゃない。俺が値をつけて売った。売り物に、救済は要らん」
俺は靴に当たった薪を拾って、台の横へ積んだ。
積みながら、頭の中で条項を組み立てていた。
救済ではなく、取引にできないか。
引き出しの中で十五年動いていない紙を、動かす方法。
それを思いつく前に、興行場の鐘が鳴った。
朝の掲示だ。
貼り出されたのは、光輝の名前だった。
『第七十二回興行 特別対戦 光輝 対 剣鬼バン』
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