救護院の老婆は、英雄の名前を売らなかった
北砦の門は、王室印を拒んだ。
十五年前の歯車が一度だけ鳴り、中央に浮かんだ印を噛み砕く。門を閉めた四人の刻印が、後から押された命令を通さなかった。
「命令より、古い契約が強いのか」
光輝が言う。
「違う。四人のうち、一人が同意していない」
リゼッタは砕けた光を拾った。
契約は絶対だ。
だから、同意していない者の名義では動かせない。
俺たちは麓の救護院へ向かった。
石造りの平屋には、戦で脚を失った者と、冬を越せなかった者の名札が並ぶ。入口で伝令鳥を受け取った老婆が、俺たちを待っていた。
「遅かったね、バン」
老婆は彼を見て言った。
バンの顔から血の気が引く。
「俺を、知っているのか」
「門の右で、ずっと怒鳴ってた」
老婆は片脚を木の杖へ預けた。
「上にいた風術師ですか」
リゼッタが問う。
「歯車番さ。術師なんて立派なものじゃない」
彼女は名を言わなかった。
代わりに、保管庫へ俺たちを通した。
棚には三人分の契約札がある。上の歯車番。東の排水路を冷やした鍛冶師。西を守った兵站係。どれも本人の名の欄だけが削られていた。
「なぜ名を消した」
バンの声が低くなる。
「売らなかったからだよ」
老婆は三枚の札を机へ並べた。
王室救恤局は、救助の功績を買い取ると申し出た。受け取れば三人の治療費を払い、代わりに北砦の英雄譚を王国が所有する。
二人は死ぬ前に断った。
老婆も断った。
「それでも帳簿には、救恤金受領済みとある」
リゼッタが代理印を示す。
「払ったことにしたんだろうね。あたしたちは一枚も見てない」
功績を買えなかった。
だから金を払ったことにして、債権だけを残した。
俺は棚の下へ風を通した。
硬貨の音はない。代わりに、床板の奥から小さな息遣いが返ってくる。
「地下に誰がいる」
老婆は杖を握り直した。
「救恤局が捨てた子たちだよ」
床を開けると、狭い空間に六人の少年少女がいた。腕には新しい返済印。戦場へ出たこともない年齢だ。
光輝が膝をつく。
「どうして、この子たちに」
「孤児の扶養費だそうだ。十五年前の救恤金を、今の入所者へ借金として付け直した」
外で馬車が止まった。
王室の白い外套を着た男が、護衛を連れて入ってくる。
「無登録の被扶養者を引き渡していただく」
男は老婆を見なかった。
「救護院が王室資産を隠匿している」
「人間を資産と呼ぶのが、王室の決まりか」
俺が訊くと、男は書状を開いた。
「扶養費を払った者には、就労先を指定する権利がある」
文言はある。
ただし、払っていればの話だ。
「受領証を見せろ」
「代理印がある」
「受け取った者の印は?」
男は答えない。
護衛が地下へ降りようとする。
バンが立ちはだかった。
「俺を英雄にした金で、この子らを買ったのか」
「あなたの功績は王国のものだ」
「違う」
老婆が初めて声を張った。
「門を閉めたのは四人だ。あたしは、売ってない」
彼女が契約札へ親指を押す。
消されていた名の欄に、文字が戻った。
マルタ・エイン。
透明な功績板の空欄が一つ埋まる。
同時に、子どもたちの返済印から十五年前の救恤金が消えた。
王室の男は、書状を畳んだ。
「一人では、記録の訂正にならない」
その通りだ。
残る二人は、もう死んでいる。
だが、死者の名を誰が受け取るかは、まだ決まっていない。
「明日、王都で公開審理を開く」
リゼッタが王室監査印を掲げた。
「受益者と負担者を、同じ席へ呼びます」
男の顔色が初めて変わる。
「審理の相手は誰だ」
「あなたの上司です」
リゼッタは代理印の紋を指した。
それは、現職の王室救恤局長の印だった。
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