ヴァニラ・ホームを尋ねて


 バニラの匂い。

 真昼と汐の自宅を訪ねて、まず頭に浮かんだのはそれだった。


 ドアを開けるとほんの微かにだが、甘い匂いが漂う。

 事務所で真昼がソファから立つ時も同じく香っていた。

 あの時はただ甘いとしか思わなかった。

 太陽に「アイスの匂い」と教えられて合点がいった。

 知ってしまったらもうそうとしか思えない。

 それから靴箱の上の小瓶が目に入る。口の部分に結ばれたリボンの飾りが印象的だ。


「ああこれ、真昼の香水なんですよ」


 汐は瓶を手に取り、月生に渡してきた。

 二頭のユニコーンが角を突き上げたパッケージ。

 ペンハリガン……と読むのだろうか。

 英国で十九世紀から続く老舗ブランドとのことだ。


「義姉が亡くなってから最後の大会前なのに部活も辞めて友達付き合いもしなくなって。

 私も同居して仕事も在宅にしたんですが、心配なんです。

 唯一の救いが、この香水。

 ねだられて、ちょっと高いけど買ってあげたんです。

 やっぱり女の子なんだなって。

 ごめんなさい。真昼がしたことを謝らなきゃいけないのに、こんな」

「姪御さん思いなんですね」事務所で真昼に身を寄せる姿を思い出して言う。


 この度は本当に申し訳ありませんでした、と汐は頭を下げる。


 二人の家は山地に近い場所の、ごくありふれた一軒家。

 もとは朝海の両親が建てた家だそうだ。

 死後に朝海が、朝海が死んだ今は真昼が相続している。

 十八歳未満の真昼が家を所有できるのはうしおが後見人だから。

 日焼けしたフローリング。

 ピーターラビットのラグマット。

 ところどころに傷や凹みのある壁紙。

 目立つ位置に飾られた、幼少期の真昼が描いたのだろう家族の絵。

 自分に無縁な“普通の幸せ”の匂いを強く感じた。

 その普通さの中に育った少女は、今や普通と程遠いところにいる。


 月生がこの家を訪ねたのは半ば偶然だった。

 つい十五分ほど前、この家の近所の山林入口にいた時だ。

 朝海の遺体の発見場所だった。


 現場を見れば何かインスピレーションがあるかもと来てみた。

 しかし事件から数ヶ月、痕跡などすっかり消えてしまっているらしい。

 朝海に供えられたのだろう菓子や花の他、使用済みコンドームも落ちている。

 どういう性癖なんだと思っていると、うしおが声をかけてきた。

 供えた花を片付けに来たと。

 それから真昼がガラスを割った件に話が及び、自宅へ招かれたのだった。


 玄関からまっすぐに続くリビングは、二人暮しには広すぎる。

 L字型のソファもローテーブルも大きめのテレビも、四人家族が暮らしてようやくちょうどいいような。

 健在だった家族の遺産に思えて、深々と座るのは気が引ける。


「真昼、模試で登校してて。

 学校が終わったら改めて事務所に伺いますので」

「大丈夫ですよ。正直、神野と会わせるのも怖いですし」

「……そうですね。すみません」


 窓ガラスの修理費プラス慰謝料をうしおから渡される。

 正直その件はもうどうでもよかったが、真昼の不在は少し残念だ。


「真昼さん、お母さんとは仲が良かったんですか?」

「ええ。それはもう。

 長いこと母一人子一人だったので。

 兄が生きていた頃から仲の良い家族でした」


 汐が近くの棚から写真立てを持ってくる。

 親子三人の写真だった。

 今よりずいぶん幼い真昼と、それから両親。

 父親は真昼の中学時代に癌で亡くなったそうだ。


 今との一番のちがいは朝海の体型だろう。

 見せられた携帯の写真ではかなり太っていたが、この頃はむしろ痩せ型だ。

 一方、隣に映る夫は普通の倍ほどもある肥満体。

 夫の死の悲しみや苦労で朝海も太ったのかも知れないが、どことなく夫が乗り移ったかのような不吉さがある。


「今の真昼のこと、二人も悲しんでるでしょうね。

 私もやめなさいって言ってるんですけど。神野さんにまで」

「アイツは気にしてないですよ」

「……でも、私も、加賀美ライラは許せません。

 お二人に、とは言いませんけど早く捕まえてほしいです。

 じゃなきゃ、あの子は活動をやめてくれない気がして」

「その件なんですが」


 ひと呼吸挟み、ミネラルウォーターで喉を潤して続ける。


「えっ」


 うしおは実にわかりやすくおどろいていた。


「どういうことですか?」

「もちろん、後の三件は加賀美の犯行でしょう。

 しかし朝海さんに関してはそれらとあまりにもちがう」

「犯行が夜なことですか?」

「それもですが、私が最も気になるのは遺体の様子です」

「……たしか、他の方のご遺体は綺麗なんですよね?」


 風波・槇原・斎藤の遺体は牙痕以外ほぼ無傷だ。

 一件目の朝海だけが、執拗なほどに遺体を傷つけられている。


「あの死体損壊こそ、私が加賀美の犯行を疑う根拠です」

「他の遺体は傷つけてないのにってことですか?」

「というより、手ぬるいからです」


 うしおは理解できないという顔をする。

 目も当てられないほど猟奇的だったではないかと。


「『手ぬるい』は少し違うかもしれない。

 やり方がズレていると言ったらいいでしょうか。

 吸血鬼は虫の羽でももぐかのように人間を解体できる。

 しかしあの遺体は、『小さな傷を何度もつける』ような壊し方だった。

 つまり、人間が刃物や鈍器を使って少しずつやったような」

「それは、そうかもしれませんけど」

「それだけなら加賀美の犠牲者を別な何者かが傷つけたのかも知れない。

 しかし恐らく朝海さんは吸殺されていない。

 解体時に飛び散って周りを汚すほどの血が残っていたわけですから。

 吸血鬼は血を吸いたいんですよ。

 吸血以外の方法で殺しても遺体の血は頂戴するはずだ。

 これらの点から、加賀美の犯行という線に私は違和感がある」


 汐は月生の推理に一時納得した様子だが、「でも」と指摘する。


「牙痕はライラのにちがいないんでしょう?」

「ええ。だから、加賀美に襲われてはいたと思います。

 しかしそこに第三者が割って入った。

 それで加賀美は場を退き、そいつが代わって朝海さんを殺した」

「第三者って?」

「重要なのは加賀美を退けていることです。

 彼女より強い、かはともかく戦うのは面倒と思わせる戦力があるはずだ」

「別な吸血鬼ですか?」

「それならそれで、遺体の不自然さがそいつにも当てはまる。

 吸血鬼以外で加賀美の脅威となる、且つ積極的に襲う動機の持ち主」

「……ハンター?」


 首肯する。

 夜の吸血鬼にとっての脅威なんて他にないだろう。


「聞いた話ですが、二件目の犠牲者の風波氏。

 彼は朝海さんと交際されてたらしいですね」

「みたいですね。私も詳しくは存じませんけど。

 ……それじゃあ」

「ええ。朝海さんと一緒にいるハンターと言えばまっさきに挙がるのは彼だ。

 共にいるところを加賀美に襲われた、あるいは自宅近くをうろついてるのを知って狩るために待ち伏せしたのかもしれない。それで攻撃して反撃に遭ったか。

 どっちにせよ先に狙われたのは朝海さんで、風波氏は手持ちの武器で応戦した。

 風波氏は加賀美を撤退させたものの、流れ弾が朝海さんに命中するなどして、彼女は命を落とした。

 あの損壊は遺体に残った証拠を摘出し、致命傷をわからなくするために行われたのだとしたら。

 風波氏がその後狙われたのは当然、この時に逃した獲物だから」

「もしもそうだとしても、それってライラのせいじゃありませんか?」

「まあ、そうですね。殺人とは言えないでしょう。せいぜいが過失致死だ。憎むべきはやはり加賀美ライラかもしれない。

 しかし、もしもこの予想の通りなら、彼は自分のミスで死なせたことを隠蔽するため死体をあれほど傷つけたことになる。

 そのことを、生前の彼は真昼さんに明かしてたんでしょうか。彼女は承知の上でハンターになろうとしているんでしょうか」


 最後まで語ると、「あくまで憶測です」と付け加える。

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