32. 取り引きと、群衆
レオーネに呼ばれたヴォルクが二階の部屋へ通されると、卓の上に布で包まれた小さな塊が載っていた。乾いた血の臭い。レオーネが杯を傾けている。
ダリオがレオーネの横で片手を上げた。返さなかった。布包みの横に頬杖をつき、空いた手で杯の縁を撫でている。
「マルコの始末がついた。お前の報告通りだ。独断で修道士に薬を渡して聖蹟を捏造していた。処理した」
卓の包みに目をやった。布の端から覗く指。マルコのものだろう。
「リリスには迷惑をかけた。俺の管理の落ち度だ」
「マルコが余計なことをしたのは、俺に張り合おうとしたからだよぉ。ごめんねぇ、ヴォルク。リリスちゃんにも謝っといて」
「……今更、聖人話は収集がつかないだろう」
「あの騒ぎじゃ、そうだろうねぇ」
ダリオは首の後ろを掻いた。レオーネはむっつりと黙り込んでいる。
ヴォルクはあらかじめ決めていたことを口に出した。
「リリスを連れてこの街を出る。追手は出すな」
「言われると思ったぁ」
「マルコの不手際の貸しを返せということか」
本来、家を抜けるのはそう簡単なことではない。
「逃亡じゃない、送り出せ」
「お前の能力は買っていたんだがな。残念だ」
レオーネは仕方ない、と息を吐き出して椅子の背に体を預け、ダリオに指示を出した。
「ダリオ。門番に話を通しておけ。ヴォルクとリリスが出るときは止めるな」
「はーい」
ダリオが廊下へ出ていき、ヴォルクも立ち上がった。
---
ローワンは補足意見書を巻いて紐で括った。
修道房の蝋燭は昨夜から点けたままで、新しく変えたものがまだ半分残っている。
書記官へ提出すれば記録には残る。上層が目を通す保証はないが、記録に残さなければ何も始まらない。
この事案がどう転ぶかを見届けてから書こうと決めた、日付の空いた帰還報告が卓にある。
外の声が壁越しに届いていて、門前の群衆が日ごとに密度を増し、鞭の音は朝から途切れなくなっている。
教会に似つかわしくなく、ドンドンドン!と激しく扉が叩かれた。
「おにーさん! ちょっと来て!」
「騒がしい、……何があった」
トビアスの声に応えて開けると、走ってきたらしく息を切らしている。ローワンはただならぬ様子に眉を寄せて問いかけた。
「外やばい。教会の門閉めるって話になってるけど、もう閉まんないって」
「閉まらない? なぜ」
「人が溢れてて、門が動かないんだって」
意見書を手に取って立ち上がった。
回廊を通って門の方へ向かうと、木の軋む音が近い。修道士が二人で門扉を押さえている。外からの圧で板が内側へ大きく撓んでいた。
窓から通りが見えた。白い衣が道幅を埋めている。奥で新しい列が合流し、前列を押し出していた。扉の前に隙間はない。前列が後列との間で動けなくなっていた。
前列の一人が崩れた。足元から折れ、隣の者を巻き込んで倒れる。起き上がろうとした手が、後列に押された体の下へ消えた。
悲鳴が広がった。その前で次々に人が倒れている。後列は前が崩れたことにすら気づいていない。
門扉を押さえていた修道士が弾かれた。蝶番の外れる音とともに門が内側へ倒れ、石畳を叩いた。群衆が開口部から中庭へ流れ込んでくる。
「こっち!」
トビアスが腕を掴んだ。回廊を逆方向へと走ろうとするが、中庭に面した柱廊の入り口で、足が止まりかけた。
数名の巡礼者とともに、石畳にルカ修道士が倒れていた。
三ヶ月寝込んで快復した、あの修道士だ。聴取の記録に名前があり、聞き取り調査をした。
群衆に潰されたようで、目を閉じたまま動かない。逃げ惑う人々に体を踏まれてもぴくりとも動かなかった。
「おにーさん、早く!」
叫ぶような声にはっとしたローワンはトビアスの後について走り出した。振り返る余裕はなかった。
柱廊の裏手から塀沿いの通路に出た。群衆はまだこちらへ回り込んでいない。
背後で重い音と衝撃が続いた。柱廊の柱が折れたのだろう。砂埃が通路にまで流れ込んでくる。
「走って!」
トビアスが先に駆け出した。意見書を握ったまま通路を抜け、横の路地へ出た。
路地も混乱していた。教会の前から群衆が溢れ出している。逃げる者と押し寄せる者がぶつかっていた。
通りの向こう側に、銀の髪が覗いた。人混みの中でもすぐにわかった。
リコリスだった。
隣の男に腕を引かれ、足早に人波を抜けようとしている。
弟が振り向いて、群衆の頭越しに一瞬だけ目が合った。間を横切った白い衣に遮られ、銀の髪が見えなくなる。
立ったまま動けなかった。
「何してんの! 行くよ!」
トビアスに引かれてよろけると、意見書が手から滑り落ちた。拾えないまま足元の人波に紛れていく。
路地の合流点で流れが変わった。押されてトビアスの手が離れた。
「おにーさん!」
「トビアス!」
焦って声を出すが、トビアスはもう視界から消えている。
修道房の蝋燭を消していない。帰還報告の下書きも、日付のないまま卓に置いてきた。
せがまれた結果だとしても、この街にトビアスを連れてきたことをローワンは後悔した。
群衆が迫ってくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます