第54話 石油経済圏
1946年2月14日、イランで武装蜂起が発生。シーラーズ周辺を中心に武装した民兵が国境線に張り付いた兵士を包囲した。蜂起勢力はザンド派の政治組織、ファールスの部族兵、イラン軍離反者を糾合し、「ペルシア復興軍」を名乗った。オスマン戦線とアラブ戦線では、小規模な小競り合いを繰り返していたが、オスマン帝国はペルシア復興を支持する民兵に武器を何年間もかけて譲り渡していた。山岳地帯における陸軍ドクトリンの指導も秘密裏に行っていたため、オスマン・アラブ両軍と共通する命令書式、地図記号、無線手順、砲兵観測法を習得していた。
武装蜂起によって、イラン軍は山岳地帯で包囲されてしまった。これにはレザー・シャーも虚報かと思った。ほぼ全軍を国境線に張り付かせていたうえに補給線が途絶え、天然の要塞に立てこもるしかなくなった。1個駐屯師団がテヘランを防衛していたが、これを外に出せば容易に首都を陥落されてしまう。
一方で、オスマン海軍とアラブ海軍はホルムズ海峡の制海権を確保すると、徴用商船、機帆船、上陸用舟艇をもってペルシア湾を横断した。先遣2個師団がブーシェフル周辺を制圧し、港湾を確保したのち、後続3個師団が上陸した。いくつかの駐屯師団がペルシア軍の後背を突こうと移動していたため、南岸を容易に攻略でき、これを橋頭堡にした。
イラン軍はアラブ帝国の奇襲によって、かなり困ったことになった。駐屯師団をペルシア軍討伐のために援軍に行かせるべきか、奇襲に反撃するか。補給線を絶たれていたため、イラン軍は救援を要請していたが、アラブ軍の機動はテヘランに向かっていた。
イラン軍は山から出るといたずらに兵士を損耗させていた。ペルシア軍は山から出てきたイラン軍を迎え撃っていた。そうすると後背のオスマン軍・アラブ軍が攻勢に出ようとする。これらを追い払おうとすると、両軍は丘に逃げて平地で迎え撃った。ジリジリとイラン軍がすり減っていった。
ペルシア軍はシーラーズ周辺による補給が成立していた。イラン軍はこの補給を絶つため、各地の駐屯師団を抽出して野戦部隊を編成しようとした。駐屯師団は4個歩兵大隊からなる小規模な師団だったが、各3個歩兵大隊からなる3個歩兵連隊を基幹とし、砲兵・工兵・通信などの支援部隊を加えた集成師団へ再編する計画を立てた。しかし、既存の4個大隊を9個大隊に膨らませる兵員も装備も、すぐには揃わない。結局、4個駐屯師団が再編未了のままシーラーズ奪還に向かった。
アラブ軍の5個師団はそのまま北上してテヘランに向かっていた。シーラーズを経由しようとしたところで、例の駐屯師団と合戦することになった。ペルシア軍は前面のイラン軍を抑えることに注力し、アラブ軍がその後背を守るような布陣となった。イラン軍は4個駐屯師団で敵5個歩兵師団に勝てるわけもなく、3割損耗した段階で撤退。アラブ軍は1個歩兵師団を追撃に出して、残り4個歩兵師団をイスファハーンに向かわせた。イスファハーンでも駐屯師団がいたが、4個歩兵師団の圧力に耐えきれず降伏した。
イスファハーンに1個歩兵師団を残し、3個歩兵師団でテヘランに向かう。テヘランでは常備軍が駐屯していたが、テヘランを包囲した上で攻勢をかけた。テヘランの常備軍は逃げる先もなく壊滅した。アラブ軍はテヘランを占領したが、パフラヴィー朝のレザー・シャーがゴールポストをイラン東部、ホラーサーン地方のマシュハドに置き直した。包囲網を掻い潜り、逃がしてしまったのである。
山脈地帯に立てこもっているイラン軍は2ヶ月にも及び補給を受けられなかったため、ついに降伏。オスマン軍とアラブ軍がイラン軍を解体した。ペルシア軍は反転してマシュハドに向かいつつも要所要所を占領した。
半年間にも及ぶ追跡の果てに、1946年12月5日、ペルシア軍とイラン軍残党がマシュハドで対峙したが、ペルシア軍のほうが動員数が多く、イラン軍残党は包囲されてしまった。意地でも降伏しない姿勢を見せていたが、同年12月10日に戦闘が終了。パフラヴィー政府は降伏した。パフラヴィー朝のシャーは同日に退位を迫られたため退位し、残っていた政府も解体された。
実を言うと、この戦争そのものは10年以上は続いていた。1932年7月7日、イラン軍の高級将校が国境線の変更を既成事実化するため、部隊をアラブ帝国領内へ越境させて実弾演習を行った。アラブ帝国はこれを演習に偽装した侵攻と認定した。オスマン帝国とアラブ帝国がイランに宣戦布告し、以後は山岳地帯を巡って小競り合いを繰り返していた。戦争を目論んだ高級将校は引退し、現役に引き継いだほど長きに渡る戦争だった。開戦時の兵卒が古参下士官となり、下士官だった者が佐官に昇進するほど戦争は長引いた。これはイランも同様でペルシア軍に挟まれなければ同じ状況になっていた。イランはこの戦争の目的を忘れてしまっていた。首謀者はレザー・シャーではなく、レザー・シャーの犬だった高級将校だった。その高級将校も高齢により死去し、戦争の本来の目的がなくなってしまった。オスマン帝国は巨大な石油圏の形成を目論んで戦争を続けていた。棚からぼた餅が降ってきたので形勢逆転の機を
オスマン帝国はザンド家の傍系子孫を将来の立憲君主候補として秘密裏に教育していた。戦争終結後、ザンド家当主は王位候補としてイスファハーンに迎えられた。制憲議会は王位継承条項を改正し、カリーム・ハーンの善政と「臣民の代理人」という記憶を正統性の根拠として、当主をシャーに推戴した。国号は「イラン立憲帝国」となり、1906年憲法の実質的運用を回復し、1925年に改められた王位継承条項を再改正して、王統をパフラヴィー家からザンド家へ移した。文化政策として「サファヴィー王朝の復興」が掲げられた。
首都もテヘランからイスファハーンに遷都し、シャーの権威のもと地方代表の選出が行われた。地方代表は臣民から選ばれ、イラン議会を再構築した。パフラヴィー政権に協力した有力ウラマーを制憲会議から排除し、ゴム、イスファハーン、ナジャフの有力ウラマーが候補者を推薦し、議会がその中から5人のムジュタヒドを選出した。こうして、長らく死文化していた憲法第2条の宗教法審査委員会が初めて実際に設置された。サファヴィー朝の芸術・建築・シーア派的権威を継承するために、ありとあらゆるプロパガンダが流された。
立憲君主のもと民主的改革により、独裁的な停滞感がなくなってイランはお祭り騒ぎとなった。
1947年2月11日、イラン立憲帝国が樹立された。同時に、オスマン帝国、アラブ連邦帝国、イラン立憲帝国はイスラム三国同盟が結ばれ、「世界の半分の栄華」という標語のもとで結束した。三国同盟では、十二イマーム派・ジャアファル法学派を正統なイスラム法学派として承認し、オスマン皇帝のカリフ権威はスンナ派に関するもので、イランのシーア派を宗教的に支配しないことが約束された。ナジャフ、カルバラー、メッカ、マディーナ、マシュハドへの巡礼を相互に保障し、アラブ帝国内のシーア派と、イラン国内のスンナ派を保護することが保障された。相互に不信仰者と断ずるタクフィールや宗派扇動を禁止し、宗教寄進財産とウラマーの一定の自律を保障することが約束された。サファヴィー復興は美術・建築・国家儀礼に限り、オスマン領内でのシーア派布教や王朝的領土要求には利用しないことが合意された。
イギリスはパフラヴィー朝を支援していたため不満を表明したが、ホルムズ海峡の自由航行、石油利権の継承、オスマン・アラブ軍の期限付き撤兵を条件に、新王朝を事実上承認した。そもそもパフラヴィー朝もイギリスの言うことをあまり聞かなかったので、イラン南部に進駐するかどうか決めかねていた。軍部が増長したためイギリスは1度進駐を試みたが失敗し、ホルムズ海峡を通るためにイランの機嫌取りをしなければならない始末だった。
旧イラン代表団はアラブ・オスマン両軍による侵略を訴えた。一方、ペルシア復興軍は自らを正統な暫定政府と称し、両軍はその要請を受けて介入しただけだと主張した。本国政府の所在も、誰が代表権を持つのかも判然とせず、安保理は調査団派遣の可否を巡って空転した。
国連職員は困惑した。ザンド家当主だからザンド朝なのではないか、なぜサファヴィー王朝が出てくるのか、死文化した憲法を動かして5人のムジュタヒドを選出した意味は。「中東情勢は複雑怪奇」という言葉がどの国からも出てきた。第5回総会の議題として「イラン代表団の信任状に関する資格審査委員会報告」が提出された。
新王朝はザンド朝とされた。しかし、新政府はイスファハーンへの遷都、十二イマーム派の保護、サファヴィー様式の宮殿・モスク建築をまとめて「サファヴィー復興」と宣伝した。外国新聞の一部はこれを「第2次サファヴィー体制」と呼んだ。
第5回総会においてもアフガニスタンやパキスタンがオスマン帝国やアラブ連邦帝国と激論を交わしたが、通訳が機能しなくなった。ワキールは「人民の代理人」か「摂政」か。サファヴィーは「王家」か「文明的伝統」か。マジュリスは「主権的議会」か「君主の諮問会議」か。ジャアファル派は独立した法学派か、スンナ四法学派に加わる第五学派か。カリフの権威は全イスラム教徒に及ぶか、スンナ派だけか。イスラム的専門用語が飛び交い、政治的に意味が変わる。通訳はいまどちらの話をしているのか混乱し、代表団もそれに合わせて混乱した。むしろ、イスラム史に詳しい通訳がどの訳語を選んでも、いずれかの代表団から異議が出た。やがて逐語訳だけでは意味が通じなくなり、通訳は注釈を加え始めた。発言より通訳の説明の方が長くなり、代表団は自分が何に賛成し、何に反対していたのかさえ見失い始めた。イラン立憲帝国代表団は英米や欧州との宥和主義を掲げていたが、アフガニスタンやパキスタンがそれをいちいち訂正してくるため、誰が何について正しいことを言っているのか誰も判断がつかなくなった。結果的に、賛成10、棄権45、反対5となり採択。最も棄権が多い審議となった。
1947年11月29日に第5回国連総会の会期が終了となった。これに合わせて鬼族のもとで交易や商売を営むオスマン、アラブ、イラン系のムスリムたちが盛大な祝宴を開いた。やたら景気が良く、みんな笑顔で、伝統音楽が鳴り止まない。交易に来ただけの船員も賑やかしを見たくなって、その列に参加する。商館通りから大使館通りまで、祭りが行われた。愛姫も何の騒動かと松山御所から出てきて、結局その陽気さに当てられて祭りに参加した。酒はハラームだったので、コーヒーが乗った盆が運ばれ、音楽に合わせて踊る。猿楽しか知らない愛姫も踊ってみたが、あまりにもリズムが速く、凄まじく早送りの猿楽になった。愛姫が疲れた頃に、西洋人の船員がやってきて音楽に合わせてタップダンスを踊る。手拍子も合わさって一つの音楽になった。夜の10時頃になってみんなが疲れ果てるまで祭りが行われた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます