第25話 二・二六事件
鬼族はかなり微妙な立ち位置にいた。日本の世論である。四国は日本固有の領土ではないかという議論が巻き起こっている。過去に旅団を無傷で全滅させた過去があるため、世論が軍部を突き上げたとしても積極的には動かないだろうと予想していた。というのも、日本は石油をアメリカに依存している。アメリカ側がNOを突きつければ石油備蓄は2年も持たない。
日本は海軍軍縮条約の制限を骨抜きにするような設計を重ね、条約廃棄後を見越して新造艦の建設を進めていた。新造艦の建設を盛んに行っていた。最上型や初春型駆逐艦が建設されている。相変わらずボイラーを使っているが、石炭から石油へと資源が転換されるようになった。
愛姫は奇妙な噂を耳にした。愛姫が使わせている諜報は生粋の諜報屋だ。諜報からの報告で、日本が秘密裏に3隻の超大型艦の建造計画を立てているという。起工はまだ先との話ではあるが、設計計画は既に動いており、図面作成が行われている。そのうちの1隻の図面によると46センチ主砲3基9門を備えているという。もしこの主砲が火を噴けば一撃で地形を変える能力がある。だが、恐らく海軍は地上支援の「ち」の字もないだろう。艦隊総決戦しか頭に入っていないからだ。
唯一、警戒すべき思想を持った人物として海軍少将の山本五十六だ。造船を続ける海軍本部とは別に、海軍軍縮条約において粘り強く交渉を続けている。事後追認処理を担当していると言っても過言ではないだろう。古巣は海軍航空本部技術部長で海軍の航空整備に尽力した。特に、外国産の航空機を取り入れようとした海軍中枢に対して、国産品・単葉機・全金属を掲げて対抗した。正規空母赤城の艦長でもあり、海上での航空戦力を重視している。
空母というのは海上を自由に動く飛行場だ。爆弾や魚雷を積んだ航空機を出撃させれば否が応でも防空戦闘を強いることになる。大口径の主砲を撃てば甲板の船員が吹き飛んでしまうため、空に飛行機があるという時点で大艦巨砲主義は瓦解する。この広い海で空母を見つけるのは難しい。航空支援を持たない戦艦を裸では海に出せなくなる。山本五十六はいち早く海上の航空戦力の重要さに気がついていると言えるだろう。
関東軍の石原莞爾、航空母艦の山本五十六、敵には回したくはない人物だった。
1935年になるとこれまで及び腰だった交易船がやってくるようになった。今まで石炭を使っていた船はみな石油を使うようになった。これまで閑古鳥が鳴いていた下町も賑やかさを取り戻していった。
交易品として電化製品が流れるようになったが、通信局などには自家発電設備があるが、民生用の発電所と配電網を持っていない。発電施設は作ろうと思えば作れるだろうが、銅が足りない。国策事業として銅と金を交換してもいいが、電線が向かう先は民家だ。地中に埋めるのだって簡単ではない。鉱石ラジオで我慢してもらおう。
興味深い事件として、1935年2月18日に貴族院本会議の演説において、美濃部達吉が唱える「天皇機関説」を国体に背く学説として厳しく糾弾された。美濃部達吉も貴族院議員ではあったが、後ろから鉄砲を撃たれた姿になった。天皇機関説をコンパクトに説明すると、国家を法人とみなし、主権は国家そのものにあると定義し、天皇は統治権を行使する国家の最高機関として統治するという学説だ。皇道派から見るとなんと不敬な論理だろう。2月25日に国体
世論は天皇機関説がなんたるやを知らないまま、美濃部達吉を反逆的で謀反人の
やれやれと思いながら、日本の策謀に巻き込まれなければいいな、と思う愛姫だった。
新しい弓がほぼ全鬼族に普及した。各家庭には炭板で作った弓が置かれるようになった。古い弓はお守りのように飾られている。弓に関する苦情として、いままで曲射で遠い的に当てていたのに、その角度が浅くなって腕が鈍ったかもしれない、というのが多数寄せられた。もっと遠い的を使えと一蹴したが慣れるまでは相当の時間がかかるだろう。
限界の距離まで矢を通す技術は一朝一夕には身につかない。何十年もかけてやっと身体に沁み着くものだ。弓を代えて、明日すぐに遠当てができるものではない。
エレキテルについても技術革新があった。複列星型18気筒エンジンの軸にフェライト磁石を取り付けて高速回転させることで、その近辺にあるコイルを貫く磁束を周期的に変化させ、起電力を得る仕組みだ。磁場変化が急激なため芯鉄やコイルが渦電流損で焼き付く問題が残っていた。回転するフェライト磁石を炭板製の外筒で締め付け、固定子の鉄心は薄板を重ねて渦電流を抑えることを提案してみた。ドライブシャフトが非磁性であればいい。エタノールで発電する技術もだいぶ進んできたのではないかと思う。
磁石についてもフェライト磁石の貢献が大きい。炭酸バリウムと酸化鉄さえあれば焼成成形ができる点が優秀だ。ただ、フェライト磁石を作るには24時間近い焼成工程があるため、炉を長時間占有するのが問題だった。
水酸化ナトリウムや塩酸の中和剤についても開発が進んだ。これまで愛姫はこれらの薬品について実験レベルの少量ならば許可していたが、廃液の中和ができるようになってから制限を緩和した。塩酸は炭酸水素ナトリウムや水酸化カルシウムで中和できた。水酸化ナトリウムも希釈した塩酸で中和できる。これがわかると工場利用が進むようになった。ただ、廃液に関しては厳格に管理するように言い渡してある。中和後に沈殿させ、濾過し、上澄みの安全を確認してから放流する。
国際連盟では総会の欠席と棄権をあらかじめ言っていたはずだが、フランスとイギリスの大使がせめて形式的でも良いから出席して欲しいと嘆願してきた。密偵と側仕え2人を出すから、必ず安全にジュネーブに送り届けるように覚書を交わした。日本への密偵にはかなりの人員を割いていたが、予備戦力を1人だけ出すことにした。それと側仕え2人。手痛い出費だったが密偵としての役割も果たして貰おう。
鬼族はめまぐるしい近代化・工業化・重工業化が進む世界で平和を享受していた。食糧自給率は100%を超えていて、交易品として取引できるし、余った食糧は備蓄もしてある。全く困ることがない。
そう思っていた矢先、暫定的な領海を設ける審議が貴族院と衆議院で行われているとラジオで報道された。島嶼部は古来より日本のものであるから四国本体を鬼族の国境として捉え、領海を二分したものとするらしい。実現するとこちらが使える領海が著しく小さくなる。もともとあの海峡で漁業をしているのは鬼族であるが、これらの海峡は流れが急峻で水道に入ると流されやすい。鬼族でも腕が立つようになってやっと流されずに漁業が行える。島嶼部も数が多く大きな船は基本的に通れない。あそこを利用しているのはもっぱら鬼族であるが、勝手に領海を定めて領海侵犯だと言われたら困る。愛姫は内閣宛に抗議文を送ることにした。天皇にも事実上の日本と鬼族との共用の水道であることを強調し、外交上の懸念を送ることにした。
1936年2月26日、皇道派の陸軍青年将校らが約1500人の下士官と兵を率いてクーデターを決起した。政府要人らを襲撃し、永田町や霞ヶ関などの政治中枢を占拠した。林銑十郎ら陸軍首脳が説得を試みたものの、青年将校らは「昭和維新の実現」を訴え、昭和天皇がこれに激怒し、「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さず」との意向を示す。昭和天皇の意向により彼らは「反乱軍」として包囲し、投降を呼びかけた。反乱軍の多くはこれに帰順し、野中四郎は自決した。残った青年将校らは検挙された。陸軍大臣・川島義之のもとで一審制裁判が行われ、事件の首謀者が銃殺刑になった。陸軍首脳部も皇道派の将校らの訴えに斟酌する部分があったものの、川島義之は斟酌することはなかった。
統制派はこの事件を利用し、岡田内閣の後継内閣について軍部独裁政治を実現しようと企てた。まず、粛軍人事として皇道派を排除した。陸軍省軍務局の中佐が陸相代理として組閣本部に乗り込んで自由主義者の組閣候補者を指名から外すよう干渉した。陸軍の責任について貴族院で追求されるとうやむやにした。軍部が政治に圧力をかけると、政治家は暗殺の恐怖から屈服せざるを得なかった。財界も同様に陸軍中央と結合し軍財抱合体制が敷かれる。
皇道派でも統制派でも愛姫から見ればどちらでもよかった。統制派により南進論が支持されるだけだろう。何派だろうが政治にかじりつこうとする軍に違いはなかった。少し、皇道派のほうが血気盛んなだけだ。皇道派でも統制派でも四国には注目する。統制派は四国を激情で攻めるのではない。国家計画、資源計画、海上交通計画の中に組み込み、逃げ道を塞いでくるだろう、と愛姫は思った。
下町は二・二六事件があったのかもわからないような賑わいだった。松山港には船が泊まり、荷揚げや荷下ろしを盛んにしている。商人たちはいつも通り商いをしている。この街は平和そのものだった。
諸外国も陸軍内部が皇道派と統制派で亀裂が走っていることを理解できないだろう。単なる青年将校のクーデター事件としか見ないはずだ。政治のボールが軍部に移ったとしばらくは思わないだろう。右大臣が何か言おうとしたが右大臣顧問がそれを諫めた。愛姫は新聞を丸めた。左大臣が火を持ってくる。愛姫は火にくべると燃えている新聞を左大臣に渡し、手すりに肘をついて頬を傾けた。燃えている新聞はすぐに側仕えが受け取って裏に消えた。
5月に入り、漁師たちが帰ってこない、という声を拾うようになった。5月7日付けの新聞で「領海侵犯をした鬼族を拿捕」という見出しを見つけた。拿捕された船は6隻で、合計26人の船員が拘束され、禁固刑に処された。愛姫は国際連盟事務局長宛に「日本が一方的に主張する領海内において鬼族と日本間で外交上の重大な懸念がある」と電報を送るように指示を出した。正確には、軍部が政府そのものになったわけではないが、ジュネーブの者たちに日本陸軍の派閥抗争を一から説明している時間はない。愛姫は意味を一つに絞った。さらに、ジュネーブ駐在代表に、各国代表への配布を前提とした公電を送った。二・二六事件の詳細を外国人でもわかるように説明し、軍部が政府の実権を握った、という内容を殊更わかりやすく工夫を凝らした。
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