ep.4

「…それ、待ってるように見える」


 なにを、とは言われなかった。

 言われなかったが、状況からしてなにを待っているように見えたのかが分からないほど初心ではない。


 かといって、今さら目を開けてすぐ目の前まで迫ったそらの視線に対抗する勇気もない。


 払えばいいだけだ、自分に触れている彼の手を。

 押しのければいいだけ、すぐそこにいる彼の胸を。


 頭では分かっているのに体がうまく動かない。


 十希羽の口元にそらの微かな吐息が触れる。十希羽は堪らず、大きく息を吸った。


「ぎ、ぎぶあっぷ…!!!」


 吸った息の量は一体どこに消えてしまったんだと不思議に思うくらい、飛び出た声はとてつもなく情けないものだった。震えているわ、上擦うわずってるわ。


 見なくてもそらの動作が止まったのが分かる。

 止まった隙にと、十希羽は矢継ぎ早に言葉を捲し立てた。


「限界です!ごめんなさい、好みです!そらさんのお顔、大好きです!ちょっと幸せだったんですけど!これ以上のファンサービスは心臓が破裂します!ご勘弁を!」


 パッと思いついた言葉をなにも考えずにそのまま一呼吸で言い切った。

 そらは黙ったままだ。言葉を待っている時間は、雨音だけがやたらと強く耳に響く。


 触れていた手の感触がなくなったと同時に、窺うように目を開けた。

 視界に写った彼は口元を手で覆っていた。表情が読みにくかったさっきと同じ体勢だが、今度は肩を揺らしているから笑いを堪えていることが分かる。


「いっそ思い切り笑ってくれた方がいいんですけど!!」


 さっきまでとはまた違う種類の羞恥心が込み上げてくる。

 十希羽の言葉に誘発されてそらの笑いは大きくなってしばらく続く。そらは落ち着いたタイミングで呼吸を整えるように大きく息をついた。


「はー、お腹痛い」


「人で遊ぶの良くないと思います。とても」


「遊んでないよ。試しただけで」


 そもそもなにを試したのか、と問うとそらは人差し指でゆっくりと十希羽の顎をなぞった。十希羽の肩が小さく跳ねたのを見て、彼は口元を緩めた。


「容姿が好きなら触られるのを生理的に嫌がりはしないかなーって」


 俺の内面をそんなに知らないならなおさらね、と付け足して指を離す。


 嫌どころかむしろ、とは言えるはずもなく、返す言葉を失う。今の指だって、払うどころかあまりに自然と受け入れてしまった。彼の思う壺にはまりすぎて情けない。


「けどまさか宣言までされるとは思ってなくてね。不意をつかれた」


 そう言いながらまた思い出すように小さく笑う。頭が正常に作動していないうちは口に任せてなにかを発するものではないと強く思う。


「迷惑じゃないんですか。知り合って間もない相手のスキンシップを受け入れるくらい、容姿でしか貴方を判断してないなんて」


「相手によるね。それに関しては」


 十希羽の問いに間髪入れずに答えるあたり、容姿を目当てに彼に近付く人間が一定数いて、その状況を実際に経験してきていることを想像させる。


「…私の場合は?」


「どっちだと思う?」


「迷惑そうには見えない、と思いたい願望はありますよ。というより、そらさんが勝手に試しだしてこうなってるのに、迷惑だと言われたら理不尽です」


 また質問を質問で返してきたそらに、口を尖らせながら答える。彼はそれを聞いて「ごもっとも」と笑った。

 人差し指と中指をまた十希羽の頬に滑らせ、触れるか触れないかの絶妙な距離感で唇をなぞる。


「ファンサービスのつもりはなかったんだけどね」


「え…?」


「待ってるように見えたのは、俺の願望だった?」


 今のが自分の質問への回答だったようにも感じるけれど、そらの言葉が上手く飲み込めない。そらは答えを待つように十希羽の顔を覗き込む。


 キスを、望んでほしかったと思ってるってこと?


 相変わらずそらの思考が読み切れない。そして今の質問に答えるということが、キスがしたかったかどうかを答えることと同義であることに気が付いて言葉に詰まる。どんな羞恥プレイだ、と思わずにいられない。


 困った十希羽の様子を神様が見ていたのではないかと思うほどちょうどいいこのタイミングで、スマートフォンから通話音が鳴り響いた。

 驚いて画面を見ると、そこには千草の名前が表示されている。十希羽がそらに確認の視線を送ると、彼は「どうぞ」と手のひらを上にして見せた。


「はい、どうし…」


『十希羽?今、私帰ってきてるんだけど、あんたがマロと散歩行ったって聞いて。どこまで行ってるの?雨、大丈夫?』


 こっちの言葉も待たずに一気に話し出した千草の声が止まるまで大人しく待つ。少しの間をおいて、彼女の言葉が切れたことを確認したうえで口を開いた。


「公園、バス停からすぐのとこの。四阿の下にいるから平気。そんなに濡れてもないよ、私もマロも」


『雨、ちょっとマシになってきたから迎えいくわ。傘は持ってるの?』


「持ってるなら自分で帰ってるって」


『そりゃそうだ。今から行くから少し待ってて』


「ありがとう」


 四阿の外に視線を移して、雨がマシになってきたという言葉を無意識に確認する。確かにさっきまでの雨と比べると目に見えて降水量が減っていた。


「お迎え?」


 距離的に声が漏れて聞こえたようだ。そらの質問に頷く。


「姉が来てくれるみたいで」


「優しいお姉さんだね」


「六つも離れているからか、ちょっと過保護なんですよね。なんなら親よりも」


「無関心よりいいと思うけど。お前もよかったな、マロ。お迎えだってさ」


 くしゃくしゃと撫でられて嬉しそうに尻尾を振るマロはもう完全に懐ききっている。せっかくの散歩が雨で中断されたものの、その代わりになるくらい楽しいひと時になったようだ。


 さっきまでの雰囲気がうまいこと流れてくれて安心する。しばらくマロについての話が続く。迎えがすぐくることを察してか、あの話が戻ってくる気配もない。


 だいぶささやかになった雨が傘に弾ける音がして、十希羽はそちらに顔を向ける。マロも気が付いたようで、四阿を飛び出そうとしたところをギリギリで抑え込んだ。

 こちらに向かってきた千草はさしている若草色の傘とは別に桜色の傘を一本腕にかけている。四阿の手前で止まって、ゆっくり十希羽とそらを順番に見た。軽く頭を下げたそらに続いて千草も会釈を返す。


「お待たせ。そちらの方は?」


「雨宿り仲間です。少し話し相手になってもらっていました」


 そらは爽やかな笑顔を作って千草に向ける。どことなくさきほどまでより声色がよそ行きに聞こえて違和感を覚える。


「災難でしたね。車を向こうに止めてあるんです。よければお送りしますけど」


 千草もまた、よそ行きだ。やっぱり彼女は彼の容姿になにか思う素振りはなさそうで、それを見ていると簡単に絆された自分に引け目を感じる。

 千草の提案にそらは手を横に振った。


「いいえ、もう少しで止みそうですし、親戚の家が近くにあるので大丈夫です。お気遣い痛み入ります」


「そうですか。十希羽、マロは先に連れていくね。車、入口まで持ってくるから待ってて」


 別れの挨拶ができるように気を遣ってくれたのだろう。千草は十希羽に桜色の傘を手渡し、リードを受け取って傘をさしたまま器用にマロを抱き上げる。歩き出した千草の後ろ姿を見ながら傘を開いた。


 そらに一言かけようと振り向いたと同時に、彼の手が傘を持っている十希羽の手に触れ、千草から隠れるように傘の向きを動かした。なにかをいう暇もなく、頬に柔らかいものがそっと触れた。

 それがなんの感触だったかを理解したときにはもう彼はベンチに座り直し、平然と微笑んでいた。


「ファンサービス?」


 努めて冷静に見えるように表情を取り繕いながら尋ねると、そらは少し考えた後に頷いた。


「俺のための、ね」


「そらさんのため?」


「そう。俺のこと、忘れないでくれたらうれしいな」


 なんとなく含みを感じる言い方に首を傾げると、彼は十希羽の後ろを指さした。そちらに首を向けると公園の入口に車が止まり、開いた窓から千草が手を振っているのが見えた。


「雨宿り混ぜてくれてありがとう。気を付けてね」


「…こちらこそ。あの、風邪ひかないでくださいね」


 最後まで気の利いた返事ひとつ言えずに車に向かう。軽く振り向くとそらはまだこちらを見ていて、手を振ってくれたから控えめに振り返した。


 車の助手席に乗り込むと、千草は窓を閉めた。十希羽は傘をシートが濡れないように気をつけながら後部座席の下に置く。

 すぐに出発しないことを不思議に思って千草を見ると、どうやらそらがいる四阿を気にしている様子だった。もしかして顔に出さないだけで彼のことが気になっていたのだろうか、とありもしない予想をしてみる。


「…十希羽、大丈夫だった?」


 こちらに顔の向きを変えた千草の質問の意味が分からず、首を傾げる。


「雨のこと?」


 それを聞いて十希羽の顔を見ながら一呼吸置いた千草は前に向き直って車を発進させた。


「うん。ま、大丈夫そうだね」


「電話でも言ったけど、そんなに濡れてないからね」


「ならよかった。あの人、仲良くなったの?」


 あの人とは言わずもがなそらのことだろう。さっきの微妙な間と言い、今の質問と言い、千草が一体なにを気にしているのかが掴めない。


「普通。そらって名前なことと年齢が私のひとつ上ってことくらいしか知らないし」


「そう。風邪ひかないといいね、結構濡れてたみたいだし」


 なんだ、ただの世間話か。

 

 なぜだか少し安心した直後に、「濡れてた」というワードでチューリップ柄のタオルを首にかけたそらの姿を思い出して気が付いた。


 …タオル、返してもらうの忘れちゃった。


 母への言い訳を考えながら、家に着くまで車の窓を伝う雨水を意味なく眺めた。


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