~花時雨~ ep.1
枕元で充電していたスマートフォンから通話を知らせる呼出音が鳴り響く。その音がスマートフォンに搭載された純正の呼出音ではなく、メッセージアプリの通話機能で使われているものであることから、見知った間柄の人物がかけてきていると予想される。
スマートフォンに背を向けて横向きの体勢で寝ていた十希羽は呼出音に反応して仰向けになった。
…朝から電話してくるような友達なんて。あー…いや、1人いるか。
寝ぼけ
「…はぁい」
十希羽の寝起き特有の少し低めな掠れた声に、通話先の相手は鈴を転がしたような笑い声を上げた。それを聞いて、十希羽は予想した通りの相手であることを確信した。
その相手は
「おはよー。今日は遅起きさんの日だったかぁ。起こしちゃってごめんね」
「…おはよ。今何時?」
「自分で時間確認する余裕もないくらい眠いじゃん。今は十時を超えたところだよー」
「昨日、飲み会があって遅かったの。イヤホンにするからちょっと待ってて」
「はいはーい」
小桃に指摘された通り、目を開けることに苦難するほど眠気が残っている。何とか体を起こして何度か目を瞬かせた。
ベッドを降りて机の上に置いてあるコードレスイヤホンをスマートフォンと接続して耳に入れる。
十希羽はスマートフォンを机に置いて、空いた両手でカーテンを勢いよく開けた。
実家暮らしの十希羽は一軒家の二階に自室を持っている。周りが同じく一軒家や田んぼが多いこともあり、日当たりは非常に良好。寝起きの目が眩むほどの明るい日差しが一気に部屋に入り込んでくる。
世界が眩しすぎる…。
太陽の光に理不尽な恨めしさを感じていると、耳元から小桃の「おーい、まだー?」という声が聞こえてきて慌てて意識を通話に戻す。
「ごめん、お待たせ。それでどうしたの?」
「あのね、履修登録もうしたかなーって」
小桃の言う履修登録とは言わずもがな、大学の授業の受講申請手続きのことだ。インターネットの専用ページから手軽に登録できる仕組みになっており、十希羽は数日前に済ませていた。
「したよ。必修以外で同じ科目あるかの確認?」
「そー。あと教科書を買いに行く日、合わせない?大学の近くに最近バズってるカフェがあるの。一緒に行こっ」
教科書販売の期間を考えると今日わざわざ電話をかけてくるほど性急ではない…もとい、もう少し寝ていたかったという気もしたが、十希羽の勝手な都合という自覚はあるので口には出さない。
小桃は流行りものが好きで、守備範囲内の話題になっていることにはとことん手を出してみるタイプだ。しかし、一人で何でもやるほど勇気はないらしい。知り合った時の自己紹介でわざわざミーハーであると宣言し、それに付き合ってもらうことはできるかと確認されたくらいだ。
小桃が楽しそうにカフェについて話しているのを聞いて相槌を打ちながらスケジュール帳を開く。話の内容はSNSで話題になっていることやその理由。
「それで、一番人気のあるメニューは」
…フレンチトースト。
「フレンチトーストなんだけどね…」
心の中の呟きと小桃の声が
実を言うと、そのカフェについては何度もSNSで見ているので小桃と同じくらいの情報量を持っている。
教科書の販売期間とカフェの開店日を照らし合わせながら日取りを決めると、十希羽はスケジュール帳にペンを滑らせた。
「いつも付き合ってくれて助かるー。ごめんね、ときちゃんは流行りとか興味ないのに」
「いいよ。小桃がいなかったら行かないようなところばかりでおもしろいし」
そんな返事をしながら心の中では謝罪のオンパレード。
…めちゃくちゃ興味ありますし、そのカフェも行きたいと思っていました。
カフェの話が一段落するとそれぞれ選択した授業を伝え合う時間に変わる。三年生ともなるとこれまでと比べて必修科目はずっと少なくなる。来期は小桃と被る授業があまりないことが分かった。
落胆する小桃を宥め、これからは時間を作って遊ぶことを約束すると電話を切った。
イヤホンを外してケースに戻すと、途端に部屋が静まり返ったような錯覚を起こす。窓を開けると冷んやりとした空気が十希羽の頬を撫でた。
目の前の道路を自転車が二台通り過ぎ、道には子どもの無邪気な笑い声が響いて残る。
もうひと眠り…。いや、もういいか。散歩にでもいけばすっきりするかな。
大きな欠伸をひとつして、クローゼットから適当な服を引っ張り出して着替えを済ませる。
階段の踊り場にある出窓に飾られた小さなサボテンを意味もなく数回つついてから降りるのが二階に自室をもらった頃からの癖だ。
洗面所でうがいと洗顔を終えてリビングのドアを開けると母がマグカップを持って目の前を通り過ぎた。
「あら、起きたの。おはよう、十希羽」
「おはよう、お母さん。今日、仕事じゃないの?」
両親ともに平日は共働きで、日中は顔を合わせない日が多い。小桃と通話した時にスケジュール帳に目は通しているが、今日が水曜日であることを改めて確認するために壁掛けカレンダーに視線を移す。
「
ふぅん、と返しながら足元に擦り寄ってきた坂井家の飼い犬である柴犬のマロの愛らしい顔をくしゃくしゃと撫でる。
千草というのは十希羽の六つ違いの姉で、社会人になってから実家を出て一人暮らしをしている。出たばかりの頃は頻繁に帰ってきていたが、最近では半年に一度帰ってくればいいほうだ。
「多分、そろそろくるわよ。一緒に待つ?」
「んー…いや、いいかな」
普段から連絡をとっていたり、一緒に出かけていたりすることもあり、帰ってくることに特別なにか思う節もなく、首を横に振った。
「散歩行ってくる。マロ連れてっていい?」
「もちろん。念の為、鍵は持って行ってよ」
「分かった」
名前がローマ字で掘られている家族でお揃いのグラスにウォーターサーバーから水を注いで、立ったまま飲み干す。
喉を滑る冷たい水が気持ちよく、少し目が覚めた気持ちがした。
散歩用のハーネスを手に取ると、マロはすかさず玄関まで飛ぶように走り出した。はしゃぎまわっているマロを制し、ハーネスを装着して立ち上がった。
「じゃ、行ってきます」
「はーい、いってらっしゃい」
玄関に置いてある十希羽用の鍵をマロの散歩バッグに放り込んで外に出た。
目的地は特に決めず、マロの行きたい方に従って歩く。空気はまだ冷たさを残しているが、チラチラと視界に入る薄い桃色に春の訪れを感じる。
今年はお花見行けるかなぁ…。
風邪を引いた昨年の春を思い返しながら、マロの気ままな進路決定に従って二十分ほど歩いた。
晴天だった空はいつの間にか雲が増え、徐々に太陽の光を遮るようになっていたことに気がつき、
「雨降るかなぁ、マロ」
話しかけた相手は呼ばれた名前に反応してかわいらしく首を傾げるのみだ。
すると、程なくしてまるで空が十希羽の言葉に応じたかのように雨粒を落とし始めた。
このサイズの雨粒は、ちょっとよろしくないなぁ…。
急速に雨足が強まる予感に十希羽はマロを抱き上げた。今いる場所から近く、雨から避難できそうな行き先には当てがある。
雨を認識してからそんなに時間は経っていないが、落ちてくる雨粒は次第に多くなってきた。バスから降りてくる人達がフードを被ったり、ジャケットを頭からかけたりしてバス停から去っていくのを横目に通り過ぎ、近くの公園に走り込んだ。
公園、といっても敷地は小さく、
ベンチに腰掛けてマロを下ろす。四阿から飛び出ることのないようにリードを手に巻いて短く持ち直した。
マロは十希羽を中心にぐるぐると忙しなく回りながら周囲の匂いを嗅いでいる。気になるものが特にないことを確認し終えたのか、地面に伏せて十希羽の靴に顎を乗せた。
「やっぱり、よろしくなかったね」
自分の予感が当たったことをポツリと呟いて近くの地面に弾ける雨粒を眺める。
ふと、マロが顔を上げた。先ほどの自分の声に反応してくれたのかとマロを見るとそんなことはなく、公園の入り口をジッと見つめている。
その視線を追うと、一人の男性が公園に駆け込んできているのが分かった。
ジャケットを頭から被ってはいるが、ほとんど意味がないんじゃないかと思う。
それほど雨足は強くなっていた。
「ご一緒してもいいですか?」
四阿に駆け込んできた彼は、律儀にも十希羽に声をかけてきた。
十希羽はふっとその相手を見上げ、わぁ、と言いそうなのをグッと堪えた。
ジャケットを下ろし、濡れた髪をかきあげた横顔は非常に整っており…端的に言えば十希羽の好みど真ん中だった。
声を抑えた自分を褒め讃えながら十希羽は
「もちろんです。どうぞ」
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