第9話 次の狩場と、忍び寄る影
フルダイブの暗転が明けると、網膜に焼き付くような激しい光の明転を経て、視界が一気にシステム構築されていく。
目の前に広がったのは、ひび割れたアスファルトの路地と、赤錆びた鉄骨が骨組みのように剥き出しになった、いつもの危険エリアの光景だった。
「あ、おじさん、おつー。待ってたよ」
崩れたコンクリートの塊に腰掛け、退屈そうにアバターの機能である手鏡ウィンドウで前髪をいじっていたルナが、俺の姿を認めてひらりと飛び降りてきた。地味な制服姿の金髪ギャル。その強烈なギャップにも、数日間のビジネスを経て、俺の目は随分と慣れてしまっていた。
「待たせたな。体調はどうだ?」
「ばっちり! 昨日入ったお金で、さっそく自分へのご褒美に、普段は行けないようなちょっと高めのカフェで山盛りのパフェ食べてきちゃった。糖分補給も完璧だし、今日もガンガン稼いじゃうよー」
ルナは細い腕を突き出して、小さくガッツポーズをしてみせる。やはり、ゲーム内のデータが現実の口座の数字に化けた影響は大きいらしい。現金という名の最高級ガソリンを注入された彼女の目は、次の獲物を探す肉食獣のように爛々と輝いていた。
「それは重労働に耐えられそうで何よりだ。だが、いつまでもこの入り口付近でネズミの小銭稼ぎを続けるわけにはいかない。ここにいるのは、せいぜい数千円から数万円レベルのドロップしか期待できない小者ばかりだからな」
俺は半透明のシステムウィンドウを目の前に呼び出し、マップのさらに内側に位置するエリアを指し示した。
「今日からは、ここに行く。商業ビル跡エリアだ。入り口付近よりも構造が立体的で複雑だし、何より身を隠せる死角が多い。その分、より高額な課金装備を持った『大物』がうろついているはずだ」
「お、いいね。おじさんの新しい煙のスキル、そういう狭くて暗い場所の方が絶対に刺さりそうだもん。……でも、あそこまで行くのって結構遠くない?」
「普通に地上の大通りを歩けばな。だが、このゲームの地形を調べた。危険エリアの入り口から次のエリアまでは、直通の廃止された地下鉄の線路跡が走っている。あそこをダッシュで突っ切れば、ものの数分で到着するはずだ」
「マジ? さすがサラリーマン、下調べが細かいわ。じゃ、サクッと移動しちゃおう」
俺たちはスタミナゲージの消費を気にしながら、崩落した地下通路の闇へと飛び込んだ。
線路の枕木を踏み鳴らしながら、俺は走りつつ自分のステータス画面を再度確認する。
後天スキルのスロットは『1/3』。現在セットされているのは、あの煤煙の中での十時間潜伏によってた伴に発現した【発煙】のみだ。まだ二つの空き枠がある。もし今後、新しい隠し条件を満たせばスキルが増えるはずだが、今のところその兆候はない。だが、現状はこの【発煙】と先天スキルの【接触読心】、出来ればルナの【無課金領域】の三つがあれば十分に戦える確信があった。
暗い地下道を走り抜けること、わずか三分。
前方に地上へと繋がる階段が見え、そこを駆け上がると、一気に周囲の景色が一変した。
それまでの平屋の民家や低い雑居ビルが並んでいた入り口付近とは異なり、十階建て以上の大型商業ビルが、爆撃でも受けたかのように無残にへし折れ、互いに折り重なるようにして立ち並んでいる。
頭上を巨大なコンクリートの斜面が覆い尽くしているため、昼間だというのに太陽の光がほとんど届かず、エリア全体が重苦しい薄暗さに包まれていた。ビル風が吹き抜けるたびに、錆びついた巨大な看板がキィキィと不気味な音を立てて揺れている。
「うわ、なんか一気にここ雰囲気エグいんだけど……。完全にホラーゲームじゃん」
ルナが少しだけ身を縮め、俺の制服アバターの袖をちょんと掴んだ。
「怖気づく必要はないさ。建物がデカくて立体的だということは、それだけ『金持ち』が好むレアアイテムのドロップポイントが多いということだ。つまり、重課金者たちが集まる絶好の猟場だよ」
俺は足元の瓦礫の影に身を潜め、目の前にある商業ビルのエントランス付近を観察した。
確かに、入り口付近をうろついていたプレイヤーたちとは、身につけている装備の輝きがまるで違っている。全身を淡い青色の光を放つ高級な魔力鎧で固めた剣士や、見るからに高額なリアルマネーで取引されていそうな装飾の施された杖を持つ魔法使いが、数人のパーティーを組んでビルの中へと消えていくのが見えた。
(あいつらの装備、もしハメ倒してドロップさせれば、ネットオークションで売って一発で数十万にはなるな……)
喉の奥がジリリと鳴るような、奇妙な渇きを覚える。一度現実で大金を掴んでしまったせいで、俺の脳も少しずつ、このゲームの残酷な経済システムに染まりつつあるのかもしれなかった。
「おじさん、あそこの崩れた柱の影とかどう? 私がいつも通りあそこにポツンと立ってれば、誰か一瞬で釣れそうじゃん」
ルナがビルの入り口付近にある柱を指差す。いつの間にか、彼女の方がおとり役にノリノリになって作戦を提案してくるようになっていた。
「待て。焦るな」
俺は彼女の手をそっと制し、周囲の『気配』に意識を集中させた。
サラリーマン時代、理不尽な上司の顔色を伺い、気難しい取引先の機嫌を察知するために嫌というほど磨き上げられた俺の「空気の乱れを察知する能力」が、妙な違和感を捉えていた。
何かが、決定的におかしい。
いつもなら、これだけ無防備でカモに見える無課金アバターを見つければ、血気盛んな重課金者たちがハイエナのように真っ先に飛びついてくるはずだ。だが、遠くに見えるプレイヤーたちは、俺たちの方を一瞬だけ見遣ると、何やらヒソヒソと気味の悪い話し合いを始め、そのまま距離を取るようにしてビルの中へと入っていく。
まるで、俺たちの存在をはじめから『警戒』しているかのように。
「ルナ、おかしいと思わないか。誰もこちらに近づいてこない」
「え? 嘘、私の大根芝居、ついに完全に見破られちゃった?」
「いや、そうじゃない。……情報が漏れている可能性がある」
俺の言葉に、ルナの表情が初めてピキリと強張った。
いくらネット上のネームプレートが表示されない仕様だとはいえ、俺たちはここ数日、危険エリアの入り口付近で何度も同じ手口を繰り返してきたのだ。殺された連中が腹いせに、ネットの攻略掲示板やSNSで『初期装備の無課金おじさんとギャルのコンボに気をつけろ』『半径五メートルに入るとバフが消える』と、注意喚起の書き込みを共有していても何ら不思議ではない。
もし俺たちの手口が完全に割れているのだとしたら、次に来るのは『油断したカモ』ではない。
俺たちの能力を事前に把握し、それを完璧に潰すための対策を練ってきた『本物の狩人』だ。
その時、背後の崩落した地下道へと繋がる暗闇から、金属が擦れ合う無機質な足音がいくつか響いた。
「――おい、見つけたぞ。例の『課金殺し』の二人組だ」
低く、冷徹な男の声。
振り返ると、そこには黒いマントを羽織り、不気味な鉄の仮面で顔を隠した三人組のプレイヤーが静かに立っていた。彼らの手にある武器には、これまでの有象無象とは一線を画す、禍々しい紫色のオーラが滾(たぎ)っている。
「やっぱり、無課金の初期アバターのままだな。……舐められたものだ」
男の一人が、こちらの装備を見下すように嘲笑った。
彼らはルナの【無課金領域】の有効射程を完全に熟知しているかのように、正確に『六メートル』の距離を保って扇状に展開し、俺たちを完全に包囲した。
「おじさん……!」
ルナの声が緊張で鋭く震える。
おとりをハメるはずが、逆に完璧に包囲され、ハメられた。
商業ビル跡エリアの薄暗い闇の中、俺たちの前に、最初の本当の『壁』が立ちはだかろうとしていた。
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