第8話 半額コロッケからの卒業

土曜日の朝。カーテンの隙間から差し込む陽光で、俺は目を覚ました。


いつもなら、仕事の疲れと借金の重圧で泥のように重い身体を引きずるようにして起きる時間だ。だが今朝は、不思議と頭が冴えていた。

頭に被っていた使い古しのフルダイブデバイスを外し、ベッドの脇に置く。


シーツに寝転んだままスマホを掴み、ネットバンキングの画面を開いた。


「……本当に、振り込まれてる」


画面に表示された預金残高をみて、乾いた笑いが漏れた。

昨日、危険エリアでの一戦で手に入れた取り分、十九万二千円。それまでのネズミの荒稼ぎで貯まっていた分を合わせて、俺の口座には約二十五万円の現金が存在していた。


少し前までは、スマホ決済の残高が数百円しかなく、仕事帰りにマクドナルドで一番安いコーヒーを頼んで時間を潰すのすら躊躇していたのだ。ゲームの中のデータが、現実の日本円に変わる。その事実を文字通り目にした瞬間、心臓がトクンと力強く跳ねた。


俺はそのまま消費者金融の返済ページにアクセスし、十万円を入力して振込ボタンを押した。


これまでは毎月、利息を返すのが精一杯で、元金は一向に減らなかった。真綿で首を絞められるような、終わりが見えないどん詰まりの生活。

それが、たった数回のプレイで、二百万円あった借金が百九十万円に減った。


まだ先は長い。だが、何年もビタ一文減らなかった鉄壁の数字が、自分の力で確かに動いたのだ。この小さな、しかし確かな一歩が、胸の奥にこびりついていた焦燥感を少しだけ溶かしていく。


「ふぅ……」


スマホをベッドに放り投げ、天井を見上げる。

ほんの少し、本当にほんの少しだけだが、胸のつかえが取れて呼吸が軽くなった気がした。


昼過ぎ。俺は数ヶ月ぶりに、いつもの激安スーパーを通り過ぎて駅前へと歩いていた。


いつもなら夕方以降に足を運び、「半額」のシールが貼られた冷めきったコロッケと、一番安い発泡酒をカゴに放り込んで終わる。それが俺の日常のすべてだった。

だが今の俺の懐には、借金を返してもなお、数万円の余裕がある。


向かったのは、駅前にある一人焼き肉の専門店だった。

いつもなら煙の匂いだけを嗅いで素通りしていた、サラリーマンや学生で賑わう店。


カウンターの端の席に座り、一番高い『特上カルビ・ロース定食』を注文した。それから、発泡酒ではない、本物の生ビールも。


運ばれてきたビールジョッキを凝視する。きめ細やかな白い泡が、昼の光を浴びて黄金色に輝いていた。


「……うまい」


喉を鳴らして流し込んだ液体は、いつも飲んでいる安物とは比べ物にならないほど深いコクと苦味があった。

続いて、網の上でジュージューと音を立てて焼ける肉をタレに潜らせ、白米と一緒に口に放り込む。


溢れ出す肉汁と、濃厚なタレの風味が口いっぱいに広がった。

咀嚼するたびに、身体の細胞が隅々まで覚醒していくような感覚。


(ああ、俺は生きてるな)


大袈裟ではなく、本気でそう思った。

毎日毎日、すし詰めの満員電車に揺られ、結城のような要領のいい若造に置いていかれ、ただ消費されるだけだった俺の毎日に、確かな「色」が戻ってくるのを感じた。


肉を噛み締めながら、俺は静かに、だが強固な決意を固めていた。


このゲームなら、いける。

あのクソみたいなスキル【接触読心】と、ルナの【無課金領域】。 shadow、誰もが見捨てた【発煙】のコンボがあれば、あの理不尽な危険エリアでどこまでも便乗して這い上がれる。


目標は明確だ。

まずはあのゲームで、残りの借金百九十万円を綺麗に完済する。

消費者金融からの無機質な督促に怯える日々を終わらせ、俺の人生をやりなおすんだ。


「……ごちそうさまでした」


支払いを済ませ、店を出る。

見上げる空は、昨日までと同じ曇り天のはずなのに、なぜかひどく鮮やかに見えた。


アパートの部屋に戻り、ベッドに腰掛けたタイミングで、スマホが短く震えた。

画面を見ると、メッセージアプリにルナからの着信通知が入っている。


『おじさん起きてる? 昨日分のお金、無事に口座に入ってた! マジで神。家賃払えたわ笑』


ギャルらしい絵文字混じりのメッセージに、俺は少しだけ口元を緩め、慣れないフリック入力で返信を打った。


『それは良かった。無駄遣いはするなよ』


『おじさんみたいなこと言わないでよ笑。で、次いつログインする? 私いつでもいけるけど』


ルナの方も、この「ビジネス」の旨味に完全に味を占めているらしい。お互いに現実の事情は深く詮索しないが、金が必要だという一点において、これ以上ないほど信頼できる相棒だ。


『今から入る。危険エリアの、いつものビルの影で落ち合おう』


『りょ! 先に行って待ってるねー』


ネットの向こう側に、自分と同じように必死に現実を生きている人間がいる。そう実感できるだけで、この孤独な泥仕合が少しだけ救われる気がした。短いやり取りを終え、俺はスマホを枕元に置いた。


ベッドの上の重たいデバイスを再び頭へと被る。


待っていろよ、、、

四十歳の手前、底辺のおじさんの本気の逆襲は、まだ始まったばかりだ。

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