第一章「聖人の朝」

 カシアンが目を覚ますのは、いつも夜明けの四刻(よつどき)前だった。


 眠りが浅いのか、それとも眠るという行為そのものが身体から遠ざかりつつあるのか、判断がつかなくなって久しかった。ただ、一定の時刻になると意識が浮上する。誰かに呼ばれたわけでも、物音がしたわけでもない。長年の習慣が、身体に刻まれているだけだった。


 瞼(まぶた)を開けた瞬間から、重かった。


 天井を見上げる。石造りの、何の装飾もない天井。十五年間、毎朝見てきた天井。見慣れすぎて、もはや認識する前に通り過ぎていく。


 身体を起こした。右肩から鈍い痛みに似た何かが走った。「痛み」と呼んでいいのかどうか、最近は自信が持てない。触覚が薄れてから、痛覚(つうかく)の輪郭も曖昧(あいまい)になってきた。あるのかないのか、ある気がするだけなのか。記憶の中にある「痛い」という感覚と照合して、近いかどうかを判断するだけになっていた。


 右腕の袖(そで)を捲(まく)る。


 朝の確認。これも習慣だった。


 手首から前腕(ぜんわん)にかけて、金色と白銀の紋様が走っている。光を受けると僅(わず)かに発光する。夜明け前の薄暗い部屋の中でも、うっすらと自ら光を放っていた。美しいと言う者もいた。神殿の上層部はそう言った。「神化(しんか)の証(あかし)だ」と言って、むしろ誇らしげに語った。


 カシアンは袖を引き下ろした。


 美しいかどうかなど、どうでもよかった。ただ、昨夜より侵食(しんしょく)が進んでいないかを確認する。今朝は変わりなかった。胸元(むなもと)まで、昨日と同じ範囲。昨夜の浄化(じょうか)は比較的小規模だったから、当然だった。


 水差しの水を一杯飲んだ。


 味はしない。水を飲んでいるという認識だけがあった。冷たさも、喉(のど)を通る感触も、三年前と比べればずいぶん薄くなっている。それでも飲む。身体が水分を必要としているから。それだけの理由だった。


 外套(がいとう)を羽織り、部屋を出た。



    ※



 夜明け前の神殿(しんでん)は静かだった。


 石畳(いしだたみ)の廊下(ろうか)を歩く音が、自分の足音だけ響く。燭台(しょくだい)の火が等間隔に灯(とも)されていた。誰かが灯している。カシアンより早く起きている者がいる。ただ、その者がカシアンに気づいて何か言ったことは、ほとんどなかった。


 正門(せいもん)を出て、国境の丘へ向かう。


 朝の空気は冷たかった。頬に当たる風を、冷たいと感じているのか、冷たいと記憶しているのか。その境界が曖昧になっている。おそらく、感じてはいる。ただ、以前ほど鮮明ではない。


 丘に着いた。


 東の空の端が、まだほんの僅かに白んでいるだけだった。夜と朝の境目。カシアンが最も長く立ってきた時間帯だった。


 目を閉じ、両手を広げる。


 聖力(せいりょく)が滲(にじ)み出てくる感覚がある。手首から肘(ひじ)へ、肘から肩へ、肩から胸元へ。紋様が熱を帯びる。熱、と呼んでいいのかどうかも怪しいが、それに近い何かがある。


 国境の結界(けっかい)に意識を伸ばす。


 東の端から始めて、北へ、西へ、南へと確認していく。結界は生き物のように、常に微細な変動をしている。強い部分と弱い部分がある。昨夜から今朝にかけて弱まった箇所(かしょ)を特定して、補強する。これを毎朝繰り返す。


 三十分ほどかかった。


 補強を終えると、また何かが削られていく感覚があった。幸福の消耗(しょうもう)。燃料として使われていくもの。何が燃えたのか、もうわからない。ただ、燃えた後の空洞(くうどう)だけが増えていく。


 「楽しかったはずなのに、なぜ楽しかったのか思い出せない」という状態になったのは、いつ頃からだっただろう。


 五年前か。もっと前か。


 記憶はある。辺境の村で、母親と川沿いを歩いた記憶がある。水面(みなも)が光っていた記憶がある。それが楽しかった、という認識もある。しかしその時感じたはずの感情が、どこにもない。記憶の中に「楽しかった」という注釈(ちゅうしゃく)だけが残っていて、感情そのものが消えている。


 燃やし尽くしたのだろう。


 その記憶の感情を。いつかの祈りの燃料として。


 カシアンは目を開けた。空がわずかに明るくなっていた。


 神殿へ戻る道を歩きながら、ふと思った。もし今、誰かに「最近どうですか」と聞かれたら、何と答えるだろう。


 答えが出なかった。


 「どう」という問いに対応する感情の在庫が、もう十分ではなかった。



    ※



 神殿に戻ると、朝議(ちょうぎ)の準備が始まっていた。


 大広間に向かう途中、神殿の侍女(じじょ)の一人がカシアンを見て、すぐに視線を逸(そ)らした。一年ほど前まではそうではなかった。「おはようございます」と言ってくれる者が何人かいた。今は誰もそう言わなかった。何かが変わったのはわかっていた。ただ、その変化に対して何かを感じる余裕が、カシアンにはなかった。


 大広間に入ると、すでに神殿長(しんでんちょう)と上層部の数人が揃っていた。


 「待っていた」と神殿長が言った。待っていたわりに、礼の言葉はなかった。「南方三州(なんぽうさんしゅう)の件だ。昨日報告した疫病の件、状況が悪化している」


 「詳細を」


 「感染者が昨日の倍になった。隣接する村にも広がり始めている」


 カシアンは頷いた。「今日の午後に向かいます。移動に二刻(ふたこく)、浄化の処置に三刻から四刻。夜までには収束できます」


 「朝から向かうわけにはいかないのか」


 「今朝の結界補強を終えたばかりです。少し回復の時間が必要です」


 「なるべく早く頼む」


 それだけだった。


 カシアンは「承知しました」と言って頭を下げた。


 朝議はその後も続いたが、カシアンに関係する議題は他になかった。東の国境近くで魔物の目撃情報があった件については、「聖人が対応するまでもない、騎士団で処理する」という結論になった。カシアンは何も言わなかった。言う必要がないと判断したわけではなく、言う気力がなかった。


 広間を出ようとしたとき、貴族の一人に呼び止められた。


 壮年(そうねん)の男だった。王家の遠縁にあたる貴族だと記憶していた。名前は思い出せなかった。以前は思い出せた気がするが、今は顔と立場しか残っていなかった。


 「聖人よ」と彼は言った。「最近、結界の強度が落ちているという話を聞いたが」


 カシアンは止まった。「そのような事実はありません。今朝も確認と補強を行いました」


 「そうか。しかしセラフィナ嬢が、このところ結界が薄く感じると言っていたのでな」


 カシアンは何も言わなかった。


 セラフィナ。その名前が出るようになって、どのくらい経つか。最初に聞いたのは三ヶ月ほど前だったか。「聖力を持つ少女が現れた」という噂が広まり、神殿中が沸いたあの日から。


 「聖力を感じる能力と、結界の強度を正確に測定する能力は別物です」とカシアンは言った。「結界の強度は数値で確認できます。必要であれば記録を」


 「いや、構わない」と貴族は手を振った。「ただ聞いておきたかっただけだ」


 それだけで、立ち去った。


 カシアンはしばらくそこに立っていた。


 怒りがあったか。少し考えた。あったかもしれない。しかし確認する手段がなかった。怒りという感情の輪郭が、もう曖昧だった。不快だという認識はある。しかしそれ以上に広がらない。


 朝食を取りに食堂(しょくどう)へ向かった。



    ※



 食堂には数人の神官(しんかん)がいた。


 カシアンが入ると、会話が止んだ。誰かが咳払(せきばら)いをした。カシアンは気にせず、端の席に座った。


 運ばれてきたのはパンと野菜のスープだった。


 スプーンを持ち、スープを一口飲んだ。


 味はしなかった。


 正確には、かすかに何かがある気がした。塩味に似た何か。しかし「しょっぱい」という感覚と照合しても、一致しない。薄いのか、感覚が鈍いのか。おそらく後者だった。


 機械的に食べた。パンを千切(ちぎ)り、スープに浸し、口に運ぶ。必要な動作を繰り返す。身体が機能するための燃料。それ以上でも以下でもなかった。


 向かいの席で、若い神官が二人、小声で話していた。


 「……セラフィナ様が昨日、東の村で祈られたそうだ」


 「ああ、聞いた。住民の方々がとても感謝されていたとか」


 カシアンはパンを口に運ぶ手を止めなかった。


 東の村。昨日の午前中にカシアンが浄化した村だった。疫病の初期症状が出始めていた小さな集落(しゅうらく)で、カシアンが浄化フィールドを展開して抑えた。住民に会ったわけではなかった。目立たず、静かに、処置だけして戻った。いつもそうだった。


 「聖人様より、セラフィナ様のほうが感じがいいよな」と若い神官の一人が言った。「話しかけやすいというか」


 「聖人様は……なんか怖いじゃないか。最近特に」


 「無表情だしな。何考えてるかわからない」


 カシアンはスープの残りを飲み干した。


 怖い。無表情。何を考えているかわからない。


 おそらく正しかった。感情が薄れれば、表情も薄れる。表情を作る燃料も、幸福の記憶から来るものだから。笑い方は知っている。ただ、笑う理由が見当たらない。それだけのことだった。


 食器を下げて、食堂を出た。


 廊下を歩きながら、思った。


 あの二人の神官に悪意はなかったかもしれない。ただ思ったことを言っただけかもしれない。しかしその言葉がカシアンの中に何かを落としていった。不快、とも少し違う。


 確認しようとして、止めた。


 感情を確認する作業が、最近ひどく疲れる。あるのかないのか、あるとすれば何なのか、それを突き止めようとするたびに、空洞の深さを測っているような気分になる。


 午後の出発まで、少し休むことにした。



    ※



 南方三州への移動は、馬で二刻かかった。


 到着した村は、見た目には平静を保っていた。しかし空気に滞(よど)みがあった。カシアンには感じ取れた。疫病が広がっている地域特有の、重く濁った気(き)の流れ。清浄なものが失われていく匂い、ではなく、それに相当する何かの認識。嗅覚が薄れてからは、「匂い」ではなく聖力を通じた感知になっていた。


 村長(そんちょう)が出迎えた。初老の男だった。


 「お越しいただき……」と言いかけて、止まった。カシアンの顔を見た瞬間、わずかに表情が強張(こわば)った。何を見たのか。聖痕(せいこん)か。無表情か。おそらく両方だった。


 「始めます」とカシアンは言った。


 広場の中央に立ち、目を閉じた。


 聖力を展開する。今度は広域(こういき)だった。村全体を覆う浄化フィールド。範囲が広いほど消耗は大きい。しかし一点集中よりも効果が確実だった。疫病の菌(きん)は目に見えない。隅々まで届かせる必要がある。


 光が広がった。


 金色と白銀の光が、カシアンの足元から同心円状(どうしんえんじょう)に広がっていく。建物の壁を透過し、地面に染み込み、空気を浄化する。住民たちが広場の縁から見ていた。誰かが息を呑む声がした。


 カシアンには聞こえていた。しかしそちらを見なかった。


 集中を切らすわけにはいかない。広域浄化は精度が命だった。一箇所でも取りこぼせば、そこから再び広がる。


 三刻ほどかかった。


 浄化を終えた時、カシアンの聖痕は顎(あご)の手前まで浮かびあがっていた。大規模な処置の後はいつもそうだった。一時的なものだが、しばらくは引かない。


 村長が近寄ってきた。


 「ありがとうございます」と彼は言った。「おかげで……」


 カシアンは頷いた。


 「ご苦労だったでしょう」と村長は続けた。「お身体は……」


 珍しかった。


 そう言われることが、最近はほとんどなかった。身体の心配をされること。形式的なものかもしれない。社交辞令かもしれない。それでも、言葉として存在した。


 「問題ありません」とカシアンは言った。


 それ以上の言葉が出なかった。出し方がわからなかった。「ありがとうございます」と返すべきだったかもしれない。しかし言葉が形になる前に、機会が過ぎた。


 馬に乗り、帰路(きろ)についた。



    ※



 神殿に戻ったのは夜の五刻(いつつどき)を過ぎた頃だった。


 夕食の時間はとうに過ぎていたが、食堂に顔を出す気になれなかった。部屋に戻り、持参していた堅パンを一枚食べた。味はしなかった。水で流し込んで、それで終わりにした。


 机の前に座り、今日の記録をつけた。


 南方三州、某村(ぼうそん)、疫病浄化、広域処置、所要時間三刻、異常なし。


 それだけ書いた。毎日同じような記録が積み重なっていた。日付が違うだけで、内容はほとんど変わらない。これが十五年分あった。


 筆を置いて、右腕の袖を捲った。


 聖痕を確認する。今日の浄化で首筋まで広がっていた紋様は、少し引いていた。胸元まで戻っている。引くのに時間がかかるようになってきた。一年前は翌朝には肘(ひじ)まで戻っていた。今は胸元で止まる。


 侵食が進んでいる。


 神殿の上層部はそれを「神化(しんか)が加速している」と呼んで喜ぶだろう。最終的に肉体が聖なる結晶へと変質し、生きたまま人でなくなる。それを「神化(しんか)」と呼んで、名誉だと言う。


 カシアンには名誉には感じられなかった。


 緩やかな死刑宣告に感じられた。それも、苦痛のない死ではなく、少しずつ人間でなくなっていく死だった。


 ただ、それを誰かに言ったことはなかった。


 言ったところで、何も変わらないとわかっていたから。


 横になった。


 眠れるかどうかわからなかった。最近は眠れる夜と眠れない夜が半々だった。眠れない夜は、ただ天井を見上げていた。考えることもなく、感じることもなく、ただ夜明けを待つ。


 今夜はどちらになるか。


 目を閉じながら、思った。


 南方の村の村長が「お身体は」と言ってくれた。その言葉が、なぜかまだ残っていた。感情として残っているのではなく、ただ記憶として残っている。温かかった、という注釈(ちゅうしゃく)だけが添えられた、空洞の記録として。


 温かい、という感覚も、もう薄れてきていた。


 誰かに触れられても、「触れられているな」という認識だけがある。温度の差が曖昧になってきた。


 いつか、何も感じなくなる日が来るのだろう。


 その日を怖いと思えるうちは、まだ人間なのかもしれない。


 そんなことを考えながら、意識が薄れていった。



    ※



 翌朝も、夜明けの四刻前に目が覚めた。


 身体が重かった。昨日と同じように。明日も同じように重いだろう。


 袖を捲り、聖痕を確認する。


 起き上がり、水を飲む。


 外套を羽織り、部屋を出る。


 廊下を歩く。今朝も、すれ違った神官が視線を落とした。


 丘に着く。空がまだ暗い。


 目を閉じ、両手を広げる。


 聖力が滲み出てくる。また何かが削られる。


 何が削られたのか、もうわからない。


 でも、祈った。


 それだけが、カシアンの十五年間だった。


 それでも俺は、もう少しだけ祈り続けた。

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