第5話 聖女からの招待状

「聖女様が、私に会いたがっている?」


ヴィオレッタは、思わず聞き返した。

朝食の席。

長いテーブルの向こうには、

父であるローゼンベルク公爵が座っている。


その隣には、一通の白い封書が置かれていた。

封蝋に刻まれているのは、ルミナス大神殿の紋章。

太陽と、白い百合。

聖女を象徴する印だ。


「今朝、大神殿から届いた」


公爵は、感情のない声で答えた。


「三日後、聖女が王家の使者と面会する。

その場に、お前も同席するよう求めている」


「なぜ、私が?」


「それを確かめるために、会うのだろう」


公爵は、銀のナイフで肉を切り分けた。

まるで、聖女から名指しされたことなど、

大した問題ではないような態度だった。


けれど、ヴィオレッタの頭の中では

警鐘が鳴り続けている。


聖女は、すでに現れていた。

しかも、ゲーム本編より三年も早く。

その聖女が、自分に会いたがっている。


あり得ない。


ゲームでは、聖女とヴィオレッタが

初めて顔を合わせるのは、

王立学園の入学式だった。


聖女が十五歳。

ヴィオレッタも十五歳。

アルベルトたち攻略対象と、

主要人物が初めてそろう場面。

そこでヴィオレッタは、聖女の存在を知る。


そして婚約者であるアルベルトが、

聖女へ親切にする姿を見て、嫉妬を覚える。

物語の始まり。

破滅の始まり。

けれど今は、まだ十二歳だ。


入学式も。

断罪も。

恋愛イベントも、何一つ始まっていない。

それなのに、聖女のほうから自分へ近づいてきた。


「お断りすることは、できませんか?」


ヴィオレッタの言葉に、公爵の手が止まった。


「理由は」


「聖女様とは、まだ何の面識もございません」


「だから、会うのだ」


「ですが――」


「王家も同席する」


公爵は、冷たい目を向けた。


「聖女と良好な関係を築ければ、

ローゼンベルク家にとって大きな利益となる」


利益。

やはり、それしか考えていない。

娘が聖女から何を求められるのか。

危険はないのか。

そんなことは、どうでもいいのだ。

利用できるか。

家の力になるか。

父にとって重要なのは、それだけ。


「聖女に気に入られろ」


公爵は、命令するように言った。


「お前は王太子妃となる身だ。

今後、聖女と関わる機会も増えるだろう」


関わる機会など、増やしたくない。

むしろ、一度も関わらずに生き延びたい。

けれど、そう言えるはずもなかった。


「承知いたしました」


ヴィオレッタは、静かに頭を下げた。

表情は崩さない。

声も、震わせない。

けれどテーブルの下では、

小さな手を強く握りしめていた。


     ◇


朝食を終えると、ヴィオレッタは自室へ戻った。

マリーが扉を閉めた瞬間。

彼女は、椅子へ崩れるように座った。


「最悪……」


「お嬢様?」


マリーが、心配そうに駆け寄る。


「どこか、お加減が?」


「身体は大丈夫よ」


問題なのは、状況だ。

ヴィオレッタは、机の上へ封書を置いた。

父から渡された、神殿の招待状。

上質な紙に、整った文字が並んでいる。


『聖女リリア様のご希望により、

ヴィオレッタ・ローゼンベルク公爵令嬢

との面会を願う』


聖女リリア。

その名前は、ゲームの主人公と同じだった。

本名ではない。

記憶を失った彼女が、神殿で与えられた名前。


ゲームの聖女も、

目覚めた直後は自分の名を覚えていなかった。

神殿の庭に咲いていた、白いリリアの花から、

その名を選ぶ。

そこまで、同じだ。


ならば彼女は、間違いなくゲームの主人公。

聖女リリア。

ヴィオレッタを、

どのルートでも死へ追いやる存在。


「どうして……」


ヴィオレッタは、招待状を見つめた。


「どうして、私なの?」


ゲームでは、聖女は心優しい少女だった。

ヴィオレッタに嫌がらせをされても、

簡単には憎まない。

けれど、彼女が望むと望まざるとにかかわらず、

ヴィオレッタは死ぬ。


聖女ルートを完成させるために。

主人公の幸福を、より輝かせるために。

悪役令嬢は、最後に罰を受けなければならない。

ゲームの構造そのものが、そうなっていた。


もしかすると。

聖女が自分を呼んだのも、

新しい死亡イベントなのではないか。

出会いが早まっただけで、

物語はすでに自分を殺す

準備を始めているのかもしれない。


「お嬢様」


マリーの声で、ヴィオレッタは顔を上げた。


「聖女様にお会いになるのが、

そんなにお嫌なのですか?」


嫌だ。

怖い。

会いたくない。

そう正直に言えたら、どれほど楽だろう。


けれど、聖女を恐れている理由を

説明することはできない。

三年後。

自分が処刑されるから。

毒殺されるから。

塔から落とされるから。

魔物に食い殺されるから。

そんなことを言えば、気が触れたと思われる。


「少し、不安なだけよ」


ヴィオレッタは、無理に微笑んだ。


「聖女様は、とても尊い方なのでしょう?」


「はい。王都では、

すでに奇跡のお話で持ち切りでございます」


マリーは、目を輝かせた。


「黒く濁った魔石を、

たったお一人で浄化なさったそうです」


「そう」


ゲーム通りだ。

聖女リリアが、最初に起こす奇跡。

本来なら、

三年後の本編開始直後に描かれるイベント。

それが今、すでに起きている。


なぜ。

自分が転生したことで、物語が早まったのか。

それとも、ほかの誰かが筋書きを変えたのか。

あるいは、ゲームの世界だと思っているだけで、

ここはよく似た別の世界なのか。

分からない。

分からないことが、多すぎる。


「マリー」


「はい」


「聖女様について、できるだけ調べてほしいの」


マリーは、驚いたように目を瞬かせた。


「私が、ですか?」


「そう。神殿へ出入りする商人や、

使用人の噂でも構わないわ」


「ですが、なぜ……」


「お会いする前に、

どのようなお方か知っておきたいの」


嘘ではない。

けれど、本当の理由でもない。

ヴィオレッタは、

聖女がゲーム通りの人物なのか確かめたかった。


性格。

言葉遣い。

好きなもの。

嫌いなもの。

ゲームとの違いがあれば、今後の手がかりになる。


「かしこまりました」


マリーは、素直にうなずいた。


「できる限り、調べてまいります」


「お願い」


そのとき。

扉の外から、控えめな声が聞こえた。


「お嬢様。家庭教師のグレイ先生がお見えです」


ヴィオレッタは、顔をしかめそうになった。

公爵令嬢としての授業。

歴史。

礼儀作法。

語学。

音楽。

転生してから毎日、朝から夕方まで続いている。

本当なら、十二歳の少女がこなせる量ではない。


けれど元のヴィオレッタは、

一度も弱音を吐かなかったらしい。

父に認められるために。

王太子妃にふさわしいと、証明するために。

必死だったのだろう。


「分かったわ。すぐに行くと伝えて」


返事をし、ヴィオレッタは立ち上がった。

今は、授業を休むわけにはいかない。

父へ疑われずに、生き残る力をつける。

知識も。

人脈も。

お金も。

自由を得るためには、すべて必要だ。


「聖女に会うまで、あと三日……」


小さく呟く。

逃げられないなら、準備するしかない。

聖女が敵か。

味方か。

それとも、自分を死へ導く運命そのものなのか。

会えば、何か分かるかもしれない。


そう思う一方で、

胸の奥には奇妙な感覚が残っていた。

聖女リリア。

その名を思い浮かべると、

なぜか雨の音が聞こえる。

そして、自分の名を呼ぶ懐かしい声が。


     ◇


その日の午後。

歴史の授業を終えたヴィオレッタは、

剣術訓練場へ向かっていた。

公爵令嬢に、剣術は必要ない。


けれどヴィオレッタは、父へ頼み込み、

護身術という名目で訓練を受ける許可を得ていた。

理由は、単純だ。

自分の死亡ルートには、

暴力によるものが多すぎる。

暗殺。

暴漢。

魔物。

処刑。

逃げるだけでは、限界がある。


戦えなくてもいい。

せめて、一撃目を避ける方法。

拘束から逃げる方法。

助けが来るまで、生き延びる方法。

それだけは、身につけておきたかった。


訓練場には、一人の騎士が待っていた。

灰色の髪。

褐色の肌。

左の眉から頬へ、細い傷痕が走っている。


ローゼンベルク家の騎士団長、ガルド・ベイン。

ゲームでは、名前だけ登場した人物だ。

ヴィオレッタが処刑される直前。

公爵家の騎士たちは、

誰一人として彼女を助けなかった。

その中に、ガルドもいたはずだ。


「お待ちしておりました、お嬢様」


ガルドは、片膝をついた。


「本日から、私が護身術をお教えいたします」


「よろしくお願いします」


ヴィオレッタは、木剣を受け取った。

十二歳の身体には、思ったより重い。

両手で持っても、剣先がふらつく。

ガルドは、その様子を静かに観察していた。


「まずは、構え方からです」


言われた通りに、足を開く。

腰を落とす。

木剣を、胸の前へ構える。

だが数秒もしないうちに、腕が震え始めた。


「重い……」


思わず漏れた声に、

ガルドの眉がわずかに動いた。


「無理もございません。

お嬢様には、まだ重すぎます」


「なら、軽いものは?」


「ございますが」


ガルドは、少し言いにくそうに口を閉じた。


「何?」


「こちらの木剣は、少し重すぎるようです。

軽いものへ替えましょう」


「お願い」


ガルドは一瞬、意外そうな顔をした。

公爵令嬢なら、軽い剣を子ども扱いだと

嫌がると思っていたのかもしれない。


まただ。

以前のヴィオレッタ。

陽菜が知らない、この身体の持ち主。

彼女の残した言動が、

至るところに影を落としている。


「今の私は、怒らないわ」


ヴィオレッタは、木剣を下ろした。


「重くて扱えない剣を持っていても、

訓練にはならないでしょう?」


ガルドは、驚いたように目を細めた。


「おっしゃる通りでございます」


彼は従者へ合図し、小さな木剣を持ってこさせた。

今度は、片手でも持ち上げられる。


「これなら、大丈夫です」


「では、始めましょう」


最初に教えられたのは、剣の振り方ではなかった。

危険を察知したときの立ち位置。

相手との距離。

逃げ道を、常に確認すること。


「護身の目的は、

相手を倒すことではございません」


ガルドは、淡々と説明した。


「生きて、逃げることです」


その言葉に、ヴィオレッタは強くうなずいた。


「私も、そう思います」


勝つ必要はない。

格好よく戦う必要もない。

生き残れれば、それでいい。

ガルドは、木剣を構えた。


「では、私が手首を掴みます。

振りほどいてみてください」


「分かりました」


ヴィオレッタが、右手を差し出す。

次の瞬間。

ガルドの大きな手が、細い手首を掴んだ。


強い。

指が、食い込む。

痛みで、顔が歪みそうになる。


「力で引いても、逃げられません」


ガルドの声が、低く響く。


「相手の親指の方向へ、手首をひねるのです」


言われた通りに、腕を動かす。

けれど、うまくいかない。

焦るほど、動きが乱れる。


「もう一度」


掴まれる。

振りほどく。

失敗する。

もう一度。


何度も繰り返すうちに、手首が赤くなった。

皮膚が擦れ、じんじんと痛む。

それでも、ヴィオレッタはやめなかった。

一度目の人生では、何もできなかった。


トラックが迫ってきたとき。

姉の手を掴むことも。

逃げることも。

生き残ることも。

できなかった。


今度は、ただ殺されるのを待つつもりはない。


「もう一度、お願いします」


ガルドは、赤くなった手首を見た。


「本日は、ここまでにされては」


「まだ、できます」


「しかし」


「お願いします」


ヴィオレッタは、まっすぐ彼を見た。


「私は、弱いままでいたくありません」


ガルドの表情が、わずかに変わった。

哀れみでも。

呆れでもない。

初めて、

一人の訓練相手を見るような鋭い目になった。


「承知いたしました」


もう一度、手首を掴まれる。

今度は、相手の親指を見る。

肘を曲げる。

身体を、横へひねる。


「……っ!」


痛みをこらえ、一気に腕を抜いた。

小さな手が、ガルドの拘束から外れる。


「できた……」


ヴィオレッタは、自分の手を見つめた。

たった一度。

それだけのことなのに、胸が熱くなった。


未来は、変えられる。

小さくても。

今できることを、積み重ねれば。


「お見事です」


ガルドが、初めて笑った。

ほんの少しだけ。

けれど、確かに笑っていた。


その瞬間。

訓練場の外から、甲高い悲鳴が響いた。


「きゃあああっ!」


ヴィオレッタは、反射的に振り返った。

マリーの声だ。

木剣を放り出し、外へ走る。


「マリー!」


訓練場の裏手。

生け垣のそばで、マリーが地面へ座り込んでいた。

その前には、一人の男が倒れている。


粗末な服。

泥に汚れた靴。

使用人ではない。

男の右手には、短い刃物が握られていた。

腹部には、矢が突き刺さっている。

血が、石畳の上へゆっくりと広がっていた。


「お嬢様、下がってください!」


ガルドが、ヴィオレッタの前へ出る。

周囲の騎士たちが、倒れた男を取り囲む。

男は、まだ生きていた。

口元から血を流しながら、

苦しそうに息をしている。


「誰……?」


ヴィオレッタの声が、震えた。

ガルドは、答えなかった。

倒れた男の視線が、ヴィオレッタへ向く。

濁った目。

憎しみと。

恐怖。

そして、絶望。

男は、血に濡れた唇を動かし、

かすれた声を絞り出した。


「悪役令嬢……」


ヴィオレッタの身体が、凍りついた。

この世界で、

その言葉を知っている者はいるはずがない。

男は咳き込み、血を吐いた。


「聖女のために……お前は、死ななければ……」


「何を言っているの?」


ヴィオレッタは、ガルドの背後から男を見た。


「あなたは、誰?」


男は笑った。

壊れたような。

泣いているような。

奇妙な笑みだった。


「物語は……もう、始まっている」


次の瞬間。

男の身体が、大きく痙攣した。

首筋に、黒い筋が浮かび上がる。

それは生き物のように、顔全体へ広がっていった。


「離れろ!」


ガルドが叫ぶ。

騎士たちが、一斉に後退する。

男は、両手で喉を掻きむしった。

皮膚が裂け。

爪の間に、血が滲む。

口から、黒い液体があふれ出した。


「助け……」


男の声が、途中で途切れる。

身体が、弓なりに反った。

そして石畳へ倒れたまま、動かなくなった。

静寂。

誰も、すぐには声を出せなかった。

風だけが、血の匂いを訓練場へ運んでくる。


ヴィオレッタは、

足元が崩れるような感覚に襲われた。

悪役令嬢。

聖女のために死ね。

物語は、始まっている。

男は、確かにそう言った。

自分と同じように。

この世界がゲームだと、知っている者がいる。


「お嬢様」


マリーが、泣きながら近づいてくる。


「お怪我は、ございませんか?」


「私は、大丈夫」


声が、うまく出ない。

ヴィオレッタは、死んだ男を見つめた。

初めて見た、人の死。

ゲームでは、画面が暗転するだけだった。

短い文章と。

悲しい音楽。

それだけで、人が死んだことになっていた。


けれど、現実は。

血の匂いがする。

苦しむ声が、耳に残る。

死んだ身体は、もう動かない。


「この男は、私を狙っていたの?」


ヴィオレッタが尋ねると、

ガルドは刃物を確認した。


「その可能性が、高いかと」


「誰が、矢を?」


騎士の一人が、屋敷の屋根を見上げる。


「見張りの弓兵です。

男がマリー殿へ刃を向けたため、

射たものと思われます」


マリーを、人質にしようとしたのかもしれない。

ヴィオレッタを、おびき出すために。


「生け捕りには、できなかったの?」


ガルドの表情が、わずかに曇った。


「腹部の矢だけなら、

すぐに死ぬ傷ではありません」


では。

男を殺したのは、あの黒い筋。

口からあふれた、黒い液体。


「毒……?」


「分かりません」


ガルドは、男の首元を布で覆った。


「少なくとも、通常の毒ではないでしょう」


ヴィオレッタの背中を、冷たい汗が流れた。

証拠を残さないため。

口封じ。

誰かが、この男を使って自分を殺そうとした。

そして失敗した瞬間に、男まで殺した。


「ガルド」


「はい」


「このことは、お父様へ報告して」


「すでに、使いを向かわせました」


「それから、男の身元を必ず調べて」


「承知いたしました」


ヴィオレッタは、震える手を握りしめた。

もう、三年後ではない。

死亡ルートは、すでに始まっている。


物語の開始を待つことなく、

何者かが自分を殺そうとしている。

しかも敵は、ゲームの物語を知っている。

あるいは、物語そのものを裏側から動かしている。


「聖女のために、私が死ぬ……」


小さく呟く。

ゲームでは、そうだった。

聖女が幸せになるために。

悪役令嬢は、罰を受ける。


けれど。

聖女本人が、それを望んでいるとは限らない。

まだ会ってもいない少女を、

敵だと決めつけるのは早い。


この男を操った者が、

聖女を利用している可能性もある。

ヴィオレッタは、自分の頬を両手で挟んだ。

怖い。

逃げたい。

屋敷の奥へ隠れて、誰にも会いたくない。


けれど。

隠れていても、殺しに来る。

それなら、敵の正体を突き止めるしかない。


「聖女様との面会」


ヴィオレッタは、血に濡れた石畳から目を上げた。


「絶対に、行くわ」


逃げない。

聖女に会う。

そして、確かめる。

彼女が敵なのか。

自分と同じように、何かへ巻き込まれているのか。

聖女ルートが、

本当に自分の死を必要としているのか。


もし、この世界の物語が

自分を殺そうとしているのなら。


「壊してやる」


今度は、はっきりと口にした。


「私を殺さなければ完成しない物語なんて、

全部壊してやる」


その言葉を聞いたのは、

マリーとガルドだけだった。

けれど、遠く離れたルミナス大神殿で。

祈りを捧げていたリリアの胸に、

突然、鋭い痛みが走った。


彼女の脳裏へ。

血に濡れた石畳と。

震えながら立つ、黒紫色の髪の少女が浮かぶ。


「ヴィオレッタ……」


まだ会ったことのない少女の名が、

自然と唇からこぼれた。

そして、リリアの背後にある女神像の瞳から。

一筋の黒い涙が、静かに流れ落ちた。

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