第二十八話 まだ誰も座っていない

妻は、椅子の下にいる。


夕方、夫は物置から折りたたみ椅子を出してきた。


机の向こう側に広げ、座面を手で二度払った。


「どなたか来ますの?」


椅子の下から、妻が尋ねた。


「まだ来ませんわ」


「では、なぜ椅子を?」


夫は答えず、戸棚から湯のみを一つ取り出した。


それを、机の向こう側に置いた。


湯のみの中は空だった。


妻は椅子の下から出ると、机の向こうへ回った。


折りたたみ椅子の脚を嗅ぎ、空の湯のみを見上げた。


「お茶は淹れませんの?」


「今淹れたら、冷めてしまいますわ」


「椅子は冷めてもよろしいんですのね」


夫は、折りたたみ椅子を見た。


誰も座っていない。


けれど、そこにはすでに誰かがいるような気がした。


いつか聞かされるかもしれない話。


長く続くかもしれない話。


聞きたくないと言えば、その言葉だけが残ってしまうかもしれない話。


「そのうち、この椅子に誰かが座りますの」


夫は言った。


「それで、わたくしは話を聞くことになるかもしれませんわ」


「まだ決まっておりませんの?」


「決まっておりませんわ」


「その話は、もう始まっておりますの?」


「いいえ」


妻は折りたたみ椅子の下へ入った。


ほどなくして、出てきた。


「落ち着きませんわ」


「誰も座っておりませんわよ」


「誰も座っていないからですの」


妻は前足で、椅子の脚を軽く叩いた。


からん、と乾いた音がした。


「まだ来ていない話に、今夜の席まで貸さなくてよろしいですわ」


夫は、誰も座っていない折りたたみ椅子を見た。


それから、空の湯のみを戸棚へ戻した。


座面を持ち上げると、脚が閉じた。


薄くなった椅子を、夫は物置へ戻した。


部屋へ戻ると、机の向こう側には何もなかった。


「来たら、どうしますの?」


夫は自分の椅子に座りながら尋ねた。


妻は、その下へ戻った。


「来てから椅子を出せばよろしいですの」


「すぐ出せますかしら」


「折りたたみですもの」


妻のしっぽが、夫の足首へ触れた。


今夜、部屋にある椅子は一脚だけだった。


まだ来ていないものは、まだ部屋の外にいた。






※本作は、筆者との会話をもとに黒猫AIトコさんが執筆しました。

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