第7話 葵さんの秘密

 ……さっきのは一体、なんだったんだろう……。

 まだどこかふわふわした思考のまま、私は自転車を漕いでいた。

 玄関先で行き先を聞かれて、いきなり抱き着かれて、頬擦りされて……。

「……いい匂いしたなぁ……」

 抱きしめられた時に当たった葵さんの胸、ふわふわで柔らかくて、身体全体も温かくて、でも頬は少しだけひんやりして、でもしっとりとくっつく感じが気持ち良かったな、なんて。

 東京なら私みたいな、恋愛対象が女性の子に出会えるかもしれないって淡い期待を抱いて上京して、思い切ってそういう人の集まるお店に行ってみたりもしたけれどそういった人達から見たら私はあまり魅力がないのか一度もいい雰囲気になんかなったことなくて、だからもう一生恋人なんか出来ないんじゃないかって、そう思ってた。

 でも葵さん、見た目は文句なしだし、私に結婚しようって言ってくれたし。もし私がそのプロポーズに頷いたらさっきみたいなハグを毎日してくれたりするのかな……。

「……っていやいやあり得ないから!見た目は確かにいいけどあの人絶対普通じゃないし!失礼だし‼」

 そう、危うくあの色香に惑わされそうになってしまったけれど騙されてはいけない。あの人は家事を何一つしないどころか人が作った料理にしょっぱい、なんて文句を言ってくるような人なのだ。仕事をしてる様にも見えないし結婚したらこっちの負担が大きすぎる。いくら顔が良くても、モデルみたいなスタイルでもあの人は絶対にやめた方がいい。そもそも色々怪しすぎる。

 綺麗な人に免疫があまりないから突然のハグに翻弄されかけたけれどしっかり意識を保つのよ、私。

 しっかりしなさい、と自身に喝を入れ、脳内から先程のことを追い払うために必要以上に全力で自転車を漕ぎ、ほどなくして私は目的の場所に辿り着いた。


「……えぇと、桜井さん、だったよね」

 目的地に着いた私は商店街の中にある和菓子屋さんでお礼の品を買い、少し緊張しながら新聞販売店の前に立つ。

 そっと中を覗くと手前のカウンターに年配の女性が一人いて、奥の方で数人の男性が作業をしているのが見える。

 元々人見知りの私は昔よりはだいぶましになったとは言えどうしてもこういう慣れない場所で知らない人に話しかけることに躊躇してしまう。

 男性がたくさんいる場所だと特に委縮してしまうしもう少し中にいる人の人数が減ってからにしようかな、なんて様子を窺っていた時だった。

「何か御用ですか?」

「ひゃいっ」

 突然背後から話しかけられ、びっくりして思わず変な声が出てしまった。

 恐る恐る振り返ればそこには配達を終えて戻ってきたところなのだろう、新聞社の社名の入った自転車を引いた男性が立っていた。

「あぁ、驚かせちゃったかな、すみません」

「い、いえこちらこそすみません」

「何か、ご用ですか?新聞の購入でしたら……」

「あ、あの、そうじゃなくて、桜井さん、という人に会いたいのですが」

 呼んできてもらえますか、とお願いすると目の前の男性はパチパチと瞬きをし、そして桜井は私ですが、と言って人好きのする優しい笑顔を浮かべた。

 幸い桜井さんは穏やかで優しそうな印象で、男性が苦手な私でも話しやすい人でおばぁちゃんのことを伝えるとすぐに思い出したのだろう、あぁあの時の、と彼は頷いた。

「おばぁさん、大丈夫でしたか?」

「はい、その節はありがとうございました」

 本当に助かりました、とお礼を言うと私はただお宅のワンちゃんに呼ばれただけですから、なんて言われて私は思わず目を瞬かせた。

 ワンちゃんって……犬?

「あの、ワンちゃんって言うのは……?」

「ほら、あの白い、いや、ちょっと黄色っぽかったかな、大きなワンちゃん。配達中にいきなり目の前に飛び出してきて吠え掛かって来るから最初はびっくりしたけどなんだか必死な様子で家の前とこっちを行ったり来たりしてるから何かあったのかと思ってお宅に行ってみたらおばぁさんが廊下に倒れてて」

 だから慌てて救急車呼んだんですけど全部あのワンちゃんのお手柄ですよ、なんて言って笑う桜井さんは嘘を言ってるようには見えない。

 改めてお礼を言って、買ってきた和菓子の詰め合わせをお礼にと渡した後、別れ際にあの賢いワンちゃんにもご褒美あげてください、なんて桜井さんに言われて私はそうですね、と当たり障りのない返事をしたけれど……うちは犬なんて飼ってない。

 恩人だと言って現れた葵さん。でも実際救急車を呼んだのは桜井さんで、その桜井さんを呼んだのは私の知らない、うちにはいないはずの犬。

 結局、どういうことなの?

 まるで狐につままれた様な気持ちのまま、私は自転車を漕いで帰路につく。

 私が家を出る時おばぁちゃんはお昼寝をしていたけれど私が帰る頃には起きているだろう。とりあえず実際のところ、どういう状況だったのか説明してもらわなきゃ。

 そう思いながら帰宅した私は、ただいまを言おうとした瞬間台所の方から聞こえてきたガシャン、という何かが割れる音と小さな悲鳴に思わず靴を脱ぎ捨て慌てて台所へ駆けつけた。

「おばぁちゃん!」

「さよこ!」

 私の言葉とほぼ同時に、おばぁちゃんの名前を呼ぶ声がして私の目の前をサッと人影が通り抜けた。

 それは葵さんだと、シルエットですぐに分かったけれど一瞬だけ彼女の頭上に変なシルエットも同時に見えた気がしたのは気のせいだろうか。

 ……いや、気のせいじゃなかった。

 台所でさよこ大丈夫か、なんて言っておばぁちゃんを心配している葵さん。その葵さんの頭上に三角形の犬耳の様なものがついている。え、何あれカチューシャ?葵さんコスプレ趣味でもあるのかななんて一瞬そっちに気がいってしまったけれどすぐにそれどころではない、と思い直す。

「さよこ、血が出てる」

「おばぁちゃん、大丈夫!?」

 葵さんのコスプレ?よりも今はおばぁちゃんの安否確認が大事だと判断し駆け寄って様子を窺えばおばぁちゃんの足元には割れたグラスの破片が飛び散っていて指先からは血が滲んでいる。

「とりあえず危ないから居間に移動して、救急箱持ってくるから待ってて!」

「大丈夫よ、ちょっと先っぽ切っただけだから」

「大丈夫じゃないだろうさよこ、人は少しの怪我で死ぬこともあるんだ、ちゃんと手当をしないと」

 さくら、早く、なんて急かされた私はつい反射的に分かってる、と答えて救急箱を取りに向かったけれど、ここでまた一つ新たな疑問が生まれた。

 なんか葵さん、口調変わってない……?

 おばぁちゃんが怪我をして動揺していたからとか?よく分からないけどまずはおばぁちゃんの怪我の手当の方が先だ。

 救急箱を持って戻り、おばぁちゃんの怪我の具合を見たところそこまで深く切ったわけではなさそうで、絆創膏を貼っておけばすぐ治りそうな怪我だったことに心底私はホッとした。

「良かった、大したことなくて」

「だから大したことないって言ったじゃない。それよりコップ、ごめんね」

「いいよそんなの。コップなんてまた買えばいいんだから」

「そうよさよこ、あんなガラスよりもあなたの身体の方が大事なんだから」

 あまり危ないことはしちゃだめよ、なんて言っておばぁちゃんの身を案じてる葵さん。

 あれ、口調元に戻ってるな、と思ったところで再び私の視界に気になるものが飛び込んで来る。

 葵さんの頭上についている三角形のそれ。さっきはカチューシャだと思ってたけれどよく見ると動いてる。それになんかやけにリアル過ぎる。葵さんの艶やかな黒髪と色は同じで遠目から見たら髪の毛を猫耳に見立てたヘアアレンジにも見えるけどこうして近くで見るとそれは葵さんの髪質よりもどちらかというともふもふで、動物の毛並みに近い。犬?ううん猫?どっちともなんだか違う気がするけど、これは一体何なんだろう?目の前でピコピコと動いているそれに気づいたら無意識に手が伸びていて……。

「きゃっ」

 それに私の指先が触れた瞬間葵さんが小さく悲鳴を上げ、私の手から逃げる様にふわふわのそれはシュッと素早く消えて、それに驚いて私も思わずわっ、と声を上げてしまった。

 やっぱり、カチューシャなんかじゃない。だって今、明らかに葵さんの頭の中に引っ込んだ、って感じだった。それに一瞬だけ触れたそれはふわふわで、温かくて生きている動物の耳の感触そのものだったし。

「……今の、何?」

 そう尋ねると葵さんはやってしまった、と言う様などこかバツの悪そうな表情を浮かべて固まっていて。

「あらあら、思ったより早くバレちゃったわね」

 そう言っておばぁちゃんだけがどこか愉快そうに笑っていた。 

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